『籠の中のふたり』(小社刊)と『かぐ』(光文社刊)が7月に発売されたが、この2作のプロモーションが話題を集めている。江戸川乱歩賞作家である薬丸岳と直木賞作家である澤田瞳子──人気と実力を兼ね備えた2人が試みたのは手書き原稿630枚プレゼントと全冊(約1万冊)直筆サイン本。パワフルにして前代未聞の施策の裏側と、出版や書店に対するそれぞれの想いを聞いた。

聞き手=内田 剛(ブックジャーナリスト) 撮影=前 千菜美(光文社)

 

──『籠の中のふたり』が生原稿の展示とともに書店を賑わせております。本作の発売にあたり、書店展示用・サイン会参加特典・読者プレゼントという3つの用途で、薬丸さんが作品全編を特製の原稿用紙に書き起こしたそうですね。このアイディアは薬丸さんから提案されたのでしょうか。

 

薬丸岳(以下=薬丸):はい。これまで作品の宣伝活動に関しては、出版社さんにお任せだったんですが、なんとなくルーティーンになっていると感じていました。作品を書いて発売する──それだけで自分の作品のよさがちゃんと読者に伝わっているだろうかとも。

 

──書店の数も本の売り上げも年々低下していますし、同じ売り方をしていたら広がっていかないですからね。

 

薬丸:自分はこのままこういう仕事のやり方でいいんだろうかと、3~4年ぐらい前からモヤモヤしていたんです。そんな思いがあって書いた『籠の中のふたり』が、今までとテイストがかなり違ってハートフルな作品で、より多くの方に読んでいただけそうだと感じ、発売するときに「誰もやったことがないこと」を何かやりたかったんです。

 

──それが手書きの生原稿プレゼントだったんですね。

 

薬丸:はい。「原稿用紙で何かやりたい。全て手書きで、それをプロモーションに使うのはどうか?」と双葉社の担当編集さんと担当営業さんに提案したら、「確かに誰もやったことはないですが、相当大変な作業になります。本気ですか?」と言われました(笑)。いろいろと相談して、複製はなく、どのシーンがお手元に届くかわからないというのは希少性もあるし面白いとなりました。書店さんも読者さんも喜んでくれるのではないだろうかと。ちょっと贅沢を言いまして特製の原稿用紙を作っていただきました(笑)。

 

今作のために書き起こした生原稿

 

──この施策のために 一冊まるまる25万字ほどある本文を原稿用紙に書き直したんですよね?

 

薬丸:はい、普段はパソコンで執筆していますから。今、手書きで物を書くことはあまりありません。ゲラ作業ぐらいですね。

 

本は誰でも平等に手に取れるもの

 

──澤田さんの企画も前代未聞です。まさかの全冊手書きのサイン本。しかも重版にもサインを入れる。初版でいったい何冊書いたのですか?

 

澤田瞳子(以下=澤田):約1万冊ですね。文字数は「澤田瞳子」の4文字×1万=4万字ですから、原稿用紙だと100枚。薬丸さんの630枚に比べたら、たいした事はないですよ(笑)。

 

──いやいや、大変なことですよ! 作品の最後に「全冊サインに寄せる著者の言葉」があって、転売屋の「サイン本高額転売」の問題を挙げていました。この全冊サイン本企画は澤田さんからのご提案だったんですか?

 

澤田:はい、私からです。光文社さんには怒られるかなって思いながら、「ぜひ、やらせてください」と。デザインや製作、流通、スケジュール調整など、問題を洗い出してもらって、実現できるように各方面に調整をいただきました。本当にありがたいです。サイン本を購入したいというファンの方は多いのですが、私の場合、ネットを使わない高齢の読者が多いのが難点。最近、書店さんがよく実施するサイン本のオンライン販売ではなかなか届かないんです。本に著者サインという付加価値をつけて勝手に高値で売っていいんだ──そう思われたくない。本は誰でも平等に手に取れるもので、図書館でも書店でも平等であってほしいという思いが本当に強かったんですよ。だったらもう、全部サインを書いちゃおうって思いました。

 

『赫夜』にはサイン本しか存在しない

 

──やはり本のよさのひとつは、どこでもだれでも同じ値段で買えるということですね。

 

澤田:他の商品でそういうものはなかなかないじゃないですか。映画でも観る人や日時によって価格が違う。でも本だけは、最後の砦だと思うんです。

 

──いろんな作品を書かれている中で、『赫夜』でチャレンジした理由というのはありますか?

