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 カランコロン。
「お、いらっしゃい」
 店主の小川が笑顔で一郎を迎えます。
「早いじゃない」
 言われてカウンター裏の壁時計に目をやりますと、未だ十一時にもなっておりません。誘われるようにカウンター席に座ります。
「今日もナポリタン?」
「いや、食欲がないんだ。とりあえずコーヒーをもらうよ」
 いつもなら食欲をそそるケチャップの匂いが妙に鼻につきます。
「ドンキのところでサキちゃん見掛けたよ」
 ドリップの用意をする店主にさりげなく切り出します。
「ああ、さっき店に寄って昨日の話を聞いたよ」
 手元に目線をやったまま店主が答えます。
「大隅さんのおかげで助かったって。俺からも礼を言うよ」
 三十万円を渡したこと、愛人にしてくれと言われたこと、東武の改札前でキスをされたこと、次の土曜日に会う約束をしていること、いったい咲子はどこまで店主に打ち明けているのだろう、思いは巡りますが、それを質すことは憚られます。
 淹れたてのコーヒーが一郎の前に置かれます。
「ロック座のビルに入っていったけど」
 探りを入れます。もしかして、あの場所で働いているのではないかと疑い始めている一郎です。
「ああ、でもまだ開場までには時間があるからね。同じビルのネットカフェで時間を潰すんだろう。一時間百円だからね。うちで時間まで居ればいいって言ったけど、お客が来たら無視できないって出て行ったよ」
「開場まで時間を潰すって……」
 やはり勤めているのでしょうか。しかしいくらなんでも、鑑賞に堪え得る身体だとは思えない咲子です。
「十二時開場でショーは十三時からなんだよ。ショーまでモーニングのトーストセットでも食べるんじゃないかな」
 勤めてはいないようです。なぜか一郎、安心致します。
「それにしても女の子が一人でストリップ行くかね」
「なに言っているんだよ。浅草ロック座はストリップじゃないよ。表の看板にも書いてあるでしょ、ファッションヌードシアターって」
 それは知りませんが、ヌードになるということはストリップではないのでしょうか。どうにもその違いが一郎には分かりません。
「踊り子にタッチしたり、ましてやホンバンなんてとんでもない、踊りと裸を見せる場所なんだよ」
 小川が力説しますが、一郎にはピンときません。
(やっぱりストリップじゃないの)
 内心で反論します。
「どうしてサキちゃんはストリップ、じゃなく、そのファッションなんとかに行っているんだろう。女性の裸が見たいわけじゃないよね」
「ショーの参考にするんだってよ。あの子、ミュージカルもやりたいらしいからね」
「へぇ、そうなの」
「そらぐみって知ってるでしょ」
「宝塚の?」
「そうじゃなくて、宙重之助そらぐみのすけって有名な劇作家いるじゃない。その舞台の曲もいくつか提供しているんだよね」
「そうなんだ。偉いね」
 宙なんとかという有名な劇作家とやらも知らない一郎は、肯くしかありません。
「そんなことよりどうなのよ」
 店主がカウンターに身を乗り出します。
「どうって?」
「サキちゃんのことだよ。昨日お金渡したんでしょ」
「ああ、まあね」
「いくら渡したのよ」
「それはちょっと……」
「ふーん」
 小川が目を細めます。
「なに、それ」
「あの子は三十万円もらったって言ってたけど、もう少し多いのかなと思ってさ」
「三十万円だよ。ボクだって、そんな余裕があるわけじゃないし」
「で、そのあと、ことに及んだの?」
「いくらなんでもそれはないよ」
「なんだ、ねぇのか」
 小川が詰まらなそうに鼻を鳴らします。
「だいたい金と引き換えに身体を頂こうなんて考えないよ」
「ずいぶんお堅いことで」
 ドリップの終わったコーヒーが差し出されます。
「もっと気楽に考えたほうがいいぜ」
 小川が助言めいたことを申します。
「今どきの娘はね、金で身体を売るなんてぇこたぁ、そんな深刻に考えていねぇんだよ。むしろなにもしねぇほうが、相手を不安にするだけさ」
 訳知り顔で申すではありませんか。
「まさかマスターも?」
 咲子とやったのかと勘繰ります。もしそうであれば、咲子との関係は考え直さざるを得ません。
(いくらなんでも、顔見知りと共有するのはごめんだな)
「大丈夫だよ。俺はやってないよ」
 含み笑いです。一郎は不愉快さを覚えます。
「ま、一回だけね」
「エッ?」
「サキちゃんじゃねぇよ。サキちゃんの友達さ。ライブ仲間らしいんだけど、閉店間際に、スッカラカンでうちの店に来てさ、サキちゃんあてにしてね、五千円貸してくれって言うの。一週間後にバイト代が入るからとかでさ」
「貸したの?」
