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「村瀬先生――新田さんというかたからお電話が入っています」
事務員の松下の声が聞こえて、快彦は目を向けた。新田という人物に心当たりがない。
「とりあえずこちらに回してください」
松下に告げて外線ボタンが点滅すると、受話器を持ち上げて「お電話代わりました。村瀬です」と電話に出た。
「もしもし……突然、お電話を差し上げてしまい申し訳ありません。わたくし、渋谷にあります道玄坂法律事務所というところで弁護士をしております新田と申します」
丁寧な口調の男性の声が聞こえた。
東京の弁護士が自分にいったい何の用だろうか。
「実は……村瀬先生に折り入ってお話ししたいことがございまして……」
「どのようなことでしょうか?」
「できましたら直接お会いしてお話しさせていただきたいと思っておりまして……近々、お時間を作っていただくことはできないでしょうか。もちろん村瀬先生のご都合の良い場所に伺いますので」
どんな話なのかとても気になる。
「まあ、それはかまいませんが……どのようなお話か、触りだけでも聞かせていただけないでしょうか」
「村瀬先生のご親族についてのお話です」
「わたしの親族の?」
どんな内容なのか、さらに見当がつかなくなった。
「この続きはぜひお会いしたときにお願いできないでしょうか」
「はあ……まあ……」悶々としながらもそう応えるしかない。
「ちなみに本日のご予定はどのような感じでしょうか?」
「夕方まで事務所におりますが」
「この後、そちらにお伺いしてもよろしいでしょうか。指定していただければその時間に伺うようにしますので」
こちらも、この悶々とした思いを今日以降に引きずりたくない。
「わかりました……三時にこちらに来ていただくのでいかがでしょうか」
快彦が言うと、「了解しました。どうかよろしくお願いいたします」と声が聞こえて電話が切れた。
内線ボタンが点滅して、快彦は受話器を持ち上げた。
「新田さんがお見えになって、応接室にお通ししています」
松下の声を聞いて、「わかりました」と受話器を下ろし、机の上に置いてある名刺入れを手に取って立ち上がった。
応接室の前にたどり着くと、ノックをしてからドアを開けた。ソファに座っていた男性がすぐに立ち上がる。
「お時間を作っていただいてありがとうございます」五十歳前後に思える男性が恐縮するように頭を下げる。
「いえ、こちらこそ。渋谷から埼玉の浦和まで来ていただいて」
名刺を交換すると、「つまらないものですが、事務所の皆さんでお召し上がりください」と菓子折りを渡された。「どうもすみません」と快彦は受け取り、向かい合わせに座る。
「あの……わたしの親族のことでお話があるとのことですが、いったいどのような……」
快彦が切り出すと、新田が居住まいを正して「ハスミリョウスケさんのことでご相談させていただきたくて」と返した。
その名前に覚えがなく、快彦は首をひねった。
蓮見は母の旧姓だ。
「知世さんのお兄さんである昌弘さんの息子さんです」
そこまで言われて、ぼんやりとだがその人物のことを思い出した。
母には奄美大島に住んでいる兄がいた。その息子である従兄弟が、たしかに自分と同い年で亮介という名前だった。すっかり忘れていたが、交流した記憶が何となくある。明るくて活発な子だった気がする。
だが、もう二十年以上も会っていない。埼玉と奄美大島とは距離が離れていることもあり、母方の親戚との交流はほとんどなかった。そして母が亡くなってからは完全に没交渉になっている。伯父や伯母が母の葬儀に参列していたかどうかははっきりと覚えていないが、少なくとも亮介がいなかったことはたしかだ。
亮介と最後に会ったのは、母が亡くなる三年前、奄美大島で昌弘の家族と一緒に暮らしていた祖母の葬儀でだった。
「あの……それで……その亮介くんのどういった話なんでしょう……」戸惑いながら快彦は訊いた。
「実は六年ほど前に蓮見さんはある事件を起こしまして、わたしが弁護を担当しました」
「どのような事件を?」
「傷害致死です」
新田を見つめながらぎょっとした。
「飲み屋で一緒に飲んでいた男性と喧嘩になり、相手に暴行を加えて死なせてしまいました。裁判で懲役七年の刑が言い渡されて現在は静岡刑務所に服役しているんですが……最近、わたしのもとに彼から手紙が届きましてね。仮釈放の申請をしたいので何とか身元引受人を捜してくれないだろうか、と」
「まさか、その身元引受人をわたしに……ということですか?」
動揺しながら快彦が訊くと、新田が頷いた。
冗談ではない――
「あの……ちょっと待ってください。わたしと彼とはもう二十年以上も顔を合わせていないんですよ。そんな人間に身元引受人を頼むなんておかしくないですか? 彼の家族になってもらえばいいじゃないですか」
「それが難しいんです。蓮見さんのお母さんは十二年前にお亡くなりになっているので……」
「お父さんもお亡くなりになったんですか」