 

澤田:そうですね。私の作品は比較的ニッチなテーマが多かったのですが、この作品は平安時代の話とはいえ、「富士山噴火」という国民的関心のある話題なので、これはいい機会だと思いました。

 

──二つの施策とも、相当な覚悟がないとできないですよ。

 

澤田:薬丸さんは、どれぐらいの時間がかかりましたか?

 

薬丸:本来の仕事の合間にやっていたので、3か月近くかかりました。大体1時間で5枚ぐらいなんですよね。丁寧な字でちゃんと読めるように書かないといけないので、作業に時間をかけました。作品の執筆をする日には、いつもより早めに起きて、2時間で10枚を書いて、その後は執筆。執筆をしない日には、生原稿を午前中10枚、午後15枚くらいというペースでした。でも、1日25枚ほどが限度なんですよ。腕が限界を超えます。

 

澤田:私は最終的にサイン250枚を35分で書けるようになりました。最後のほうは光文社さんにお願いして、2泊3日のサイン合宿でスパートをかけました。

 

──もはや修行としか思えないです……。

 

澤田:最初の方はしっかりしたサインを書いてるんですけど、最後の方はだんだん速度への挑戦を目指したこともあり、ちょっと字にばらつきが出ました。薬丸さん、最初と最後で字は変わりませんでしたか?

 

薬丸:そうですね。本当に疲れている時は崩れますよね。でもその違いがあるからこその手書きじゃないですか? それも味ですから、きっと読者の皆さんも喜んでくれるのではないかと(笑)。

 

──とにかく受け取った人に喜んでほしいという純粋な思いですね。

薬丸:この生原稿施策以外にも、おそらく初めてじゃないかなという提案をしました。今回、約360ページのうち半分を電子書籍のアマゾン・キンドルで試し読みできるんです。物語が大きく動くギリギリ手前です。もちろん、僕は紙の本と書店さんに強い思い入れもありますが、電子書籍やオーディオブックなど、新しいメディアも含めて、小説が盛り上がっていくべきだと思っています。

 

──しかし、この生原稿には吸い込まれる魅力があります。

 

薬丸:事前にゲラを読んでいただいた書店さんからの感想を全部読んで、物語の舞台に近い書店さんはもちろんですが、具体的に好きなシーンを挙げていただいた書店さんには、該当するシーンの原稿を送っています。

 

澤田:希望に沿うようなセレクトまでしてるんですか!

 

薬丸:主人公が電車に乗る場面があり、母親が自殺した場所を通るのが嫌で遠回りして家に帰るのですが、「芸が細かくて感動した」という書店さんからの感想があったので、その部分の原稿をお送りしました。どうせ差し上げるなら、より喜んでいただきたかったんです。

 

澤田:薬丸さんの書店さんに対する思い、すごいですね。

 

薬丸:僕は発売直後に行く書店まわりが大好きなんですけど、ここ数年、コロナの間はできなくて。コロナ禍が明けても、これまでのようには行けなくなりましたね。

 

実現するかは未知数でも提案

 

──これまで大事にしていたものが希薄になったからこそ、生原稿のアイディアが生まれたわけですね。

 

薬丸:そうですね、あと、僕の仕事の考え方として、これからは書くことはもちろん、売ることも含めて、自分にできることをしっかりやりたい。出版社の負担にならないような、自分の力でできることがあったら、どんどん提案していきたいです。

 

──作家も作品を書いてるだけではやっていけない時代になったというのは、澤田さんも同じ思いでしょうか?

