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 バスが停まり、快彦は座席から立ち上がってドアに向かった。下車したとたん、しやくねつに包まれて全身から汗が噴き出す。
 ハンカチで顔を拭いながら高い塀沿いの道を歩いていくと、静岡刑務所の正門にたどり着いた。正門のそばに立っている警備員に会釈して建物に入り、前回面会に来たときに立ち寄った受付に向かう。
 受付にいた職員に来意を告げると、講堂に行くように言われ、場所を教えられた。
 仮釈放許可決定書交付式が行われる講堂にはすでに四人の男女がパイプ椅子に座っていた。いずれもかなりの年配者なので、これから仮釈放を受ける受刑者の親なのだろう。場違いな思いを感じながら快彦は一番後方の席に座った。
 しばらくすると制服姿の刑務官とともに六人の私服姿の男性が入ってきた。その中に亮介がいた。この場にそぐわない派手な柄の長袖のシャツにジーンズ姿で、面会したときよりも髪が伸びている。
 刑務所の規則について自分はよく知らないが、仮釈放が決定した後には髪を伸ばせるのかもしれない。
 亮介と目が合ったが、表情ひとつ変わらない。
 ここに快彦がいるのは当たり前だと思われているようで、少ししやくに障る。
 所長の挨拶が終わると、五十歳前後に思われる山本という男性が呼ばれ、まわりから一歩前に出た。刑務官から紙を渡されて読み上げる。
「一つ、一定の住所に居住し、正業に従事すること……一つ、善行を保持すること……一つ、犯罪性のある者、または素行不良の者と交際しないこと……」
 たどたどしい口調で仮釈放後のじゆんしゆ事項を読み終えると、仮釈放許可決定書や仮釈放証明書などの授与が行われ、幹部の刑務官から今後のことについての助言や説明を受けて式は終了した。
 所長と幹部が退室し、それから少し経ってから残った数人の刑務官と身元引受人と受刑者も講堂を出た。刑務所の正門に行き、亮介たち受刑者が整列させられる。写真を持った刑務官に本人で間違いないか最後の点検をされた後に解放となったようで、亮介が笑みを浮かべながらこちらに向かってくる。
 亮介と並んで快彦は歩き出した。正門を出たすぐのところで亮介が立ち止まり、両手を広げて深呼吸する。
 何をしているのかと見つめていると、亮介がこちらに顔を向けて口を開いた。
「ほんの数メートル離れただけだけど、やっぱシャバの空気はうまいな」
 やはりそういうものなのかと思いながら、返す言葉が見つからない。
「なあ。ずっと黙ったままだけど、お勤めご苦労さまっす、とかねえの?」亮介が冗談めかして言う。
「別にぼくは亮介の子分じゃない」
 快彦が返すと、「つまんねえやつ」と不満げな顔で言って亮介が歩き出す。
「そっちじゃない。バス停はこっちだ」
 亮介を誘導してバス停に向かう。
「なあ。煙草持ってない?」亮介が訊く。
「吸わないから」
「そっか、残念。出所したらすぐに煙草が吸いたいから用意しておいてくれって、手紙に書いときゃよかった。もうちょっと気の利くやつだと思ってたけど」
 イラッとするが亮介の言葉を無視して歩く。
 バス停にたどり着いて五分ほど待ち、やってきたバスに乗り込んだ。まばらに乗客がいて、空いていた一番後ろの席に亮介と並んで座る。
 快彦はスマホを取り出して新幹線の時刻表を調べた。
「ちょうど駅に着いてすぐの時間に発車する新幹線があるな」
「次の新幹線にしようぜ」
 その声に、スマホから亮介に視線を移す。
「駅に着いたらとんこつラーメンが食べたい」
「こんなに暑い日にとんこつラーメンって……腹が減ってるんなら冷たいそばとかにしないか?」
「おれはこの六年間ずっと思い続けてきたんだよ。シャバに出たらすぐにとんこつラーメンが食いてえって」
 乗客の数人がこちらを振り返った。
「おまえにはわかんねえだろうなあ。切実なおれの思いが。ムショじゃラーメンなんか食べられないからな。もっともそばも出なかったけど。よくムショの飯は臭いって言うだろ? でも実際にはそんな変な臭いや味はしなかったな。だけど、おれはけっこう舌が肥えてるから、この六年なかなかつらいものがあったよ」
 ちらちらとこちらを見る乗客の視線などお構いなしに大声で亮介が熱弁をふるう。