快彦が訊くと、「わかりません」と新田が首を横に振った。
「わからない?」
「蓮見さんが子供の頃に失踪してしまったそうで」
快彦は言葉を失った。
何とか言い返そうと亮介についての記憶を引っ張り出す。亮介は自分と同じく一人っ子だった。祖父も祖母もいない。
「お父さんが失踪してから亮介さんはかなり苦労されたようです。家計を支えるために十七歳のときに高校を中退して働き始めたそうですが、二十歳のときにお母さんが亡くなり、ひとりで東京に出てくることにしたとのことです」
そして二十六歳で人を殺して刑務所に服役することになったということか。
「彼の手紙には埼玉に住んでいる従兄弟が弁護士をしているらしくて、ぜひわたしのほうからその人に自分の身元引受人を頼んでもらえないかと村瀬先生のお名前が書いてあって……事務所を調べてご連絡を差し上げたというわけです」
「そう言われても……」
新田の話を聞いて何か引っかかるものを感じたが、それが何であるのかわからないまま快彦は頭をかきむしった。
「もちろん人を死なせてしまった罪は重大ですし、これからの人生をかけて償っていかなければならないと考えています。手紙を読むかぎり、蓮見さんは事件を起こしたことを深く反省していて、更生の意欲も窺えました。弁護を担当したわたしも、できれば一日も早く社会復帰をして、更生の道を歩むのを望んでいます。失礼ですが、村瀬先生は刑事弁護をされますか?」
「年に何度かは……」
本当はやりたくないが、所長の方針で年に数回は刑事弁護をするように命じられていて、渋々ながら受け持っている。
「それならおわかりいただけると思いますが、三十二歳の今仮釈放されるのと、このまま刑務所で過ごして身寄りのない状況で社会に放り出されるのとでは、彼の心情や更生への意欲に相当な違いが出るのではないかと思います。実際、満期出所よりも仮釈放のほうが再犯率が低いというデータがあります。それに弁護士という職業柄、彼の身元引受人は村瀬先生が適任なのではないかと感じるのですが」
それであればあなたがなればいいではないかと思ったが、口にはしなかった。
「どうかお願いできないでしょうか」新田が深々と頭を下げる。
「ちょっと……すぐにはお答えできません」
歯切れ悪く言うのと同時に新田が顔を上げた。
「もちろんそうでしょうね。ひとつご提案なのですが、実際に蓮見さんにお会いになってみてはいかがでしょうか」
「静岡刑務所に面会に行けと?」
冗談ではない。どうして自分がそんなことをしなければならないのだ。従兄弟とはいえ、何十年も会っていない男だ。どんな大人になっているかわからないし、面倒はごめんだ。
「もちろん費用はこちらで持ちますし、わたしも同行いたします。今現在の彼と話をしてみて、お決めになってはいかがでしょうか」
「どうしてそこまで彼のためにしてあげるんですか」
疑問に思って問いかけると、こちらを見つめ返しながら新田が首をひねる。
「新田先生にとっては依頼人のひとりでしかないでしょう。ご自身が受け持った依頼人のすべてにこうしたアフターケアをしてらっしゃるんですか?」
快彦の事務所を調べて手土産を携えて訪ね、さらに静岡の刑務所まで面会に赴き、ふたり分の費用を負担するという。
「たしかに依頼人のすべてにこのようなことをしているわけではありません。六年ほど前に受け持った事件でしたが、今でも心のどこかで彼のことが気になっていた……というのがあったからでしょう」
「気になっていた?」
「彼はまわりからとても人望があったようです。職場の人たちも、友人たちも、事件を起こした彼のことを悪く言う人はひとりもおらず、むしろ彼がそんな事件を起こすなんてとても信じられないと口々に言っていました」
「でも、亮介くんがやったんですよね?」
「目撃者もいますし、本人もそう認めています。情状証人として出廷してもいいという人がたくさんいましたが、その人たちを裁判の証言台に立たせてさらし者にするのは嫌だと言って彼は断りました」
「職場の人や友人に身元引受人になってもらったらどうですか?」
「わたしも手紙にそう書きましたが、彼はそれを望みませんでした。あくまでも村瀬先生に身元引受人になってほしいと。どうか会うだけでも会ってもらえないでしょうか。手紙にも二十数年ぶりに村瀬先生に会いたいと書いてありました」
最後の言葉を聞いて、先ほどから引っかかっていたものが何であるのかに気づいた。
「……亮介くんはどうしてわたしが弁護士をしているらしいということを知っていたんですか?」
「そのことについては何も書いていませんでしたので、わたしにはわかりません」
そう言って首を横に振る新田を見つめながら、どうにも不可解な思いに駆られる。
「わかりました……彼に会うだけ会ってみます」
快彦が言うと、「そうですか! ありがとうございます」と新田が相好を崩した。
身元引受人になる気は毛頭ないが、どうして快彦が弁護士であるらしいというのを知っているのかの謎は解きたい。
「籠の中のふたり」は全4回で連日公開予定