「三日もまともに食ってねぇって言うからよ」
「貸したんだ?」
「違うよ。くれてやったんだよ。サキちゃんは退勤してたから、店の鍵を掛けて、店の奥で処理してもらった。しゃぶってもらったのよ」
 一郎は冷めかけたコーヒーに口をつけます。
 美味しくはない苦みを飲み干します。
「今風に言えば貧困女子っていうやつよ。五千円でしゃぶってくれたよ。どうなってんのかね、今の若い子の感覚は」
 同じ疑問を店主自身に返してやりたかったのですが、隣の椅子に置いたコートのポケットにはED薬が入っています。
 それが負い目になってなにも言えない一郎です。
 カランコロン。
 いつものドアベルが一郎を救ってくれます。
「いらっしゃい」
「ナポリタン」
 見るまでもなく黒ジャンパーを着た男です。
「それじゃ、これで」
「ええ、もう帰っちゃうの? 昼休みこれからでしょ」
 小川が不満げに申します。咲子とのことを、根掘り葉掘り訊きたいのでしょう。
「今日は寄るところがあるんで、会社には直帰と断って出てきたんだ」
 わざとらしく腕時計を覗き、
「こんな時間か、すっかり無駄話してしまったな」
 せめてもの皮肉を吐いて店を後にします。

 再びの中座で申し訳ございませんが、そろそろ『アゼリア』と、その店主である小川正夫のこともご紹介しておかなければならないでしょう。一郎が知らないことも、お知り頂いていたほうが、これからの話もお解り易くなるというものです。
 まず『アゼリア』でございますが、決まった休みはございません。定休日の無い店です。従業員の咲子は水曜日と土曜日が休みですが、そもそも店主ひとりで十分に回せる店なのです。それだけヒマということです。
 メニューもナポリタン以外はホットサンドだけです。飲み物はホットコーヒーとアイスコーヒー、それにアイスミルク、それ限定です。注文があれば、ミルクを温めてホットミルクとカフェオレくらいは作ります。
 開店は午前七時で、閉店は午後五時、それも厳密なものではなく、咲子が上がる四時に、そのまま看板をしまうこともあります。
 それで食べていけるのか、と疑問に思われる方もいらっしゃるでしょうが、実は小川正夫、この界隈の小地主でございまして、ただ小地主とは申しましても、浅草の繁華街、ホッピー通りに何軒かの店を賃貸する身です。その家賃収入だけで、悠々自適の身なのですが、ただそれではヒマを持て余すので、ヒマ潰し半分に『アゼリア』を営んでいるような次第でして、喫煙を可にしたり、パソコンの持ち込みを禁じたりしているのは、なるべく客が寄り付かないようにという企みなのです。
 浅草と申しますと、世間の皆様は下町文化の町と考えるでしょうが、実はそうではないのです。
 江戸の文化を育んだ土地は神田でございます。さらに下町を代表するのは、永井荷風の『墨東綺譚』に描かれた隅田川以東の土地でございまして、その両者の特性を巧妙に取り入れたのが浅草なのです。
 下町と認識されている一方で、土地持ちの富裕層が多くおります。小川もその富裕層の末席に連なる者でしょうが、その多くがとまでは申しませんが、中には谷町気取りで、任侠を標榜する組織と繋がる者もいないわけではございません。
 さらに一郎は知りませんが、一郎が立ち寄ることがない閉店後の『アゼリア』には人相風体の怪しい男が出入りしているのでございます。筋者というのではありません。むしろそれより質の悪い、最近で申しますところの半グレというやからでございましょうか。そんな者たちが連絡場所に使っている『アゼリア』なのでございます。店子たなごが家賃を滞納しようものなら、小川の依頼でその者たち数人が徒党を組んで取り立てに参ります。延滞迷惑料まで含めて吹っ掛けます。小川とはそんな人物、そして『アゼリア』とはそんな店なのでございます。
 知らぬは一郎ばかりです。
 それに致しましても、祖父から引き継いだナポリタンの味だけは確かなもので、今までも何度か、雑誌だのテレビだの、取材させてくれないかという申し込みもあったのですが、もちろんそれは断固として断りまして、そればかりか、ネットで取り上げられることさえ厭うほどでございます。
 ですから『浅草』『アゼリア』と検索しましても、店舗が表示されることはありません。悪評の書き込みが見つかるだけです。そのうえ、電話帳にも載せていないのですから、新規の客が訪れることもございません。外国人観光客が浅草に多く訪れるようになってからは『NO English』という貼紙までするようになっております。
 それでもたまに間違って訪れた新規の客は不幸な目に遭います。不愛想な対応で出迎えられ、手抜きのナポリタンを食べさせられることになるのです。悪評が投稿されるのも当然のことでございます。
