結婚してからの聡子と父の関係は良好とは言えなかった。実家に帰るたびに父の苦言を聞かされ、時には聡子が声を荒らげて口論になることもあった。公務員の父は、聡子の相手が収入の不安定な実業家だと知ると結婚には大反対だった。それでも結婚して息子になれば、少しは仲良くしてくれるものと期待していた。しかしそんな聡子の思いは、早くから崩れることになる。夫は何をやっても仕事が三年と続かず、常に生活に追われる日々を送る娘の姿を見るのが辛かったのだろう。たまに夫と実家を訪れても、父は夫と社交辞令程度の挨拶を交わすことしかなかった。それでも父は聡子を心配して、多額ではなかったが定期的に経済的な援助をしてくれていた。父にとって夫は、大きな夢ばかり追いかけるだけでうだつが上がらず、娘に金の工面をさせているただの道楽者で、とてもじゃないが男として認めることができなかったのだろう。できる限り実家に頼りたくないと思っていたが、一人っ子の聡子には頼る場所が実家しかなかった。今から思えば、どれだけ両親に支えられていたかを痛感する。父が亡くなってから一年後に母も静かに他界したが、両親がいなくなってからは一度も“ニラ豚”を食べたことはなかった。父と最後に会話をした夜の出来事は、頭の中に霧がかかったような状態で鮮明な記憶として残っていない。そんな父との思い出のニラ豚を天国シェフはどう料理してくれるのだろう。料理を食べるだけで、どこか重苦しい思いが消えるのだろうか? 聡子はこれから自分に起ころうとしていることの一片も想像できない不安を抱いていたが、同時に何故天国が人気店を閉店し、山奥で店を再開したのか、その理由を聞いてみたいという好奇心も消えてはいなかった。
しばらくして、再び車は天国の店を目指す。長坂のICを降りると、ショッピングセンターを通り過ぎ、民家が立ち並ぶ住宅地を抜け、徐々に山の上へと車がナビゲーションされていく。この辺りは八ヶ岳南麓エリアと呼ばれているらしいが南アルプスや富士山の眺望も素晴らしい。両側に畑が広がる景色が見えたかと思うと、いきなり車一台がやっとといった道幅の道路に誘導され、そこからは山道が続く。ハンドルを握る手も緊張していた。そして道が蛇行しながら徐々に上っているのがわかった。山道に入ってからしばらくは別荘のような建物がポツポツと見えていたが、五分も走ると人気を感じるものが視界から消えた。聡子に新たな緊張が走る。大丈夫だろうか。本当にこんな山奥に店があるのだろうか。平坦と上りの道を繰り返しながら更に五分ほど走ると、今度はかなり急な坂があった。その坂を上ったところでいきなり視界が開け、ナビゲーションが目的地に到着したことを知らせてきた。どうやらここが行き止まりのようだった。
到着時間は十三時。予約時間オンタイムだ。道から少しだけ見下ろす位置に尖った三角屋根のログハウスが見えた。聡子が今いる道から、そのログハウスまで石を敷き詰めた緩やかなスロープが続いている。そしてそのスロープの始点には、「あなたに会える、ごはん屋」という文字が書かれた板の看板が立っていた。聡子は車から降りると、店の入り口を目指し、スロープを下り始めた。スロープの右側は鬱蒼とした木々が生い茂り、その奥がどうなっているのか想像もできないほどの森が広がっている。そして左側は森の重々しさを掻き消すように一面紫色のラベンダーが咲き誇り、辺りはどこか幻想的な雰囲気を醸し出している。
ログハウスの玄関前には、スロープに敷き詰められているものと同じ石が点在しており、幻想的な雰囲気に加え、高級感も感じられた。聡子は扉の周りを見渡してみる。インターホンのようなものは見当たらない。ふと右側に一本の細いしめ縄のようなロープが垂れており、見上げて確認すると、ベルがぶら下がっている。聡子は手を伸ばして、その紐を引き、ベルを鳴らした。
いきなり天国シェフが出迎えてくれるのだろうか? それともこんな秘境の店でもスタッフがいるのだろうか? 色々なことを想像しながら、聡子は目の前の扉が開かれるのを待った。
