四
八五郎の仕事は棒手振りだ。
夜明け前、本所の青物河岸などで籠いっぱいの青菜を仕入れてきて、それを天秤棒で担いで売り歩くという行商人である。
その日も八五郎は永代橋のたもとで、買い付けてきた青菜を間の抜けた声を上げて売り歩いていた。
「あおな~、青菜~。青菜はいらんかえ~」
だが、さっきから誰一人として、八五郎を呼び止めて青菜を買おうとする者はいない。
賑やかな大通りの左右には同じような物売りたちが、しじみであったり大根であったり、様々なものを筵の上に並べて売っている。あまりにも売れないので諦めた八五郎は、物売りのいない空いた一角を見つけると、そこに青菜を入れた籠をどさりと置いた。そして、二間(約三・六メートル)ほど離れたところにしゃがみ込んで、懐から煙管を取り出すと刻んだ煙草を詰める。
八五郎がぷかぷかと煙をくゆらせて一服しているところに、一人の男がやってきて声をかけた。
「青菜、いくらだ?」
そうは言うが、眉間に深い皺の寄った、いかつい顔の男はとても青菜など買い求めそうな人相ではない。男は売り物の青菜を一瞥することもなく、八五郎の隣にどっかりと腰を下ろした。
「甚助親分」
「やっと見つけたぜ、八五郎。てめえ、永代橋のたもとにいるって長屋の奴らが言うから来てやったのに、いってえどこをほっつき歩いてたんだ」
そう悪態をつかれた八五郎は、泣きそうな声で言い返した。
「さっきまで、大声を張り上げてこの通りを売り歩いてたよ。そっちこそ、俺はもう三遍も往来を行ったり来たりしてたのに気づかないなんて、あんたの目は節穴かい、親分」
甚助と呼ばれた強面の男は、うるせえと言って八五郎を小突く。
「はあ? 俺だってさっきから、てめえを捜して三遍もこの通りを行ったり来たりしてたんだぞ。てめえの売り声なんてひとつも聞こえなかったが」
「俺はちゃんと声出してたよ……なんで誰も気づいてくんねえんだ」
甚助の言葉に、八五郎は頭を抱えて泣き言を言った。
「昔から、俺はいっつもそうなんだ。いくら声をからして売り歩いても、誰も気づいちゃくんねえ。だからこうして青菜の入った籠を地面に置いて、少し離れたとこで見とくようにしてるんだ。それで、青菜を見かけて売り子はどこにいるってキョロキョロしてる客に声かけてるんだが、そのほうがよっぽど売れる」
あまりに悲惨な八五郎の話を聞いて、甚助は思わず吹き出した。
「ハッハッハ。棒手振りは目立ってなんぼなのに、よくもまあそんな影の薄さで務まるもんだな。これからはいっそ『八五郎参上』とでも書いた派手な幟を背中におっ立てて歩いてみたらどうだ」
「俺、別の仕事のほうが向いてるのかなぁ……」
これは八五郎にとっては深刻な悩みであるらしく、しょげた様子で嘆きの声を上げたが、甚助はあくまで他人事だ。気楽に笑い飛ばして軽口を叩く。
「ちげえねえ。いっそ、その影の薄さを生かして八ツ手小僧の手下にでもなってみたらどうだ」
八ツ手小僧というのは、このところ江戸の町を騒がしている大泥棒だ。盗みに入った商家に、八ツ手の葉の焼印を押した木札を残していくことでその名がついた。
「おいおい、番所の者がそんな剣呑なこと言ってていいのかよ。だいたい、俺はもう盗みはこりごりだって言ってんだろ。で、今日は何の用だよ、親分」
「なんでぇ、愛想のねえ野郎だな。お呼びがかかったんだよ、八丁堀から」
甚助は、八丁堀の定廻り同心に雇われた岡っ引きの一人である。岡っ引きの仕事は主に犯罪に関する町中の情報を集めて同心に伝えることだが、そのほかに、定廻り同心が私的に飼っている、「犬」と呼ばれる間者たちへの連絡もその役目のひとつだ。
実は八五郎は、その「犬」の一人だった。
犬は普段、町中で普通に暮らしている。そして、犯罪に関する噂や、幕府のご政道批判や打ち毀しの相談といった、世間を騒がせるような不穏な動きを聞きつけたら同心に密告するのだ。
間者であることが周囲に知られてしまったら役に立たなくなるので、犬と同心との接点は必要最小限に抑えられ、普段はこうして岡っ引きの甚助を介して、長屋から少し離れたところでこっそりと連絡を取り合っている。