 幸い一郎の場合は、店主が一目見て気に入り、それは永年、ゴルフ場のフロントで客商売をしてきた経験が活きたのでしょう、この人物ならと、客らしい扱いを受け、数少ない常連客の一人として認められたのです。
 
『アゼリア』を出ました一郎、正午になろうかという時間に戸惑います。『浅草ロック座』の開演時間まで未だ一時間近くあります。それよりなにより、咲子が乗り込んでいるのでは、そちらに入るわけにも参りません。自分は女性の裸踊りなどに食指を動かさない大人の男性だと思わせたいのです。
 とはいえ、勤務先には直帰だと伝えております。予定が変更になったと申せば済む話でありますが、もはや気持ちはオフになっておりますので、それもいささか面倒に思えます。
 仕方がないので『うおや』にでも寄って、ホッピーで軽く仕上げて、午後は寝転がるかと思案しつつ、ホッピー通りを歩いておりますと、向こうから咲子が、トコトコ歩いて来るではありませんか。
 それに気付くのが一呼吸遅れてしまい、先に気付かれてしまいました。
 そうなりますと、「やあ」とばかりに手を上げるしかありません。軽く頭を下げた咲子が無表情のまま、トットットッと駆け寄って参ります。
「仕事が早く終わってしまってね」
 言葉を交わす距離で立ち止まった咲子に申します。咲子は相変わらずの無表情のままです。
「サキちゃん、どうしたの。きょう店はお休みだったんじゃない?」
 確か小川の話では、『浅草ロック座』が開場する正午まで、一時間百円のネットカフェで時間を潰しているはずの咲子です。それから開演の一時まで、トーストセットを食べていると申していたように記憶しております。
「ロック座に踊りを観に来たんですけど、開場まで時間があったのでこの辺りをぶらぶらしていたんです。いつもはネカフェのオープン席で開場時間を待つんですけど、今日はオープン席がいっぱいで」
 小川からの情報のままに答えます。ストリップを観に来たことも隠しません。
「そう、お昼は?」
 会話の流れで訊きます。訊きながら一郎は、ED薬を求めたクリニックの説明書きを反芻しております。
 硬さを求められる患者さんに好まれています、と説明書きにあったレビトラを服用して二時間くらい、効果の発現は三十分から一時間くらいとありました。
 さらに想いを巡らせます。効果の持続時間です。確か五時間から八時間くらいとあったはずです。
 ということは、今正に、臨戦態勢にあるということになります。
「未だ食べていません。もうすぐロック座が開場したら、トーストセットでも食べようかと思います」
「だったら一緒に食べようか」
「大隅さんもロック座に行かれるんですか? 私と一緒だったらカップル割で安くなりますけど」
「ロック座って、ボクは入ったことはないけど、女性でも入れるの? だってストリップなんでしょ」
 ED薬の効果を確かめたくて入るつもりだったことなど明かすはずがありません。しかし頭の中ではそれもありかなと考えております。裸踊りを鑑賞した後、いけそうだという確証を得て、そのまま咲子をホテルに連れ込む算段をいたします。
「ストリップではありません。確かに脱ぎもありますけど、ロック座のコンセプトはファッションヌードシアターです」
 小川と同じことを申します。ファッションとシアターという言葉を除けばヌードです。そういえば、昔ラブホテルと称していた連れ込みホテルも、いつの間にか、ファッションホテルと呼ぶようになっていたなと妙に納得します。
「そうなんだ。サキちゃんは行ったことがあるの?」
 ファッションであろうがシアターであろうが、ストリップ小屋に変わりはあるまいと考える一郎です。
「ええ、何度もあります。自分の舞台の勉強にしたいと思います」
「参考って、まさか舞台で脱ぐわけじゃないよね」
「私みたいな貧相な身体で脱いでもお客さんが引くだけです」
 それが分かっていながら、なにを勉強するのだろうと、ますます一郎は不思議に思います。
「それじゃボクも後学のために一度覗いてみるかな」
「ご一緒しましょう」
 無表情だった咲子がニッコリと笑います。なかなか可愛い笑顔です。無垢です。
 咲子に先導されて開場間もない『浅草ロック座』のビルに入店します。
 階段を上がります。階段の壁面には、その日出演する踊り子たちの大型パネルが陳列されています。
 どの娘もなかなかの美形です。
 期待に胸が高まります。
 そしてそれ以上に、この後の咲子とのセックスに期待します。
 階段に飾られたパネルの娘たちに比べれば、容姿という点では、聊か見劣りのする咲子ですが、小学生と言われても、不思議ではない咲子なのです。それを金で愛人にして自由にするのです。なんとも言えない背徳感が堪りません。