 

澤田:そうですね。私は書店さんに育ててもらったという思いが強い。子供の頃から本屋さんが好きだし、作家になって思うのは、作家ひとりが儲けられるビジネスモデルにはしたくなくて。やっぱり書店員さんや図書館司書さんも仲間にしたい。そのためには、読むということを大事にしたい。私たちが売り子になるとか、作家が何か儲けられるとか、そういうシステムではなくて、やはり最終的には本屋さんは本屋さん、書き手は書き手という役割をしっかり守った上で、みんなが幸せになれるお手伝いをしたいです。

 

 

元書店員の内田剛さん(中央)も異例の企画に驚く

 

──それぞれプロフェッショナルで、役回りがあるわけですね。

 

澤田:本屋さんに人が集まるお手伝いをしたいという思いの一環が全冊サイン本企画なんです。ちょっと本屋に行ったらサイン本があるというのも、買うきっかけになりますよね。

 

薬丸:たぶん僕も澤田さんも、今回の企画を提案した時には、もうダメ元で、必ずしも実現する話ではなかったと思います。ただ、それでいいと思うんですよね。仮にできなかったとしても、書店さんも作家も出版社も、本に関わる業界がもっと盛り上がることをどんどん考えていけばいいんです。

 

直木賞作家の転機となる作品

 

──出版に関わる誰もが楽しくならないとおもしろくないですね。

 

薬丸:僕はこれが25作目の作品なんですけど、今までで一番好きな作品だし、発売を一番楽しみにしていました。デビュー作の『天使のナイフ』以上です。

 

──まさに、薬丸ミステリーの節目の作品ですね。

 

薬丸:とにかく多くの読者に読んでほしい。だからこそ、スペシャルな企画にしました。僕は今までSNSはやっていなかったんですが、担当してもらっている7社の出版社と共同でXの公式アカウント(@yakumarugaku890)を発売前に開設しました。この作品があったからこそ、やろうと思ったことのひとつです。

 

──澤田さんにとっても『赫夜』は特別な作品ですか?

 

澤田:デビューして一四年、ずっと歴史・時代小説を書いてきました。かつては本当に過去のことを書いているだけと考えていましたけど、今作はそうじゃない。過去の出来事って、当時の人には今であって、ある意味では未来でもあるということを思いながら書けました。富士山はまたいつ噴火するかわかりません。私自身の歴史や過去に対する向き合い方で、今を生きることや社会に対する向き合い方も変わる。そう転換した作品となりました。

 

──薬丸さんは何か心境の変化があったんですか? 『籠の中のふたり』は本当にハートフルで爽やかな作品で、こんなに読後感がいい作品は初めてです。

 

薬丸:実は、元々こういう直球の話が大好きなんですよ。闇が深くなるよりも、だんだん色が透き通って見えてくるような。映画を観る時も、「ベタだけど泣ける話」が好みです。最近の僕の作品は死刑をテーマにした『最後の祈り』や無差別殺人から始まる『罪の境界』など、重い物語が多かったので、読んだ人の感想を見ると、「みんな十字架を背負っていて、その重みを感じる」とか「贖罪について深く考えさせられた」というものが多くて。もちろん、そうした感想もすごく嬉しいんですが、できれば清々しい物語を書きたいと思って臨んだのが『籠の中のふたり』でした。

 

──薬丸さんご自身の「籠の中」に入っていた部分が、最新作で解き放たれたと感じました。

 

薬丸:今まで僕の作品を「暗くて重そうだな」と敬遠していた方にこそ読んでいただきたい。僕の入門書的な作品に仕上がっていますから。

 

──最後にお二人から読者に向けてメッセージをお願いします。

 

澤田:世の中はどんどん変わっていくものです。『赫夜』にも書きました。「富士山なんか動かないものだと思っていたら、一夜にして姿を変えることもある」と。どんどん変わっていくものがあるから、人はいろんなことをやっていけると思うし、前例を覆すことができるということを、今回の薬丸さんと私の施策で示しているわけなので、二つの作品を本と親しむきっかけにしてほしいです。

 

薬丸:小説を読むという行為にチャレンジしてほしい。小説は映画や音楽とは違って、読む努力を強いる娯楽だと思います。文章を読むだけでもハードルが高い。ただ、小説だからこそ味わえる感動が間違いなくあります。小説を読むことが山登りのような感覚の人に、いまこそ一歩を踏み出してほしい。急斜面に見えていたのに、意外と楽かもしれない。頂上まで行ってみたら、そこでしか見えない風景があって、また登りたくなるということが読書ではよくあります。まず書店さんに行って、ジャケ買いでもいい。いろんなきっかけを大事にしてもらいたいですね。

 

(2024年7月22日 光文社にて)