「わかった。わかったから。駅に着いたらとんこつラーメンを食べよう」
 執り成すように言うと、亮介が満足げな顔を窓外に向けた。しばらく外の景色を見つめる。
「ところで……約束は守ってくれよな」
 亮介がこちらに顔を向けて、「約束がどうした?」と他人事のように訊く。
「手紙に書いただろう」
 身元引受人になる条件として四つの約束事を記した。亮介から届いた手紙には約束を守ると書いてあったが、先ほどの態度で快彦が出した手紙をきちんと読んだうえでの返事だったのか怪しく思える。
「ああ……そういえばそうだったな。わかったよ。守るよ」
 適当な物言いにさらに不安になる。
「じゃあ、どんな約束か言ってくれよ」
 快彦が詰め寄ると案の定、亮介が頭をかいて言葉を濁した。
 マジで、ふざけんなよ。
「約束を守る気はしっかりあるんだけどな。秀才のおまえと違って、おれは物覚えがよくないから。もう一回言ってくれよ」
「一つ、六ヵ月以内にぼくの家を出ていく。今日は九月二十日だから来年の三月十九日が期限だ」
「わかったよ」
「一つ、ぼくが入室禁止だと言った部屋には絶対に立ち入らない」
 亮介を住まわせるために長らく物置部屋にしていた二階の一室を整理したが、自宅のそれぞれの部屋には鍵はついていない。自室に入られたくないのはもちろんだが、父の書斎も両親の寝室だった部屋も自分にとっては大切な思い出が詰まった場所だ。亮介に与えた部屋とリビングダイニングと客間と水回り以外はいっさい立ち入らせたくない。
「わかった」
「一つ、お互いのプライバシーにはいっさい関与しない。この前会ったときに話したけど、ぼくは人と関わるのが好きじゃない。関わられるのはもっと好きじゃない。だから必要なとき以外は話しかけないでくれ。食事も別々にとるつもりだ」
 父に言われたからといって友人気取りをされるのはまっぴらごめんなので、はっきりと告げておく。
 こちらを見つめる亮介の眼差しがそれまでのものから変化したのを感じた。
「返事は?」
「わかったよ……あともう一つは?」
「それは後で話すよ」
 まわりに人がいるので今は話さないほうがいいだろう。
「何だよ、気になるじゃねえか。話せよ」
「いいよ、後で」
「途切れ途切れに言われたら忘れちまって、守れる約束も守れねえかもしれねえぞ」
 こいつはわざと忘れた振りや、わからない振りをしているのではないかと勘繰った。自分の言動で動揺する快彦を見て楽しむために。
 しかたなく快彦は亮介の耳もとに顔を近づけた。
「一つ、仮釈放中は絶対に罪を犯さない。どんな軽微な罪も」小声でささやくように言う。
「仮釈放が解けたら罪を犯してもいいっていうのか?」
 亮介の言葉に、ふたたび乗客の何人かがぎょっとしたようにこちらを振り向く。
 もう勝手にしてくれ。
「そうなったら身元引受人としてのぼくの責任はなくなる。罪を犯したいなら勝手にすればいい。ただ、その場合は二度ときみには会わないし、もちろんもう身元引受人になることもないけどね」
 投げやりになって快彦が言ったすぐ後にバスが停まった。亮介に据えていた視線を窓外に向ける。静岡駅に着いたようだ。
 ドアが開くと、乗客たちが好奇の視線をこちらに向けながら、そそくさとバスを降りていく。
 乗客から投げかけられる視線の意味にまったく気づいていないような顔で亮介が立ち上がり、ドアに向かう。亮介に続いて快彦は最後にバスを降り、ふたりで駅周辺を歩き回った。
「そこの店にしよう」
 目の前にあるラーメン店を指さしながら言って亮介が店内に入る。入り口近くの券売機の前で亮介が立ち止まり、ズボンのポケットに入れていた財布を取り出す。 
 快彦も財布を取り出そうとすると、「いいよ」と亮介が手で制する。
「わざわざ静岡まで出迎えに来てくれたんだ。ここはおごってやるよ。とんこつラーメンでいいか?」
 快彦が頷くと、亮介が券売機に千円札を二枚入れて七百円のとんこつラーメンのボタンを二回押す。カウンターに移動して並んで座る。しばらくすると目の前にラーメンが置かれ、快彦は割り箸を手に取った。
 丼に箸を伸ばそうとしたとき、「二日分の給料だ。よく味わって食えよな」と亮介の声が聞こえ、隣に目を向けた。
「二日分の給料?」
 快彦が言うと、「ああ、そうだ」と亮介が頷いた。
