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ドアが開き、ふたりの刑務官に挟まれるようにして被告人の月島信也が廷内に入ってきた。
快彦は弁護人席からこちらに近づいてくる月島を見つめた。
これから判決が言い渡されるが、月島の表情に緊張した様子は窺えない。むしろ笑みさえ浮かべているように思える。
二十七歳の月島は二ヵ月ほど前、街で因縁をつけてきたと言って男性に大怪我を負わせて逮捕された。過去にも同様の事件を起こして法廷の場に立たされているので、慣れたものなのかもしれない。
弁護人席の前にある長椅子に月島が腰を下ろすと、刑務官が手錠と腰縄を外して両脇に座った。
「ご起立ください――」と声が聞こえ、快彦は立ち上がった。男性の裁判官が入ってきて、一礼した後に席に座る。
「それでは開廷します。これから判決文を読み上げますので、被告人は証言台に来てください」
裁判長の言葉に、月島が立ち上がって証言台に向かう。人定質問を終えて裁判長が口を開いた。
「主文、被告人を懲役二年六月に処する。この裁判が確定の日から四年間その刑の執行を猶予する。その猶予の期間中被告人を保護観察に付する」
殊勝な表情で判決理由を聞く月島を見ながら白々しさを感じた。
判決理由の朗読が終わり、裁判長に促されて月島がこちらに戻ってくる。
「それでは閉廷します」
その声に、快彦は立ち上がって一礼した。裁判長が法廷から出ていくと、目の前に立っていた月島がこちらを振り返った。
「刑務所に行かずに済んでよかったですね」
快彦が声をかけると、「そうだね」と月島が口もとを綻ばせた。
「先生もよかったね。これでおれの顔を見なくて済むって清々してるっしょ?」
月島を見つめながら何も言葉を返せない。
「最初の接見のときからおれを見る先生の目でそう感じたよ。弁護人をしているけど、おれらみたいな輩は毛嫌いしてるんだろうなって」
「刑務所に行かなくて済むといっても完全に自由の身になったわけではありません。罰金刑以上の刑に処されたり、保護観察の規則を守らなかったりしたら、執行猶予を取り消される可能性もありますので気をつけてください」
快彦は冷ややかに言うと、月島から視線をそらして荷物をまとめた。法廷を出てエレベーターに向かう。
弁護人をしているけど、おれらみたいな輩は毛嫌いしてるんだろうなって――
法廷から離れても、先ほどの月島の言葉が頭にまとわりついてくる。
月島の言うとおり犯罪者を毛嫌いしているが、最初からそうだったわけではない。
快彦が弁護士を志望した動機はいくつかある。そのひとつは子供の頃から父が安心できる仕事に就きたいと思い続けてきたことだ。
親が安心する職業というと、医師や学校の教師や公務員などがまず挙げられるだろう。大企業に勤めるのもそうだろうが、そのいずれも自分には向いていないと子供の頃から察していた。
血を見るのが何よりも苦手だったから、医師にはなれないと早々に諦めた。さらに教師や公務員や会社員になれば、その中で濃い人間関係を築いていかなければならなくなるだろうと考えた。
親が安心できて、それなりに高給をもらえ、さらに同じ人間とずっと接しなくて済みそうな職業ということで、選択肢の上位に挙がったのが弁護士だった。
弁護士も人と接しなければならない仕事だが、一つの案件が終わればそれ以降は関わりを持たないで済むように思えた。さらに事務所に所属したとしても、基本的にはひとりで案件を受け持つことが多いだろうから、同僚とあまり接しなくて済む。最終的には自分で事務所を構えてひとりで仕事をこなせばいいと考えた。
けっして高い志や意欲を持って選んだ仕事ではないのは自分でも認めるところだ。
それでも弁護士になったばかりの頃は、罪を犯した者の弁護をするのも仕事のひとつだと、それなりに使命感を抱いていたが、最初に請け負った刑事弁護によってその思いは覆された。
快彦が二十八歳のときに当番弁護士として初めて担当したのは、横山博史という同い年の男が起こした傷害致死事件だった。酒を飲んで泥酔していた横山が駅に向かっている途中、通りすがりの男性と肩がぶつかったことから口論となり、相手に殴る蹴るの暴行を加えてその場を立ち去った。目撃者の通報で男性は病院に搬送されたが亡くなり、その後の捜査で横山が逮捕された。横山には過去にも酒に酔った末に起こした傷害事件による前科があった。
警察署の留置場で接見したとき、相手を死なせるつもりはなかったと横山は泣きじゃくった。被害者への謝罪の気持ちを口にすると同時に、こんな事件を起こしてしまった自分の将来を悲観する言葉をあふれさせていた。
同い年ということもあって単なる依頼人のひとりとは思えず、少しでも早く社会に復帰できるよう、快彦は弁護活動に全力を尽くした。
裁判では被告人質問でも最終陳述でも横山は涙ながらに反省の言葉を口にしていたが、執行猶予が付かない懲役六年六月の実刑判決になった。
閉廷した後、快彦は悄然としている横山に「こういう結果になりましたが、これからも被害者やご遺族への償いの思いを持ち続けてくださいね」と声をかけた。すると横山はそれまで見せたことのないふてぶてしい顔つきになり、「けっきょくムショに行くんなら、泣いて損したよ」と言い残し、刑務官に連れられて去っていった。
それからは自ら望んで刑事弁護を引き受けることはなくなった。もっとも事務所の所長の方針で、年に一、二回は嫌々ながらやらなければならないのだが。