「村上様が直々に俺と会うって? 珍しいこともあるもんだな」
八五郎の「飼い主」は南町奉行所定廻り同心の村上典膳だが、ただの町人にすぎない八五郎が典膳と会って話をすることなどめったにない。
「てめえだけじゃねえよ。この界隈の『犬』全員に呼び出しがかかった」
「なんでえそれは。大捕物でもおっぱじめようってのかい、お奉行は」
八五郎が驚いた顔でそう言うと、甚助は黙ったままこくりと頷いた。
翌日、八五郎が甚助の伝えてきた船宿の一室に行くと、そこには十人ばかりの男たちが集まっていた。どの男も身なりはみすぼらしく、冴えない人物であることが顔つきを見ただけでわかる。
──ははあ、こいつら全員、俺と同じ「犬」か。
集められた男たちは、当然のことながら互いに面識はない。誰もが所在なげな様子で、キョロキョロと周囲を見回している。
そんな落ち着かぬ時をしばらく過ごしたあと、障子が開いて、柿渋色の着流しに黒の紋付を羽織った侍が入ってきた。男どもは一斉に侍のほうに向き直って黙って頭を下げる。
「皆の者、ご苦労であった。本日こうしておぬしらに集まってもらったのは、南町奉行、大岡越前守様からのお達しを皆に伝えるためである」
挨拶もそこそこに、やたらと堅苦しい口調で用件を語りはじめたこの侍こそ、八五郎を犬として飼っている定廻り同心、村上典膳である。
歳の頃は三十半ば、真一文字に伸びた太い眉に、きつく結んだ口とがっしりした顎。月代はきれいに剃られ、きっちりと整えられた髷には一分の乱れもない。くそ真面目な性格が見た目にそのまま滲み出たかのごとき、堅苦しい男だった。
定廻り同心の仕事は、犯罪の取り締まりと治安維持である。
その役目はなにも、人殺しや盗人の捕縛だけとは限らない。市中で起こる様々な揉めごとを、あらゆる方面の顔を立て、ときには多少の悪事にも目をつぶったりしながら、全員に角が立たぬよう丸く収めるのも同心の腕の見せ所である。
ところが、生真面目で融通が利かぬ典膳は、いつも奉行所のお達しや公儀の触れを馬鹿正直に執行しようとするものだから、管轄する地域の町人たちからは「話の通じねえお方だ」「お奉行様の腰巾着」と評判はあまりよろしくない。
典膳は落ち着いた低い声で、一同に問いかけた。
「皆も、最近江戸の市中を騒がす盗人、八ツ手小僧は知っておろう」
居並ぶ男たちは一斉に頷く。いま江戸の市中で、この大盗賊の名を知らぬ者はいない。
「かの不届き者は、これまで九件の大きな盗みを働き、いまだひとつも手がかりが得られぬ。あやつの正体を示すのは、ただこれだけだ」
そう言って典膳が目の前に掲げたのは、掌にすっぽり収まるほどの小さな木札だった。紫の紐が通されたその札には、八ツ手の葉の焼印が押されている。
「おおお……」
居並ぶ男どもの間から、思わず感嘆のどよめきが漏れる。それは憎き悪党に向けた怒りの声というよりは、むしろ憧憬に近い響きがあった。
八ツ手小僧──盗みに入った商家にこの木札を残していくことから、誰からともなくそう呼ばれるようになった大盗賊。
「いまのところ、八ツ手小僧についてわかっておることはわずかしかない。奴は徒党を組まず、常に一人で盗みを働くこと。掛矢で戸を打ち壊すこともなく、鉤縄を使って軽々と塀を乗り越えて盗みに入ること。そのことから、おそらくは相当に身軽な男であろうということ」
それから、盗みに入るのは強欲な悪徳商人の屋敷に限られ、盗んだ金を貧しい家の軒先にばらまいてくれること、そして盗みはするが、決して人殺しも乱暴狼藉も働かないこと──八五郎は胸の内でそう付け足した。
「その他のことは、何もわからぬ。ご公儀をあざ笑うかのように、次々と盗みを働くその不埒なる所業、断じて許すわけにはいかぬ!」
典膳は仰々しい口ぶりで力強くそう宣言したが、居並ぶ「八丁堀の犬」たちの顔は白けきっていた。
あくどい商売で民を苦しめる豪商どもを懲らしめ、貧しき人々を助ける八ツ手小僧は、市井の人々にとっては痛快な義賊であり、救いの神でもある。江戸中の人気者である八ツ手小僧の捕縛に加担するのは、たとえお役目であっても、できることなら関わりたくないところだ。
