極貧のホームレスから62歳で大藪春彦賞作家に。話題作連発の奇才が自著でもっとも愛する作品が文庫化された。消費者金融から起業家、失敗と転落、作家への再起。数奇な人生を歩む著者の記憶に残る昭和の原風景は下肥汲みだった。

「小説推理」2019年9月号に掲載された書評家・細谷正充さんのレビューで『純子』の読みどころをご紹介します。

 

純子

 

■『純子』赤松利市  /細谷正充:評

 

貧しい村の下肥汲みの家に生まれた少女の、汚穢に満ちた物語。赤松利市、とんでもない話を書いてくれたものだ。本書を読むには、覚悟が必要である。

 

 まず最初に、注意を喚起しておく。赤松利市の最新刊は、スカトロジー(糞尿譚)の要素が強い。その手のものが苦手な人は、避けた方がいいだろう。だが大丈夫なら、強く薦めたい。非常に優れた作品であるからだ。

 物語の主な舞台は、高度経済成長から取り残された、四国の山深い里だ。主人公の純子の家は、その貧しい里の最貧困家である。純子が2歳のときに、心を病んだ母親が自殺。祖父母と叔父と純子の家族は、村の下肥汲みで生活をしている。純子の父親はインテリらしいが、一月に一度訪れて、金を置いていくだけだ。やがて訪れなくなり、金だけが送られてくるようになる。

 小学生になった純子だが、祖母の歪んだ英才教育を受け、やがて自分が売られると思っている。また糞を食べることも平気だ。なぜか地蔵と話し、夜にやって来る僧形の老人を不思議とも思わず、美少女として成長していく純子。ところが、高度経済成長の波は里にも押し寄せ、さらに水が涸れるという危機に見舞われるのであった。

 本書の描写は、とにかくドギツイ。なかでもスカトロ関係が図抜けている。『らんちう』でも、殺される男の脱糞シーンが描かれていたが、さらにパワーアップ。純子の排泄や食糞の克明な描写など、読んでいて辟易してしまった。エロ業界で、ひとつのジャンルを成すほどスカトロ物は人気があるが、そうしたものとは一線を画した、異様な迫真性に満ちているのだ。

 しかし作者は、奇を衒っているわけではない。人間は食べて排泄するだけの糞袋だといわれることがある。作者の根底にある思想は、これであろう。そしてそれを踏まえて、人間の在り方を主張する。純子と彼女を好きになった3人の少年の黄金の日々。水が涸れる里を救おうとする純子の献身。歪んだ環境で成長した彼女は、歪んだまま聖性を獲得するのだ。これほど特異なヒロインと、汚穢と聖性を併存させたストーリーを生み出すのは、作者でなければ不可能である。

 また本書は、土俗と近代の相克を抉った作品でもある。バキュームカーの導入により、生活の糧を取り上げられる純子の一家。あるいは里から町に出て、金を稼ぐようになった純子の叔父。このような部分を通じて、土俗の象徴である里が、近代化の波に飲み込まれる様子を、作者は冷徹に見つめているのだ。覚悟を決めて読む価値のある作品といっていい。