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 八五郎は深川ふかがわ佐賀さがちよう裏店うらだな市蔵いちぞうだなに独りで住んでいる。
 やすしんの長屋の板壁は、隣部屋のねやむつごとがまるまる筒抜けになるくらいに薄っぺらい。なんとも心細いその壁をへだてて、八五郎の隣の部屋に住んでいるのが雲井げん次郎じろうである。
 源次郎の歳の頃は三十ばかりだろうか。三年ほど前に越してきた貧乏浪人で、かつては位の高い幕臣につかえていたが、わけあってその家を去ることになり、浪人に身を落としたのだと聞いた。
 そのときによほど辛いことでもあったのか、源次郎は己の過去を詳しくは語ろうとしないので、仕官していた頃の源次郎がどんな侍だったのかはよくわからない。だが少なくとも現在は、月代をだらしなく伸び放題にして無造作な浪人髷に結い、無精髭もほったらかしの自堕落な暮らしぶりである。
 鳴かせの一柳斎を目撃した翌朝、八五郎は部屋から出てきた源次郎に声をかけてみた。
「旦那、昨日はずいぶん戻りが遅かったじゃないですか。ちょっと一緒に一杯やろうと思って部屋をのぞいたら、町木戸が閉まる刻限なのにまだ戻ってねえから心配しましたよ。いってえ、どこ行ってたんですか」
「それはすまなんだな。昨晩は野暮用でちと遠出しておったゆえ」
 そう言ってボリボリと頭をく源次郎は、どこからどう見ても風采ふうさいの上がらぬただのろうにんである。伸びた無精髭に覇気のない眠そうな目。これが、昨晩六人の侍を相手に圧倒的な強さを見せた、あの鳴かせの一柳斎と同一人物とはとても思えない。
 だが、八五郎は知っている。
 いつも着ている紺縞こんしまの着物とよく似ているが、今日の源次郎の着物は昨日と少しだけ柄が違うことを。そして今朝の源次郎は夜明け前にこっそり起き出して、あちこちに返り血を浴びた着物を一人で静かに洗っていたということも。
「じゃあ、今晩こそは空けといてくだせえよ。辰三たつぞう親方も呼んできて三人で飲みましょうや。酒は俺が買っとくんで、旦那はさかなをお願いします」
「お気持ちはありがたいが八五郎殿。それがしのような貧乏浪人には構わず、辰三殿とお二人で──」
 八五郎は、少しだけ困ったような顔をして遠慮する源次郎の肩をバンバンと叩き、笑いながら言った。
「なにを言ってんでェ雲井の旦那。あんたの昔に何があったのかは知らねえけどよ、いいかげん水臭いのはやめねえ。そりゃまあ、あんたは侍で俺は町人だよ。でも身分が違ってようが、同じ長屋、同じ町内に住んだら家族も同然。それがこの深川の流儀ってもんだ。家族が一緒に飯を食うのは当然のことじゃねえか」
「いや、でも、それがしなどが加わっては、せっかくの楽しい──」
「あーもう、またはじまったよ、旦那のいつもの病気が」
 八五郎の人生に、遠慮などという言葉は存在しない。
「安心しなって。あんたは無口でぶっきらぼうだけど、根は温かい人だって近所のみんなもちゃんとわかってんだからさ。じゃ、今晩酒持ってそっち行くから、よろしくな!」
 源次郎の都合など一切お構いなしで、八五郎は勝手に約束を決めてしまった。源次郎も毎度のことでもう諦めたのか、それとも心の中では感謝しているのか、困ったように眉をしかめつつ、ほんの少しだけ嬉しそうに苦笑した。

 市蔵店に越してきた頃の源次郎は、目がうつろで生気がなく、まるで死神のようにげっそりと痩せこけていた。最初のうちこそ月代も剃っていて身なりも小ぎれいにしていたが、日がな一日部屋にもりきりで世捨て人のように人を避けているうちに、髪も髭もあっという間に伸びてしまった。
 当時の源次郎は、いつも眉間みけんに皺を寄せて決して笑おうとはせず、近所の者にろくに挨拶もしなかった。だが、根っからのお節介焼きで、人は持ちつ持たれつが当たり前だと信じて疑わない深川の連中を相手に、そんなよそよそしい態度が通用するわけがなかった。
