案の定、わくわくする話に目がない浜乃は途端に目を輝かせて食いついてきた。嘘でしょ、それ本当ならすごいことじゃない、信じられない、と浜乃が大声で騒ぎだしたので、八五郎は慌ててしぃっと浜乃を制した。
「これは絶対に二人だけの秘密だぜ、浜乃ちゃん。雲井の旦那に迷惑がかかるかもしれねえしな。俺は、相手が浜乃ちゃんだから信じて教えたんだ」
二人だけの秘密、という言葉の甘美な響きに、八五郎は内心うっとりとした。浜乃はわかったと言って何度も頷くと、八五郎の耳元に口を寄せて、小声でひそひそと提案した。
「ねえ八五郎さん。今度、二人で雲井様の後をつけてみましょうよ」
「え?」
「雲井様ってさ、いつも所在なげにブラブラしてて、けっこう謎な人でしょ。いい機会だから、普段何をしているのか探ってみない?」
「お……おう」
「八五郎さんはお隣なんだから、雲井様が出かけるときはすぐわかるでしょ。わかったらすぐに私を呼びに来て。そしたら、気づかれないように二人で後をつけるの。雲井様が本当に一柳斎かどうか、この目で確かめるのよ」
それって逢い引きのお誘いでは? と八五郎は一瞬だけ心をときめかせたが、浜乃にそのつもりは皆目ないらしい。
「でも、そんな目明かしみてえなこと、俺にできるかな」
「八五郎さんなら絶対にやれるわ。だって今日だって最初、どぶさらいに集まった人数を数えたときに、八五郎さんだけなぜか見落とされてたじゃない。真ん中に立ってたのに、一人足りないぞ、誰が来てないんだって大騒ぎになって」
「あ、ああ。そうだったな」
「ホラ、八五郎さんって不思議なくらい、あの……なんというか、あまり……目立たないから。人ごみに紛れて後をつければ、あの一柳斎でも気づかないわよ。だいたい、どうせ気づかれたって別にいいじゃない。隣近所の仲なんだし」
要するに、影が薄いのが尾行に便利だということだ。浜乃が変に気を使って慎重に言葉を選んでくれていることが、逆に辛い。
それでも、たとえ理由がどんなに情けないものであれ、憧れの浜乃に堂々と声をかけて一緒に出かけられるのだ。八五郎としては細かいことはどうでもよかった。二つ返事で了解すると、浜乃が嬉しそうに八五郎の手を握ってぶんぶん振りながら「がんばりましょうね」と言ってくれたので、八五郎は天にも昇るような気持ちになった。
すると、そこに一人の男が近づいてきて、陽気に声をかけてきた。
「おうおう。おめえら、どぶさらいを怠けてんじゃねえぞ。そんな物陰にコソコソと隠れて、二人して駆け落ちの相談でもしてたか」
「あら辰三親方。いやだもう、そんなことあるわけないじゃないですか」
からからと笑って浜乃が一も二もなく否定したので、八五郎は少しだけ落胆した。
二人に声をかけたのは、近所に住む大工の親方だった。歳は八五郎の三つ上で、名を辰三という。黒い着物の尻をからげて、足を泥だらけにした姿で元気よく笑っている。
辰三は情に厚く面倒見がよいので、町の誰からも慕われていた。着物はいつも黒しか着ないのが辰三のこだわりで、帯も真っ黒だ。色白の辰三が黒一色の着物に身を包むと、肌の白さがいっそう際立ってこのうえなく粋であったし、背中から両腕にかけて入れられた、荒れ狂う白浪を描いた彫物は惚れ惚れするほどに見事だった。
「それにしても、二人ともずいぶん楽しそうに話してたじゃねえか。何やら面白そうだな。いってえ何の話だ」
辰三が笑いながら尋ねると、浜乃はいたずらっぽく答えた。
「これは八五郎さんと私だけの秘密だから、親方には教えない」
「おいおい、なんだなんだ。いよいよ駆け落ちの相談みてえだぞ。隠しごとなんてずいぶんと水くせぇ奴らだな。ちいとばかし俺に教えてくれてもいいじゃねえか」
「だーめ。もう少ししたら親方にも教えてあげるかもしれないけど、いまは絶対に秘密」
「ははは。こりゃ浜乃ちゃんを八五郎に取られちまったなァ。おい八五郎、浜乃ちゃんは町の皆の宝物なんだ。独り占めにすんじゃねえぞ。ほどほどにな」
辰三はそう言って意味深な笑みを浮かべると、八五郎の肩をポンと叩いて悠々と去っていった。
──親方、ひょっとして俺に気を使ってくれたのかな。