「あそこでのおれの初任給は時給六円十銭だった。それから何年かして最終的には時給四十三円五十銭まで出世したけどな。一日八時間働いて三百四十八円。七百円のラーメンだから約二日分だ」
 亮介の話に気が重くなりながら快彦は箸を動かした。
 二日分の給金にはとても見合わないと思うが、それでもラーメンはうまかった。
「今、全財産はいくらあるんだ?」ラーメンをすすりながら快彦は訊いた。
「もともと持っていた領置金が四万円ほどで、六年間の作業報奨金が十五万円ほどだ」
 合わせて二十万円弱か。快彦の自宅を出て部屋を借りるには敷金や礼金などの契約金も含めて三十万円から四十万円は必要になるだろう。
「とにかく一日も早く仕事を見つけろよ。それでぼくの家にいる間に新しい部屋を借りるための資金を貯めるんだ。一日だって期限は延ばさないからな」
「わかってるよ」面倒くさそうに答えて亮介が正面に顔を戻す。
「ところで……それまで仕事は何をやってたんだ?」
ちゆうにある居酒屋で働いてた。頑張って金を貯めて、将来は自分の店を持ちたいと思ってたんだけどな……」こちらに顔を向けることなく亮介が言う。
 どこか遠くを見つめるような眼差しに思えた。
 人を死なせて前科者になったことで、その思いを果たすのは難しいと感じているのかもしれない。
 ラーメン店を出ると、「ごちそうさま」と快彦は一応礼を言って、亮介とともに静岡駅に入った。新幹線の券売機に向かおうとする快彦を亮介が呼び止める。
「ちょっとあそこで土産を買っていきたいから」駅構内にある土産物屋を指さして亮介が言う。
「土産?」
 静岡にいるといっても刑務所に服役していたのに、よくそういう気分になれるものだと半ば感心する。
「まあ、観光で来たわけじゃないけど、一応な。悪いけどおれのぶんの切符も買っておいてくれ」
 財布から取り出した一万円札を快彦に渡すと、土産物屋に向かって亮介が駆け出していった。

 ドアを開けて玄関に入ると、快彦は鍵をかけて靴を脱いだ。
 珍しく静かだ。いつもよりも帰りが早いので、快彦の存在にまだ気づいていないのかもしれない。
 リビングダイニングに入ったが、それでもロウの吠え声は聞こえない。
 室内を見回すとソファの上で悠々ゆうゆうとくつろいでいるロウの姿が目に留まり、忌々いまいましい思いに駆られた。
 座面の低いソファに座ると顔に向かってロウが飛びかかってくるので、しばらく自分は使っていない。どんなに疲れて帰ってきても、この家の主人であるはずの快彦はいつも硬い背もたれの椅子で我慢しているというのに。
 テイクアウトした二人分の寿司を入れた袋をテーブルに置き、快彦はひさしぶりにソファに座った。とはいってもロウが中央にでんと横たわっているので、身を縮めるようにしてだが。
 肩をすぼめながら深くもたれかかると、思わず重い溜め息が漏れた。
 何とも疲れる一日だった。
 もちろん川越と静岡を往復したこともあるが、それ以上に亮介と過ごした時間に疲弊させられた。新幹線に乗ってからも会話の端々で快彦を苛立たせ、時にげんなりさせた。
 これから保護観察所に行かなければならない亮介と東京駅で別れたときには心底ほっとしたのだ。
 子供のときからおしゃべりだった気がするが、あの男はじようぜつで、軽薄で、遠慮がなく、教養もなさそうだ。数時間接しただけで快彦が苦手で嫌いな要素をかなり満たしている人間だと感じさせられた。
 あの男とこれから最悪半年は一緒に過ごさなければならないと思うと、どうにも気が滅入ってしょうがない。
 快彦は隣に目を向けて「ロウ」と呼びかけたが、ロウはこちらに顔を向けずにあくびをするだけだ。
「いけ好かないやつだけど、半年の辛抱だからよろしくな」
 そう言いながらロウの背中を撫でたが、唸り声を上げられてすぐに手を引っ込めた。
 リビングダイニングはロウの縄張りと化している。立ち入る者には容赦なく吠え、噛みつくだろう。だから亮介がここで過ごす時間はほとんどないはずだ。
 ロウを飼って初めてよかったと思いながら快彦は立ち上がり、着替えをするために二階の自室に向かった。

 

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