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 玄関ドアを開けると、けたたましいえ声が耳に響いた。
 快彦は息を潜めながら中に入り、ドアを閉めて鍵をかけた。靴を脱いで玄関を上がる。
「わかった、わかった……」とすぐ横にあるリビングダイニングのドアを開けた瞬間、足首に鋭い痛みが走った。
「痛い! ロウ! やめろ!」
 快彦は自分の足もとに向けて叫んだが、靴下に噛みついたままロウは離そうとしない。
 リビングダイニングの電気をつけて中の様子があらわになると、こらえていた溜め息が漏れた。噛みちぎられたトイレシートの残骸と糞があちこちに散らばり、ロウの尿でできた水たまりがいたるところにある。
「待て! ステイ! お座り!」と立て続けに指示したが、いっこうに靴下を離そうとしないのでロウを引きずるようにしながら前に進んだ。キッチンに行ってドッグフードを皿に入れて床に置くと、ようやくロウが靴下から口を離して食べ始める。
 快彦は近くに置いてあるトイレットペーパーを手に取って、ロウが食事に夢中になっている間に糞と尿の始末を始めた。転がっている糞を回収し、尿の水たまりをトイレットペーパーで拭うと、部屋を出てトイレに向かった。トイレットペーパーごと糞と尿を便器に流すとリビングダイニングに戻り、心もとないほど脚の細くなった椅子に腰を下ろした。 
 ロウを飼い始めてもうすぐ一ヵ月になるが、ペットショップで初めて対面したときの健気さや可愛さが嘘のように、今では傍若無人な振る舞いばかりが目につく。
 犬のしつけ教室のホームページを見ながら何度もしつけに取り組んだが、いっこうに言うことを聞いてくれないで困っている。
 撫でてやろうと手を伸ばせば噛みつき、無視していれば足もとに飛びかかってくる。快彦がリビングダイニングにいないときには置いてある家具にかじりついているようで、テーブルや椅子の脚はぼろぼろになる始末だ。トイレ用のケージを用意してシートを敷いているが、一度たりともそこでしてくれたことはない。
 ホームページの情報によれば、ミニチュアピンシャーは運動能力がかなり高く、なかなか暴れん坊な犬種なので、初心者が飼うのは不向きだという。そのことを黙ったまま笑顔で快彦に売りつけたペットショップの店員を恨みたくなったが、飼ってしまったからには面倒を見るしかない。
 どんなに反りが合わなかろうと家から追い出すわけにはいかないのは自分も理解している。
 皿に入れたドッグフードを食べ尽くすと、ロウがふたたび快彦の足もとに噛みついた。
 それでなくても今日は憂鬱な案件を持ち掛けられて疲れ切っているというのに。
「まったく勘弁してくれよ……」足もとにまとわりつく子犬を見ながら快彦は頬杖をついた。



