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 その日の夕方も、一郎の姿はホッピー通りにございました。しかし目指しますのは『うおや』ではなく、ナポリタンの『アゼリア』です。
 昼食に『アゼリア』を訪れました折、店主の小川から「折り入って相談に乗ってもらいたいのだが」と、持ち掛けられたのです。
「相談って?」
「いや、俺のことじゃないんだ」
 そう申します店主が目線をやりましたのは、店の隅で、銀のお盆を胸に抱えて俯くエプロン姿の咲子です。
「どんな相談なんだろう?」
 店主にともなく咲子にともなく、一郎は訊ねます。
「いや、ちょっと込み入った話なんでね、どうだろう。あの子が店を終わるのは四時なんだが、大隅さんの仕事終わりに店に寄ってもらえないだろうか。なんか予定があるんだったら、後日でも構わないんだけど」
 咲子は俯いたままで、遠慮がちに申します店主に了解の旨を伝えますと、店主は咲子に歩み寄り、俯いた肩に手を置いて申します。
「サキちゃんよかったな。大隅さんが相談に乗ってくれるとよ」
 未だ相談に乗ると答えたわけではありません。聞いても構わないというくらいのつもりで答えただけです。しかし顔を上げて潤んだ目の咲子に見つめられ、その上深々と頭を下げられたのではどうしようもありません。五時過ぎには寄るからと、答えるしかなかったのです。
 カランコロンとドアベルを鳴らして『アゼリア』のドアを開けます。もう店仕舞いの時間のようですが、鼻に馴染んだケチャップの香りが致します。
「大隅さん、悪いね」
 カウンターの向こうでグラスを拭いていた小川が軽く手を上げます。咲子はと申しますと一番奥の席にかしこまっております。今どきの小学生でも嫌がりそうな、赤い水玉模様の、いかにも安物としか思えないワンピースに着替えております。
「サキちゃん、大隅さんに飯でも奢ってもらいなよ」
 その場の空気に不似合いな軽い口調で小川が咲子に語り掛けます。コクリと小さく肯いて咲子が席を立ちます。隣の席においてあった防寒コートを手にトコトコとした足取りで、一郎のもとに歩み寄ります。
「それじゃ大隅さん頼んだよ。普段、ロクなものも食ってないだろうから、今夜は肉でも食わしてやってよ」
 そう申します小川の声が肩の荷を下ろしたように聞こえます。
 一郎がそう感じたことは、あながち間違ってはおりません。
 実は店主の小川正夫という人物、生まれも育ちも下町浅草というだけのことはありまして、常日頃から面倒見の良い老人を演じておりますが、その実態は、自分に負担が及ぶことをなにより厭う男でございまして、そんな人物ですから、困窮する咲子を、まんまと一郎に押し付けたことに安堵していたのでございます。
 そうとは知らない一郎は、
「外は未だ寒いよ。コートを着れば」
 赤い水玉ワンピースの咲子に声を掛けます。向かい合って立つと、咲子の背は身長百七十センチの一郎の胸くらいしかございません。
 肯いて、咲子が手にしたコートというか、むしろ防寒着と呼んだほうが適切かと思える濃緑色のそれを羽織ります。小柄な身体にまるで合っておりません。焦げたような臭いも微かにします。
 おそらくその防寒着は、アル中のギャンブル狂いと聞いた父親のものであろうと推測します。
 連れだって『アゼリア』を出ます。
 さてと一郎は考え込みます。
「お酒は飲むの?」
 フードを被った咲子の顔を覗き込むようにして訊ねます。
「飲めないです」
 蚊の鳴くような声が返ってまいります。
 アルコールが飲めるなら、すぐそこの行きつけの『うおや』に連れて行こうと算段していたのですが、飲めないとなると、それもどうかと思われます。
「ちょっと歩くよ」
 告げて目指しますのは観音通りです。
 先ほどの店主の「肉でも食わしてやってよ」と言った言葉が耳に残っておりました。前々から気になっていた焼肉屋があったのです。
 その店の看板が目に浮かびます。『焼きレバー』というメニューの添えた括弧書きに(旧レバ刺し)とございます。
 ご承知の通り、牛レバ刺しは法律で禁止されております。
 平成二十三年四月、富山県などで五人が死亡するという食中毒事件をきっかけとして禁止されたものでございます。