さりげなくその場を離れて二人の邪魔を避けた辰三に、八五郎は少しだけ感謝した。ただ、辰三が思っているような浮ついた話では決してないことが情けなくもあり、悔しくもある。
──それでもまあ、二人だけの秘密を持つってのはなんだか、浜乃ちゃんと心がつながってるみてえで嬉しいもんだな。あわよくばこのままどんどん親しくなっていって、いずれは……。
八五郎の妄想は、どんどん膨らんでいくのだった。
三
雲井源次郎に動きがあったのは、それから三日後の夕方のことだ。
「あれ? 旦那、どちらにお出かけで?」
「うむ。鉄砲洲のほうまで」
そう言い残して源次郎が去っていったのを見るや、八五郎は大慌てで浜乃の長屋に駆けていって障子戸を叩いた。浜乃が暮らす惣兵衛店は、八五郎の住む市蔵店から通り二つ離れた同じ町内にある。
「浜乃ちゃん! 浜乃ちゃんはいるかい?」
「なんだ騒々しい……って八五郎かよ。うちの娘に何の用だ」
戸を開けて出てきたのが浜乃の父の藤四郎だったので、八五郎は思わずゲッと声を出して怯んだ。
藤四郎は腕の立つ飾り職人で、五十を過ぎても隠居せずに腕を振るっている。職人気質で愛想は悪いが、至極温和な男だ。それでも、嫁入り前の娘を夕刻に外へ連れ出そうとしているところで父親と鉢合わせになるのは非常に気まずい。八五郎がしどろもどろになっていると、部屋の奥から浜乃が出てきた。
「八五郎さん! 動きがあったのね!」
「そ、そうなんだ、浜乃ちゃん。いま出られるかい」
「大丈夫。それじゃ行ってくるね、おとっつぁん!」
藤四郎にそれだけ言い残すと、浜乃は転がるように部屋から出てきて、自分から八五郎の手を引いて先に立って歩く。
「お、おい。大丈夫なのかい、浜乃ちゃん?」
「何が?」
「親父さんだよ。何も言わずに出てきちゃったけど」
「いいのいいの! それよりも雲井様はどっちに向かったの?」
こりゃあ、後で藤四郎さんからぶん殴られても仕方ねえな、と八五郎は腹をくくった。それにしても、いくら人柄が穏やかといっても、互いに独り身の娘と男が夕刻に手を取り合ってどこかに出かけようとしているのに、藤四郎はまったく止める素振りすら見せなかった。
──あれ? ひょっとして藤四郎さん、俺なら浜乃ちゃんと逢い引きしても構わねえとか、二人の仲を認めてくれてたりするのかな?
一瞬だけそんな甘い了見が頭をよぎったが、そんな都合のいいことがあるわけねえと、八五郎はすぐにその考えをかき消した。
──とにかく、いまは浜乃ちゃんにいいところを見せねえと。
何の見せ場もなかった八五郎の人生に転がり込んできた、これは一世一代の大勝負である。ここで見事に鳴かせの一柳斎の正体を暴けば、ひょっとしたら八五郎さん素敵! ってな具合に、浜乃が自分を見る目も変わるかもしれない。
「鉄砲洲に行くって言ってたから、永代橋のほうに向かってるはず。さっき出てったばかりだし、早足で行けばまだ間に合うんじゃねえかな」
「ワクワクするわね、八五郎さん!」
永代橋のたもとにはいつも小さな市場が開かれており、常に人波が絶えない。この賑わいが生まれたのは四年前の享保四年(一七一九年)のことだ。
そのきっかけは、前年の洪水によって橋が大破したのを機に、幕府が永代橋の破却を決定したことにある。それでは困ると町衆たちは必死で幕府に嘆願し、結局は修復や維持にかかる金をすべて町衆が負担するという条件で橋の破却を撤回させた。そしてそのとき以来、永代橋は町衆が共同で支える橋となったのである。
維持費を少しでも工面するため、橋のたもとで市場が開かれるようになり、結果として永代橋の周りは以前よりもずっと賑やかになった。
天秤棒を担いで行き交う物売りの威勢のいい掛け声が響きわたり、屋台では美味そうな団子やら餅やらを焼いて売る、香ばしい煙があちこちで立ちのぼっている。そんな雑踏の中を、八五郎と浜乃はできるだけ人ごみに隠れるようにして進んでいた。
十五間(約二十七メートル)ほど先を、源次郎が歩いているのが見えた。
永代橋を渡ったところで左に折れ、霊岸島を抜けると鉄砲洲である。