 ドアが開いて、快彦はタクシーから降りた。支払いを済ませて新田も降りてくると、ふたりで刑務所の正門に向かって歩き出す。
 新田が正門の近くに立っている警備員に近づき、「あの……面会に伺ったのですが」と声をかけた。
「建物を入ってすぐのところに受付がありますので」
 警備員に会釈をして建物に向かい、受付で新田が来意を告げる。もらった紙の一枚とペンを新田に差し出され、快彦は『蓮見亮介』という受刑者の氏名と面会の目的、自分の氏名と生年月日、住所、職業、受刑者との間柄を記入して受付の職員に提出した。身分証明書の提示を求められ、運転免許証を見せる。
「お呼びしますので待合室でお待ちください」と番号札を渡され、新田とともに廊下を進んでいく。
 被疑者や被告人との接見は仕事上何度も経験しているが、刑務所で面会するのは初めてなので少し緊張する。
 待合室のベンチに座ってしばらく待っていると、自分たちの番号が呼ばれて立ち上がった。
 刑務官に言われて荷物をロッカーに預け、金属探知機で身体検査をされてから面会室に通される。
 警察署や拘置所の接見室と同じようにアクリル板で仕切られた小さな部屋だ。
 快彦はアクリル板の前に置かれた椅子に新田と並んで座った。しばらくすると奥のドアが開き、刑務官に連れられてグレーの舎房着に頭を五分刈りにした男が入ってくる。
 こちらと目が合うと、人懐っこい笑みを見せた。
 それまではおぼろげな記憶でしかなかったが、目の前の男を見てあの頃の彼の姿がよみがえった。
 強い意志を感じさせる太い眉が印象的な少年だったが、それは今も変わっていない。変わっていることといえば、あの頃は自分のほうが背が高かったが、今は亮介に抜かれてしまったようで、さらに体形もがっちりしている。
 自分たちと向かい合わせに亮介が椅子に座り、その隣の席に刑務官も腰を下ろす。
「面会時間は三十分ですので、よろしくお願いします」
 刑務官に言われ、「わかりました」と快彦は頷き、亮介に視線を戻した。
「本当に来てくれたんだ」少し身を乗り出すようにして亮介が言った。
「ひさしぶりだな」
 そう言った自分の声音が硬くなっているのに気づく。
「ここに来てくれたってことは、おれの身元引受人を引き受けてくれるってこと?」
「申し訳ないけど、それはまだわからない。新田先生に会うだけ会ってくれないかと説得されてここに来た。今のぼくはきみが知ってるぼくじゃない」
「どういうこと?」
「人と関わることがとても苦手になってる。正直に言うと、煩わしい人間関係は極力持ちたくない」
「人と関わることが苦手なのに弁護士をしてるのか。それこそいろんなやつらと関わることになる仕事だろう」
「たしかに煩わしさを感じることも多いけど、仕事だと思って割り切ってる」
 最初に口を開くまではここまであけすけに自分のことを語るつもりはなかったが、これぐらい突き放すようなことを言っておかないと、快彦が身元引受人になると期待を抱かせてしまうだろう。
「ひとつ訊きたいんだけど」
 快彦が言うと、「何?」と亮介がさらに顔を近づけてくる。
「どうしてぼくが弁護士になってるらしいって知ってたんだ」
「叔父さんに聞いたんだよ」
「叔父さんって……ぼくの父親に?」
 亮介が頷く。
「いったいどこで……」
 母方の親戚とは何十年も年賀状のやり取りすらない。
「八年ぐらい前だったかな……叔父さんがオープンカレッジの講義をするのを知って聞きにいったんだよ。講義が終わった後に訪ねていくと、ひさしぶりだねって嬉しそうに言ってくれて、それから喫茶店でお互いの近況なんかを話した。そのときにおまえは弁護士を目指してて司法試験に合格したって聞いた」
 父からそんな話は聞いたことがない。どうして自分には黙っていたのだろう。話すほどのことでもないと思ったのか。
「それにしても叔父さん……残念だったな……まだ七十一歳ということだろう」
 神妙な声で亮介に言われ、不思議に思った。
「どうしてぼくの父親が亡くなったのを知ってるんだ?」
「たまたま新聞のお悔やみ欄を目にしてな。知ってたか? 刑務所でも新聞は読めるんだよ」
「そうか」
 刑務所の中でのことなど興味はない。
「……というわけで、おまえに身元引受人になってもらおうと思って新田先生に手紙を出したってわけだ」
「どうしてそんな話になるんだよ。ぼくの父親が亡くなったのと、きみの身元引受人になるのにいったい何の関係があるんだ」
「快彦は結婚してるのか?」
 ふいに話題が変わり、戸惑いながら「してない」と快彦は答えた。
「恋人は?」
「……今はいない」
「親友はいるか?」
「いったいそれが何なんだよ!」いらたしさに思わず声を荒らげた。
「叔父さんはおまえの行く末を心配してたよ。自分が死んだ後、もしおまえがひとりぼっちだったらそばにいてやってくれないかとお願いされて、わかりましたと約束した」
 父から自分がそのように思われていたことに動揺する。
「だけど、今のおれは人を死なせた前科者だ。出所してから友達になろうと会いに行っても、おまえは絶対に拒絶するだろう」
 口にはしなかったが、そうだと目で訴えかける。
「だからそばにいるためにはおれの身元引受人になるしかないんだ」こちらに強い視線を向けながら得意そうに亮介が言う。
「勝手に決めないでくれ」
「あいにく、おれはした約束は必ず果たすと決めてるんだ。満期出所した後におれにつきまとわれるか、身元引受人になっておれと適度な距離感を保ちながらしばらくお付き合いしていくか、よく考えておまえが決めろ」
 咳払いが聞こえて、快彦は刑務官を見た。
 先ほどの発言は脅迫とも受け取られかねないと亮介を窘めたのだろう。
「……話も煮詰まってきたようですし、そろそろいいでしょうか」
 刑務官に言われ、快彦は新田に目を向けた。自分から話すことはないと新田が頷きかけてくる。
「ええ、面会を終了してください」
 快彦はそう答えて立ち上がった。アクリル板の向こう側で笑みを浮かべながら手を振る亮介をいちべつしてから面会室を出る。
 預けていた荷物を受け取り、無言のまま新田とともに廊下を進み、建物を出た。
 刑務所の敷地の外に出ると、新田がスマホを取り出してどこかに電話をかけた。通話を終えるとこちらに顔を向け、「十分ほどでタクシーが来てくれるようです」と言う。
「すみませんが、一服してもいいでしょうか」
 快彦が頷くと、上着のポケットから煙草とライターと携帯灰皿を取り出して新田が煙草を吸い始める。
 それを見ているうちにある衝動が胸にこみ上げてくる。
「ぼくにも一本いただけないでしょうか?」
 快彦が言うと、「煙草をお吸いになるんですね」と新田が持っていた箱をこちらに向ける。
「いえ、生まれて初めて吸います」
 そう答えながら煙草を一本引き抜いてくわえた。小首を傾げながら新田が煙草に火をつける。
 何でもいいから父に反抗してやりたい気分だった。
 空を見上げながら煙草を吸った瞬間、激しくむせた。涙で視界がにじむ。
「大丈夫ですか?」
 何度も咳き込んだ後、ようやくそれがやんだ。袖口で涙を拭ってから新田に目を向け、快彦は苦みが充満している口を開いた。
「あいつの身元引受人になります」

 

「籠の中のふたり」は全4回で連日公開予定