 チケット売り場に至ります。
 通常料金は五千円です。女性料金は三千五百円で先ほど咲子が口にしたカップル割は七千五百円です。一万円札を出して釣りとチケットを受け取ります。
「まだ開演まで時間がありますから、食事をしてもいいですか」
「ああ、ボクも昼は未だだから、なにか食べよう」
 ロビーに併設されたカフェに向かう途中で「タイムテーブル」と掲示されたパネルを横目で確認します。
 ステージは全部で五回、最初のステージが十三時から十四時四十分です。そのあと、二十分ずつの休憩時間を挟んで、終演は二十二時四十分です。
 もちろん終演まで鑑賞するつもりはありません。
 なにしろ現時点で、体内を巡っているであろうレビトラ成分の効果発現時間は五時間から八時間なのです。服用したのが午前十時前後でしたから、安全を考えれば、遅くとも十五時までにはことに及ぶ必要があります。
 最初のステージを最後まで鑑賞し、それから急いでホテルにしけこんだとしても、時間ギリギリです。
 とは申しましても、最初のステージの途中で抜け出すのも、いかがなものかと思案致します。なにしろ咲子は舞台の「勉強」に来ているのです。そんな咲子を急き立てて、ホテルに行こうなどと言えるでしょうか。
 十三時の開演前にもう一錠追加服用しておくかと、それが一郎の結論です。それならば、その時間から最大八時間、二十一時までは効果は持つはずです。
「トーストセットでいいですよね」
 咲子に問われハッとします。
「ああ、いいけど」
 カウンターに置かれた小さなホワイトボードにモーニングセットとあります。
 正午過ぎなのにモーニングというのに苦笑させられます。
 トースト二枚にジャムとソフトドリンクがセットになって二人分で千円です。ホットサンドセットもありますが、それほど空腹ではありません。咲子とのことで頭がいっぱいです。
 カウンターに座ってトーストを食べておりますと、ぱらぱらとほかの客が入場して参ります。真っすぐ客席に向かう者がほとんどで、たまにカフェに入ってきた客は、やはりチラリと咲子に視線をやります。ただ視線をやるだけで、それほど驚いている風でないのは、女性客も珍しくないということなのでしょうか。
 食べ終わって客席に移ります。
 思った以上に広めの客席ですが、客はほぼ一箇所に固まっています。
「大隅さんも前盆がいいですか?」
「前盆?」
「みんなが固まっているあの丸いところです」
 ステージから客席に伸びる花道の先端が丸くなっております。客のほとんどが集まっている場所です。前盆と言う咲子の専門知識に軽い驚きを覚えます。
 温泉場で冷やかしたことはありますが、本格的なストリップが初めての一郎にも、踊り子が先端の丸い部分で踊ったり股を開いたりするのだろうと、それくらいの想像はできます。
「サキちゃんはいつもどこで観ているの?」
「私はステージ全体が見える後ろの席で鑑賞します。前の席に座ると、時々勘違いした人に触られたりしますから」
「それじゃ、ボクも後ろの席でいいや」
 咲子と二人並んで、入り口近くの席に着きます。
 やがて開演の時間になってショーが始まります。
 中にはラジオ体操かと思うような踊りをする娘もおりますが、ショーの内容は総じて華やかなもので、一郎が知る温泉場のストリップとは明らかに違うものです。もちろんストリップですから、全裸になっての御開帳も約束通りです。
 踊り子ひとりの持ち時間は十分少々でしょうか、次々に踊り子が変わります。それらの裸体を眺めているうちに、一郎の下半身がムズムズし始めます。勃起しているわけではないのですが、どことなく収まり具合を悪く感じるのです。
 それはまったくのところ無意識の行動だったのですが、掌を咲子の剥き出しの腿に置きます。
 その手を咲子に押さえられ、ハッとした一郎は、その場しのぎに申します。
「ちょっとトイレに行ってくる」
 断って席を立ちます。
 トイレでズボンのチャックを下ろして陰茎を取り出します。呪縛を解かれたとでも申しましょうか、縮こまっていた陰茎は、一郎の手の中で、ムクムクと成長致します。小便を排出し、何年かぶりで硬くなりましたそれをズボンに収め直して席に戻ります。
 踊り子に目をやったまま手探りで咲子の手首を掴み、己が股間に導きます。
 咲子が指を広げズボンの上から一郎の形を確かめます。
 了解の意思だと理解します。
「出ようか」
 上体を斜めに傾げて咲子に囁きかけます。
 咲子が小さく肯いたのを気配で知って、手首を掴んだまま席を立ち出口に向かいます。股間はますます硬度を上げております。

 

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