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 団地の保育園は、六、七年ほど前に隣町に移転した。
 以前は敷地のなかほどに、一階がすべて保育園になった棟があったのだ。よその棟では前庭や植え込みとして利用しているようなスペースを、その棟では低い柵で大きく囲って、すべて園庭にしていた。
 そこにすべり台や鉄棒といった遊具が設置され、夏に子どもたちがばしゃばしゃと水遊びのできる浅いプールもあった。
 奈津子はそこでノエチと仲よくなった。
 保育園でできた、最初の友だちだった。ノエチはそのころから利発な子で、気がきき、人にやさしかった。本が好きで、『いやいやえん』を毎日お母さんに読んでもらっていると言った。
 そしてもうひとり、そらちゃん、という女の子とも仲よくなった。ノエチと三人で、いつも遊んでいた。
 性格のおだやかなおっとりとした子で、
「空ちゃん、早く早く」
 とかさないと、どんどん奈津子たちから離れてしまう。気がつくとしゃがんで花をみ、立ち止まって木の枝を見上げていた。
「空ちゃーん」
 離れたところから、なんべん声をかけたことだろう。そのぶん、花の名前には、三人で一番詳しかった。
 奈津子の家は九号棟の一階。
 ノエチの家は十号棟の三階。
 空ちゃんの家は、三号棟の四階だった。

 移転したあとの保育園だった場所は、今、閉鎖されている。
 たとえ短期間でも、新たになにかに利用する気はないのだろう。
 知らずに見れば、やはり取り壊される団地の、象徴的な一角と感じるのかもしれない。
 さびついた遊具や、水のはられていないプールはそのまま。最低限の手入れだけはしているのかいないのか、木々の枝も雑草もずいぶん伸び、園庭側からは、建物に入れないよう板が打ちつけてあった。
 オカルト好きな年頃なら、夕暮れ時には素敵な心霊スポットに見えるかもしれない。
 でも、奈津子はその棟の脇を通るとき、なつかしく、甘酸っぱく思うのだった。
 一階のサッシ窓だった場所をおおう板を見て、あの向こうがみんなのお部屋だったのに、とよく目を細めた。
 ノエチと毎日遊んだし、なによりその保育園は、幼い頃に亡くなった友だち、空ちゃんと知り合った場所だった。
「空ちゃんが今もここにいて、遊ぼう、って言ってる気がするね」
 ノエチと話したのは中学生のときだっただろうか。その頃はまだ保育園にも活気があり、園庭で子どもたちがたくさん遊んでいた。
 空ちゃんが亡くなったのは小学校に上がってからだったけれど、そこから少し時間が経って、記憶の中の空ちゃんの年齢も、自在に動くようになっていたのだろう。
 本当は同い年なのに、自分たちよりも子どもの空ちゃんが、にこにこといっしょにくっついてくる。
 やっぱり遅れ気味で、花の名前にくわしくて。