「そこで、お奉行様はこのたび、与力同心にお達しを出された。八ツ手小僧の捕縛につながるたしかな手がかりを掴んできた者には、多額の褒美を取らす」
褒美と聞いて、金に卑しい犬たちの心がほんの少しだけざわつく。典膳はそんな犬たちの醜い思惑などお構いなしに、仏頂面で事実だけを述べた。
「褒美の額は、手がかりの中身に応じて詮議して決めるが、例えば八ツ手小僧の正体と住み処を突き止めて知らせた者には、五十両」
「五十両?」
金額を聞いて、白けきっていた座に途端にどよめきが起こった。江戸の市中では、公儀の許しを得たものから得ないものまで、様々な富くじが人気を博していたが、それらの一の富(一等)ですら、賞金はせいぜい百両かそこらというのが相場である。五十両とは、盗人一人の首にかけられた懸賞金としては、あまりにも破格だ。
「かの盗人を庇いだてする者も多いと聞いておるゆえ、おぬしらが番所に密告したと知れたら袋叩きに遭うのではと案じる者も多かろう。ゆえに、手がかりを申し出た者の秘密は決して漏らさぬ。普段、おぬしらとは岡っ引きを通じて連絡を取っておるが、この件に関しては遠慮なく拙者のもとを直に訪ねるがよい。拙者が一人で話を聞いて、決して口外せぬから安心せよ」
八丁堀の犬たちは、お達しの内容から南町奉行、大岡越前守の本気を感じ取った。そうなると現金なもので、犬たちはあっさりと目の色を変え、誰もが一攫千金を夢見て鼻息を荒くし、まだ手に入れてもいない褒美の皮算用をはじめた。
船宿を出て一人で長屋に帰る途中、八五郎はボソリとつぶやいた。
「あーあ。褒美の金がかかったのが、鳴かせの一柳斎だったらなぁ」
だがその直後、何を言ってんだ俺は、と慌ててその邪な考えを打ち消した。そんなことをしたら雲井源次郎はお縄にかかってしまう。五十両欲しさに友を売るような真似は絶対にできない。
「まあ、俺みてえな何の取り柄もねえ小心者が、変にやる気を出して間者の真似事をしたところで痛い目を見るだけだ。いままでどおり、何もしねえのが一番だな」
八五郎が、村上典膳に飼われる「八丁堀の犬」になったのは一年前のことだ。
あるとき、八五郎はけちな盗みで捕まったのだが、そのときに村上典膳が、罪を見逃してやるかわりに自分の「犬」になれと持ちかけたのである。
盗みといっても、別に大したことはしていない。
八五郎は昔から、なぜか妙に影が薄かった。
大勢で点呼を取るといつも八五郎だけ素通りされる。大人数で集まって花見などに行くと、大抵は忘れられて途中で置いてきぼりにされる。すぐそこに立っているのに誰も気づいてくれない。そんな仕打ちをこれまでの人生で何度も何度も味わううちに、八五郎は気づいたのである。
──これなら、盗みをやっても誰にも気づかれないんじゃないか。
それで八五郎は、人の出入りの多い大店の商家を見つけては何食わぬ顔で上がり込み、その店の手代のような顔をして帳場をあさり、小銭を盗むといった悪さを繰り返すようになったのだった。
ただ、何といっても八五郎は根っからの小心者である。
金を盗むといっても、せいぜい蕎麦を食うのにちょっと持ち合わせが足りないから三、四文を拝借するといった程度だ。そんな額であるし、忍び込む店は毎回違うので、店のほうも金が盗まれたことにすら気づいていなかった。
では、なぜそんな八五郎が捕まったかというと、八五郎が帳場をあさっている最中に、たまたま店にいた客の婆さんが癪を起こして倒れたのが原因だった。
目の前にいた八五郎が思わず駆け寄って介抱したので、婆さんは事なきを得た。だが、その騒ぎが済んだところで、そういえばお前、この店の手代だとばかり思っていたがいったい誰なんだという話になった。それがきっかけで、これまで行われてきた八五郎のけちな悪事が露見したのである。
自身番に突き出された八五郎は、もう二度と盗みはやらないからどうかお慈悲を、と情けないほどに泣き叫んだ。
滲み出る善良さを隠せないその様子を見た村上典膳は、この間抜けな盗人は放っておいても再び罪を犯すことはないだろうと判断し、罪を見逃すかわりに自分の「犬」になれと命じたのである。
この続きは、書籍にてお楽しみください