 源次郎がどれだけ迷惑そうな顔をしようが、八五郎や近所の連中は、やれゆうを作りすぎたからどうぞだとか、あぶく銭が入ったからみんなでパアっと飲みに行くぞとか、戸も叩かずにずかずかと部屋に乗り込んできては、源次郎を勝手に仲間に加えている。
 源次郎は最初の頃、心底迷惑そうな顔をして、
「それがしは道を外れたはぐれ者。長屋の方々にご迷惑をおかけするわけにはまいらぬゆえ、そのようなお気遣いは無用にござる」
 と言ってその余計なお世話をかたくなにこばんだものだが、そんな態度は半年も持たなかった。
 人は人に頼るもの、近くに人がいたら誘って一緒に楽しむもの、というのが深川の流儀である。
 その性根がみついているこの町の者たちは、そもそもこの世には当時の源次郎のような、ずぶずぶの人付き合いを面倒に思う者も存在するということを知らないのだった。だから、いくら拒んだところで誰もがかえるつらに水で、そもそも源次郎に拒まれたことすら気づいていない始末だ。
 とうとう源次郎も根負けして、ありがたくお節介を受けたほうがむしろ手間がかからないと気づいたか、黙ってこの地の流儀に染まることにしたようである。近所の連中も皆、一見よそよそしいが、受けた恩は後できっちりと返す律儀な源次郎に好意を抱いていた。
 そして八五郎は、素直ではないが冷たくもなりきれない、そんな源次郎の人間くさいところが大好きで、部屋がすぐ隣ということもあって特に仲良くつるんでいたのである。

 そうやって仲良くしてはいたが、源次郎はどこか謎めいた男であった。
 八五郎は、夏の暑い盛りに源次郎が水浴びをしているのを見たことがあるが、源次郎の背中には、バッサリとけに斬られた大きな古い刀傷がある。そもそも来歴がよくわからぬ男でもあるし、八五郎としてはこの傷について一度源次郎に聞いてみたいと思っているのだが、なんとなく触れてはならぬような気配を感じて、ずっと聞けずじまいでいる。
 それに源次郎は、他の浪人たちのようにかさりの内職などに精を出すこともなく、普段は日がな一日ゴロゴロしている。
 かといって店賃たなちんとどこおるようなこともないので、いったいどうやって生計たつきを立てているのかずっと謎だったのだが、どうやらときどき、町のやくざ者に雇われて泊まり込みで用心棒をしているらしい。そう言われてみればたしかに、源次郎はふらりと半月ほど長屋を留守にすることがあった。
「用心棒に雇われるということは、それなりに腕が立つとは思うんだが、旦那を見てると、とてもそうは見えないんだよな……」
 毎日剣の稽古をするでもなく、次の仕官の口を探すでもなく、源次郎はまるで猫のように毎日を無為むいに過ごしている。そんな源次郎が剣の達人だというのはにわかに信じがたいことだが、柳の木のような細身の体と粗末な着流し姿から漂う雰囲気は、まさに八五郎が昨晩目にした「鳴かせの一柳斎」そのものだった。

 ──鳴かせの一柳斎、またもや江戸市中を騒がす。
 今日も刀は鳴かず、旗本なにがしなにぼうのかみ斬られる──
 八五郎が一柳斎に出くわしたのは三日前の夜中なのに、その話はもう読売にられて、遠慮なく江戸中にばらまかれていた。記事ではさすがに市橋伊勢守の名前は伏せられていて、斬られた日と場所しか書かれていない。
 だが、それだけあれば噂の種としては十分すぎるほどである。たまたまその場に居合わせた者たちが、自分が見たことを得意になって言いふらすものだから、斬られた者がどこの誰であるかはすぐに突き止められ、あっという間に広まってしまう。