 山分けの野菜を、厚手のエコバッグにたっぷり入れて、ノエチに渡した。
「重っ」
 おどけた顔でノエチが言い、
「ありがとう、いっぱい。野菜焼きもおいしかった、ごちそうさま」
 急にきっちりと挨拶をした。「こんど、本当にアニキのお宝持ってくるね」
 さっきはガラクタと言ったけれど、いくらか格が上がったのだろうか。
「売れたら全部なっちゃんの取り分でいいから」
「え。いいの」
 奈津子はすなおに喜んだ。ふだんは、人から預かった品物は、売り上げから送料を引いて、その半分をもらっている。かわりに値つけや画像のアップ、商品説明、購入者・落札者とのやり取り、梱包、発送まで奈津子がっていた。
「あとでしめられない? あつ兄に」
「いいよ、どうせもう、中身がなにかなんて、一個も覚えてないって」
 ノエチのお兄さんは、とっくに結婚して家を出ていたけれど、独身時代の持ち物が、いまだにダンボール箱いくつかに残された状態とのことだった。
 以前、ノエチのお母さんが引き取りを打診すると、露骨に不機嫌になったそうで、思春期には、団地内でもやんちゃで有名だった長男。勝手に捨てて親子げんかになるのも面倒くさくて、押し入れに放置したまま二十五年とかになった。
 その箱をアニキの宝箱だとか、タイムカプセルだとか呼んでいるノエチは、わりと最近になって、その置き土産について、本人と話したらしい。
「アニキだって、もう捨てたモノのつもりみたいだったから、平気平気。なんか売れるのあるかもよって教えても、へえ、じゃあ勝手にどうぞ、って感じで、興味うすそうだった」
「いいんだ、もう。むかしは怒ったのに」
「なんか、しみじみと、おまえらのんでいいなあって笑われたよ」
「おまえら、って、まさか私も?」
「メインはなっちゃんだと思うよ、私はどっちかって言うと、神経質な妹だから」
 発送する品物が用意できたので、奈津子もいっしょに部屋を出た。
「なにが売れたの」
 ノエチに訊かれ、品物を教える。
「へえ、そんなのが売れるんだ」
「売れるねえ、わりとへんなものでも。ねばると」
「ふーん、今それをほしい人がいるんだ。令和なのに」
「いたね」
 昇降口の脇にかたまった銀色の郵便受けには、何カ所もみどりの養生テープが貼られ、空き室へのチラシやDMの投函を防いでいる。
 見上げる建物も、明かりの消えた部屋が四割ほどだった。
「あつ兄、社長だもんね、すごいよね」
 空に浮かぶ星を見るように奈津子は言う。
「うん、社長の娘と結婚して、ちゃんと修業したみたいだよ、経営者の」
 妹のノエチも、そこは認めているようだった。
「お父さんに怒られて、夜、ずっと公園のブランコに座ってたのにね」
 奈津子はむかしの、やんちゃな少年の姿を思い出した。
「植え込みの横で、バイクの改造したりね」
「してた! あと、なんか、すごいキレイな彼女といるのも見た」
「いたいた。結構モテるんだよね、ああいうのが」
 それは理解できない、といったふうにノエチが首をふる。でもこの団地を出て成功しているのは、「ああいう」お兄さんのほうだった。
 ずっと勉強ができたノエチは、学者を目指して大学院まで進んだけれど、思うように大学で職を得られず、やっとうまく行きかけたときに学長派の教授との不倫を疑われ、学長派なのでお目こぼしがあるかと思ったらあっさり切られ、職場にいられなくなり、今はべつの学校で非常勤講師の掛け持ちをしている。
 絵の好きだった奈津子は、短大を出てイラスト描きの仕事をはじめ、一点五〇〇円の通販カットからキャリアを積み、一時は大手ファッション雑誌のカラーページや単行本のカバーイラストなどもつぎつぎこなして、だいぶ羽振りがよかったものの、景気が冷えて業界が渋くなったのか、絵柄が飽きられて時流に合わなくなったのか、近ごろは年に数点しか依頼がない。
 今、日々の営みのメインは、やはりネットでのお取引と、ご近所さんに頼まれたおつかい、あとは少しばかり持っている優待株の売り買いだった。
 むかしから電車が苦手なので、遠出するのは、ほぼ自転車に乗っていける範囲に限られている。区役所や釣り堀のある大きな公園、大きな町の商店街なんかだ。
 さらに遠く、どうしても、という場所があるときは、ノエチがお父さんの車を運転して連れて行ってくれる。
 そうやって助け合うふたりだった。そのぶんノエチは奈津子の家に入りびたって、日々へこんだ心をぷーぷーと膨らませてもらっている。
 それをしないと、うまく次の日を迎えられないという。もちろん、うまくいってもいかなくても、次の日は勝手に来てしまうのだったが。
「だいじょうぶ。ノエチのいいところも悪いところも、私、知ってるから」
 ひとりごとめかして奈津子が言うと、
「同じ」
 とノエチが応じた。
「誰がどういう悪口言うのかも、もうわかってるけど、いいよね、そういうの」
「いいよ」
 もう四十何年の付き合いになる友だちと、またね、と十号棟の前で別れた。
 亡くなってだいぶになる、小さな空ちゃんが、たぶんふわふわと奈津子といっしょに歩いている。

 スマホのフリマアプリで売った品物は、コンビニのレジで簡単に発送ができる。
 バーコードをぴっと読み取ってもらい、包みに貼って手続き完了だった。
「じゃ、よろしくお願いします」
 愛想よく言って一旦レジを終え、それからあらためて店内を一周する。毎日のように来ているのに、開店早々みたいにいちいち全部の棚を見るのが奈津子のコースだった。
 今日のお品物はそうでもなかったけれど、一体だれがこんなものを、といったものも、これまでにもたくさん売りさばいてきた。
 雑誌の付録だった『ホワッツマイケル』の携帯アンテナのマスコット(着信すると光る)は、意外な人気なのか即売れしたし、ダンナの遺品なんだけど、という昭和エロスの写真集や、どこかでもらった焼き肉のタレのキーホルダー、などなど、さすがに無理と思った品にもやがて買い手がついた。
 日本中に欲しい人がひとりいればいい、というのは、素敵なシステムだと奈津子はたびたび思った。いくら売れそうにないものでも、世間でだれかひとりくらいは、興味を持って探しているかもしれない。ひとりだけいればいい。そのひとりに届けばいい。
 長く売れなかった品物に、ふと買い手がつくと、その思いはなお強くなった。
 そしてスマホにたまった売上金の一部をつかい、今日も奈津子はコンビニでパンをひとつ買った。


○本日の売り上げ
パラッパラッパーの大判ハンカチーフ五〇〇円。
藤原竜也写真集『persona』九九〇円。

○本日のお買い物
こだわりの野菜通販(定期コース)二九八〇円。
はみでるバーガーメンチカツ(ソース&からしマヨ)一四五円。

 

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