月島や横山や今まで担当した被告人と二度と顔を合わせることはないだろうが、今の事務所にいるかぎり同じような輩の相手をまたしなくてはならず、それを考えると憂鬱でしょうがない。最近では他の事務所への移籍も考え始めている。
裁判所を出ようとしたときに「おい、村瀬」と声をかけられ、快彦は足を止めた。振り返ると背広姿の中西が立っている。
「ひさしぶりだな。元気にしてたか?」中西が訊いてくる。
「はい。あいかわらずです」
司法修習の同期だが、自分よりも三つ年上なので一応敬語で応える。
「そういえば敦子から聞いたんだけど、織江ちゃんと別れたんだって?」
ふいに中西に言われ、快彦は動揺した。
織江と知り合ったきっかけは数合わせのために中西に半ば強引に誘われた合コンだった。
女性看護師四人と男性弁護士四人の合コンで、他の六人は目の色を変えて話に夢中だったが、快彦の向かいに座っていた織江はほとんど会話には乗らず、まわりの盛り上がりを邪魔しないように率先してみんなの食事を取り分けたり、ドリンクの注文を代わりにしていた。
けっきょく織江とはほとんど話をしなかったが、合コンが終わった後に女性陣の中で唯一好感を抱いた彼女にお礼のLINEを送ったことがふたりで会うきっかけになった。
後で聞いた話によれば、織江も自分と同様に合コンには興味がなかったが、同僚の敦子に数合わせのために強引に誘われ、渋々参加したとのことだった。
「織江ちゃん、ずっと元気がなさそうだって敦子も心配してたよ」
中西の言葉を聞いて、心がぐらついた。
織江から別れを切り出されたが、まだ自分に思いが残っているのだろうか。
「まあ……何があったか知らないけど、もったいないことをしたな。村瀬には出来過ぎた彼女だったから」
自分でもそう思っている。おそらく天国にいる父もそう思っているにちがいない。
ポストから郵便物を取り出し、快彦はドアに向かった。鍵を開けて玄関に入った瞬間、ロウのけたたましい吠え声が耳に響く。
靴を脱いで玄関を上がり、すぐ横のリビングダイニングに入る。電気をつけると、いつもの惨状が視界に浮かび上がった。
ロウに足もとを噛みつかれながら、快彦は鞄と郵便物をテーブルの上に置いてキッチンに行った。ドッグフードを用意してようやくロウから解放されると、トイレットペーパーを手に取って部屋中にまき散らされている糞と尿の処理をする。
一通りの片づけを終わらせ、冷蔵庫から缶ビールを取り出して椅子に座った。あいかわらずロウは快彦の足もとに噛みついている。
いつもであれば「いい加減にしろ」と足で払いのけるが、今はそうする気力も起きない。
昼間、中西に会ってから、織江のことだけが胸の中を占めている。
織江は今頃、どうしているだろうか。
別れてからずいぶんと経っているが中西から聞かされたように元気がないということは、織江はまだ快彦のことを思っているのかもしれない。もしそうだとしたら、自分から別れを切り出した手前、快彦に連絡したくてもできずにいるのではないか。
こちらから連絡してみようかと、快彦はズボンのポケットからスマホを取り出した。LINEを表示させ、メッセージを考える。
『今何してる?』とメッセージを打ち込み、間抜けだと思い直して消去する。元カノに対して『元気にしてる?』というのも、何だか軽薄な感じがする。
こちらの未練をあまり感じさせず、さりげなく近況を報告し合えるきっかけになるメッセージがいい。
だが考えれば考えるほど、どんなメッセージを送ればいいかわからなくなってくる。
ふと、あることを思いついて、快彦は足もとに目を向けた。ロウは我関せずといった様子でズボンの裾をかじっている。
スマホをカメラモードにして「ロウ」と呼びかけた。ロウが顔を上げた瞬間を写真に収める。
快彦は織江のLINEにロウの写真を送った。『新しい同居人。いや、同居犬か』とメッセージを添える。
そのまま食い入るように画面を見つめた。缶ビールを飲み切る頃に既読がついた。それからしばらくして『名前は?』と織江からメッセージが届き、胸の中が熱くなった。すぐに『ロウ』と返信する。
『かわいいね』とメッセージが届くと同時に、織江が好んで使っていた猫のキャラクターの『おやすみなさい』のスタンプが貼りつけられる。
とりあえず再生への第一歩としては上出来だろう。
そう自分を慰めながら、快彦は目についたテーブルの上の郵便物に手を伸ばした。ダイレクトメールや光熱費の請求書に交じって封書があった。封を切って中を確認すると、身元引受人宛てに送られてくる仮釈放が許可されたという報せだった。
蓮見亮介の仮釈放は九月二十日の水曜日に行われると記されていて、出所日に出迎えが可能かどうかを記す書面が同封されている。身元引受人が出迎えなくても仮釈放はされるとあった。
わざわざ仕事を休んで静岡まで行く義理もないだろう。
叔父さんはおまえの行く末を心配してたよ――
ふいに数ヵ月前に亮介に言われた言葉が脳裏をかすめた。
自分が死んだ後、もしおまえがひとりぼっちだったらそばにいてやってくれないかとお願いされて、わかりましたと約束した――
父がどうしてそんなことを亮介に託したのか、いくら考えても理解できない。
ひとりになったとしても別に心配されるようなことはない。きちんとした仕事を持ち、誰に迷惑をかけることなく生活している。
ずっと一緒に暮らしていた父なら誰よりもわかっているはずではないか。
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