しばらくして、扉が静かに開き、中から懐かしい天国シェフが現れた。天国の外見は、聡子が店に通っていた頃と全く変わっていなかった。
「野上様、ようこそいらっしゃいました。迷われませんでしたか?」
外見も声も昔と変わっていない。「こんな声だった……」と聡子は懐かしさで言葉に詰まってしまった。天国は、そんな聡子の様子を窺いながら、店の中へと案内した。そして短めの廊下の先にある部屋に到着すると聡子の方を振り返り、再び言葉をかけた。
「野上様、ご無沙汰しています。四年ぶりでしょうか?」
天国が自分のことを覚えていたことに聡子は随分と驚いたが、やっとの思いで口を開いた。
「とても心配していました。またお会いできたなんて……。嬉しくて言葉が見つからないです。そして覚えてくださっていたなんて」
「もちろん覚えています。一度でも店に来ていただいた方のお顔は忘れません。定期的に通っていただいていたお客様は、お名前も覚えています」
天国の顔から笑みがこぼれる。
「では、予約を入れた時にお気づきだったのですね?」
「はい」
「天国さん、何故こんな山奥でお店を……」
聡子は天国が自分を覚えてくれていたことの嬉しさから、早々に立ち入った質問をしてしまった。天国は苦笑しているが、答えない。咄嗟に気まずさを感じ、聡子は話題を変えた。
「料理とはいえないシンプルなものでお恥ずかしいのですが、父との思い出の料理ということに嘘はありません」
聡子は少し気恥ずかしさを感じながら言った。天国が何事もなかったかのように返答する。
「嘘だなんて思っていないですから、ご安心ください。こんな山奥までいらっしゃってくださる方ですから、それなりの理由があると思っています」
父との思い出に苦しんでいるほどではないと思っていたので、予約を入れたことに少し罪悪感を覚えていたが、天国の答えに胸をなでおろし、やっと緊張から解き放たれたような気がした。そして、改めて店の中を見渡す余裕ができた。今聡子が立っている場所は三十畳ほどの広い部屋で、真ん中に四人用の大きな木のテーブルと椅子が置かれている。そしてその奥には大きなカウンターがあり、その向こう側がキッチンになっているようだった。この部屋以外には個室らしきものはなく、右側には、広めのテラスがあり、丸テーブルと椅子が二脚置かれていた。外観の三角屋根の部分が建物の中から見ると吹き抜けになっており、カウンターの真上に見える二階の手すりの奥に個室があるようだった。
「外から拝見するより、広く感じます。素敵なログハウスですね」
聡子は好奇の眼差しで部屋の中を一通り眺めている。
「気に入っていただけたようで良かったです。食事には素敵な空間が必要ですから」
天国は、さりげなく椅子を引き、聡子をテラスが見えるテーブル席に座らせ、温かなおしぼりと水の入ったグラスを置いた。
「思い出のご飯は人の数だけ存在します。この静かな森の中でお父様との記憶を思い出していただくだけで野上様にとって素敵な時間をご提供できると思います」
天国の優しい微笑みに、聡子は静かに頷いた。この時から聡子は天国に何か不思議な印象を感じ始めていた。(明らかに昔の天国さんとは違う)。山奥の木々に囲まれた一軒家というロケーションが聡子を不思議な世界へといざなっているのか、それとも天国が本当に不思議な人になってしまったのか、その区別はもちろんつかないが、漠然と何か奇妙なことが起こりそうな予感を感じていた。そして、いつの間にか聡子の中の天国への好奇心が薄らいでいた。
「それではお料理ができるまで、少しだけお待ちください」
天国はそう言って、キッチンへと立ち去った。
天国がキッチンの方に移動してから、聡子は目の前の大きな窓から見える森の景色をぼんやり眺めていた。時折、初夏の風が木の葉をゆっくりと揺らしている。部屋の中までその音が聞こえてくるわけではなかったが、細い枝がしなる程度の風が吹いているのがわかる。そして視覚に飛び込んでくるその風景が音を想像させた。窓枠が大きいせいか、それはまるで一枚の動く絵画を見ているようだった。
『あなたに会える杜のごはん屋』は全4回で連日公開予定