鉄砲洲も陸のほうには松平家をはじめとする大きな大名屋敷が並んでいて、先ほどの雑踏が嘘のように静かになるが、源次郎が向かったのは騒がしい河岸沿いのほうだ。
諸国から江戸にやってきた船は、江戸湊と呼ばれたこのあたりで船手組屋敷の荷改めを受ける規則になっている。それと同時に、荷はここで千石船から小さな平舟に載せ換えられて、江戸の市中を網の目のように流れる川や堀割を通って様々な町に運ばれるのだ。
そのため、鉄砲洲の河岸付近には船着き場と荷揚げ場が所狭しと並んでおり、そこを行き交う人足どもと、その者たちを束ねる商人や武士、そしてそれらを相手にする物売りたちでごった返している。
その熱気でむせ返る人ごみの中を、源次郎は迷いのない足取りでずんずんと進んでいく。少しでも目を離すと、人の波に紛れて姿が見えなくなってしまう。
「八五郎さん、ちょっと近づきすぎよ」
源次郎を見失うまいと足を速める八五郎の袖を掴んで、浜乃が小声で制した。
「大丈夫だって。こんぐらいじゃ気づかれやしないよ」
浜乃ちゃんもずいぶんと心配性だなあと、八五郎は余裕のあるふりを見せつけながら大胆に源次郎に近づいていくが、たしかに源次郎は背後を気にする様子もない。
それでついには、八五郎は源次郎の後ろ三間(約五・四メートル)ほどの距離まで肉薄したのだが、そこでとうとう浜乃が音を上げた。もうこれ以上は絶対に無理よと、引きずるようにして八五郎を引き留めたのだが、二人がそんなやりとりをしているほんの少しの間に、気がつけば源次郎は人波に紛れてどこかに消えてしまっていた。
その日、源次郎は夜遅くまで長屋に戻ることはなかった。そして数日後の読売には「またも鳴かせの一柳斎あらわる」の文字が躍る。それを持って八五郎は浜乃のもとに走った。浜乃を部屋の外に連れ出すと、井戸端で声をひそめる。
「やっぱり怪しいわね、雲井様」
「ああ、怪しい。一柳斎は築地に現れたらしいじゃねえか。鉄砲洲とは目と鼻の先だ」
「そうね、次こそは絶対に雲井様の尻尾を掴みましょうね、八五郎さん!」
きらきらとした目で浜乃が微笑んでくるので、八五郎はどぎまぎしながら「おう」と精一杯かっこつけて力強く答えた。
するとそのとき、四十くらいの年恰好の侍が近づいてくるのが見えた。
「あら! 新さん、いらっしゃい。おとっつぁんは留守よ」
「おお、浜乃ちゃん。なんだい、藤四郎さんおらぬのかい」
「たぶんすぐ戻ってくるから、中で待っててくださらない?」
新さんと呼ばれた侍は、わかったと言って部屋の中に入っていった。
親しげな二人のやりとりを見ていた八五郎は、なぜか焦りと苛立ちが勝手に湧いてくるのを止められなかった。それで必要以上にそっけない口調で浜乃に言った。
「お客さんが来たんなら、邪魔しちゃ悪いな。それじゃ俺はここらでおいとまするよ」
「アラ、気を使わせちゃってごめんなさいね」
「別にいいよ。だって、お侍さんを放っておくわけにもいかんだろう。あの身なりからいって、きっと藤四郎さんのお得意さんなんだろ? それならお茶のひとつも出してやらなきゃ」
「あはは、うちの商売にまで気を回してくれてありがとう。それじゃまた、雲井様に怪しい動きがあったらすぐに教えてね。絶対だよ!」
「おう。また二人で後をつけよう」
「そうね。それにしても、雲井様ったら本当に水臭いわ。いつもご近所でこんなに親しくしてるのに、私たちに隠しごとをするなんて」
「……お、おう。それもそうだな」
ぷりぷりと怒る浜乃に、八五郎は曖昧な笑みを浮かべて答えた。
それから後も、八五郎は浜乃と一緒に何度か源次郎の後をつけてみたが、結局は源次郎が鳴かせの一柳斎に姿を変える瞬間を押さえることはできなかった。
浜乃はやけに慎重で、八五郎が大胆に源次郎に肉薄しようとするとすぐに制してきて、その間にいつも源次郎を見失ってしまう。八五郎としてはそれが少々じれったくはあったが、
──まあ、雲井の旦那の正体を突き止めたところで、誰の得になるわけでもねえしな。むしろ、正体が謎のままでいてくれたほうが、こうしてずっと浜乃ちゃんと二人で出かける口実ができるから、俺にとっちゃあ好都合だ。
などと呑気なことを考えていた。