 普段は偉ぶっている裕福な侍たちが無様に斬られて恥をさらす様子は、江戸の庶民たちにとってはりゆういんの下がる格好の娯楽だ。ごこうの手前、表向きには誰もが一柳斎を怖れ、み嫌う素振りをしているが、この幽霊剣士は帯刀しない町人を絶対に襲わないこともあって、陰では皆がかつさいを送っていた。
 ──さあ、一柳斎はいったい次に誰を斬るのか。
 幕府の高官の中には、民をいじめて私利私欲をむさぼる悪逆の者たちが少なからず存在する。例を挙げるならば、少し前に勘定かんじようぎように成り上がったたでうじむねなどは常に黒い噂が絶えない。名君とのほまれ高いとくがわ吉宗よしむねの治世になって以来、昔と比べればだいぶその数は減ったとはいえ、それでも人の世から悪が一掃されることはなかなかに望みがたい。
 ──あーあ。一柳斎が蓼井みてえな非道のやからを斬ってくれねえかなあ。
 人々はそんな、決して叶わぬ妄想を語ることで、思うようにならぬ日々のうつぷんを晴らしていた。そして、そんな庶民の隠れた願望をあおりたてるようなことを、読売は盛んに書き立てるのである。
 金のない八五郎は、普段は読売などまず買わないのだが、今日ばかりは大通りで売り子がふしをつけて読み上げているのを聞いて、思わず買い求めてしまった。
「あら、八五郎さんが読売なんて珍しいわね。字は読めたの」
 後ろからいきなり明るく声をかけられ、振り向いた八五郎はどぎまぎしながら答えた。
「馬鹿にしないでくれよ、浜乃はまのちゃん。俺だって多少は読み書きの心得はある」
「今日の話は何? へー、鳴かせの一柳斎がまた出たのね」
 そう言いながら無遠慮に手元をのぞき込んできたのは、近所の長屋に住む浜乃という十九歳の娘だった。
 読売に夢中になるあまり、浜乃の顔が図らずも八五郎の顔にぐっと近づく。八五郎は途端に、胸がぎゅっと締めつけられるような心地になった。
「それにしても、もう何人とも闘っているのに一度も負けたことがないなんて、本当に人なのかしら、この一柳斎って人」
「え? 人じゃなかったら何なのさ」
「幽霊とか、鬼とか。だって不気味じゃない? 何を問いかけても『抜けェ……刀を抜けェ……』としか言わないんでしょ?」
「まあたしかに、幽霊みてえではあるなァ」
 本当は雲井の旦那なんだけどな、と思いながら八五郎は話を合わせた。
「私、思うんだけど、一柳斎は殺されたほととぎすの霊なのよ」
「はあ? ほととぎす?」
「そう。鳴かなかったせいで織田信長公に殺された、ほととぎすの怨霊。それで、殺されたうらみを晴らすために、自分のかわりに鳴く刀を探して……」
 浜乃の突拍子もない空想に、八五郎は思わず吹き出した。
「いやぁ浜乃ちゃん、そんな化けて出るくらい悔しかったのなら、ほととぎすも意地を張らねえで、殺される前にさっさと鳴いておけばよかったじゃねえか」
 八五郎の指摘に、浜乃も「それもそうね」と言ってコロコロと笑う。浜乃は近所でも評判の器量よしだが、それだけでなく、ちょっとしたことでも陽気によく笑い、好奇心旺盛おうせいで何にでもすぐ首を突っ込みたがるところが八五郎は好きだった。
 ──こりゃあ、浜乃ちゃんとお近づきになる絶好の口実になるかもしれん。
 浜乃が近所に越してきてから、そろそろ一年になる。
 その間ずっと、八五郎は浜乃と親しくなれるきっかけを作ろうと、さんざん頭を悩ませてきたのだった。それでもこれまでほぼ何の進展もなかった八五郎にとって、自分だけが知る「鳴かせの一柳斎」の秘密はおあつらえ向きの話だった。これぞまさに、棚からぼたもちのぎようこう。八五郎は一柳斎の秘密を浜乃にだけ打ち明けることにした。
 今日は町内のどぶさらいの日で、皆が集まって一緒に作業をしている。こういう機会を逃したら、何の接点もない八五郎が浜乃に自然と声をかけられる機会はほとんどない。
 浜乃ちゃん、ちょっといいかなと言って、八五郎は浜乃を少し離れた物陰に連れ出し、三日前の夜に見たことを洗いざらい話した。