 しかしそこはそれ、一郎もいくつかの店で、それは勤務する協会の飲み会の二次会などで、焼きレバーと称した牛レバ刺しを食したことがございます。その焼肉屋もその手の店に違いないと、常から目を付けていたのです。
 実際に入店しましてメニューを手に取りますと、メニューに掲載されている写真は見慣れた牛レバ刺しそのもので、それを一品、ほかに上タン塩、上ハラミ、上カルビを張り込みます。上尽くしにしたあたり、やはり一郎にも、若い女性と食事するという高揚感があったのでございましょう。
 肉に限らず魚も含め、生ものは食べられないという咲子に焼きを任せまして、レバ刺しで冷酒を舐める一郎です。
 やがて肉が焼けまして、
「どう美味しい?」
 無心で食べる咲子に問い掛けます。
「はい、美味しいです。肉なんて食べるのは六年ぶりです」
「六年ぶり?」
 はっきりと言い切る咲子の言葉に苦笑がこぼれます。
「ええ、私のマネージメントをしてくれていた会社が六年前に潰れました。その時に担当さんが、今半さんの本店に連れて行ってくれて、それ以来食べていませんでした」
 浅草国際通りに本店を構えます『今半』は、言わずと知れたすき焼きの名店です。
 申し遅れましたが、このお話に登場する店は、すべて浅草に実在する店です。店名も実在のまま記しております。しかしながら、この焼肉店に限りまして店名をご紹介することはできません。打診しましたがマネージャーに固く口止めされました。そのあたりのことは(旧レバ刺し)を提供している店だということで、何卒ご容赦賜りたく存じます。
 咲子が声のトーンを落として続けます。
「でも私のような者が、こんな高級なお肉を食べていいのでしょうか」
 この一言で場が一気に冷え込みます。
 コホンと咳払いをして一郎が申します。
「マスターの小川さんが相談に乗ってやってくれと言っていたけど」
 咲子の箸が止まります。
 揃えた箸を箸置きに置いて真っ直ぐな目を一郎に向けます。黒目と白目の境がくっきりとしております。三十二歳とは思えぬ澄んだ瞳に一郎はたじろぎます。
「三十万円が必要なんです」
 前置きもなく訴えます。
「貸してくれっていうことなの?」
 努めて冷静に問い返します。
「いいえ、今の私に、いえ多分これからも、それをお返しする収入はありません」
 しばしの沈黙が流れます。
 沈黙を破って咲子が言葉を続けます。
「喫茶店のお給料は十五万円くらいです。生活費でいっぱい、いっぱいです」
「福岡にライブに行ったって聞いたけど」
 中野の古書店でのライブを思えば、たいした稼ぎではなかっただろうと思いながら場つなぎの質問をします。案の定、咲子が首を横に振って申します。
「一万円少しもらっただけです。でも、主催した人は赤字だったと思います」
「中野のライブもたいした稼ぎにはならないんだろうね」
「よくて三千円くらいです。歌わせてもらえるだけでありがたいと思っています」
「そうなんだ」
 三十万円の使い途を訊くタイミングを計る一郎に、咲子がそれを語り始めます。
「父ちゃんが、悪い人から借金してしまったんです」
「三十万円も貸したの? 働いていない人に?」
「私の写真を見せて、娘が払うからって、父ちゃんが約束したんです。もし払わないんだったら私をお風呂に沈めるって」
「脅かされたんだ? でもたった三十万円で風呂に沈めるって大袈裟じゃない?」
 苦笑混じりの笑顔で申します。
「脅しじゃないと思います。別の人だったんですけど、借金払えなくて、私、無理やり裏ビデオに出演させられました。五人の男の人に輪姦されました」
 とんでもないことをさらりと言って退ける咲子に一郎は目を剥きます。
「それって犯罪でしょ」
 喉が渇いて声が掠れております。よほど衝撃的だったのでございましょう、グラスの冷酒を飲み干して咽せているではありませんか。
「でもお金を借りた父ちゃんも悪いし。それにアタシみたいな貧乏人、お巡りさんもまともに相手してくれないだろうし」
 それは違うよと否定したいのですが、妙に説得力のある咲子の言葉に納得してしまいます。
「だから三十万円都合してほしいんです。お礼は身体でします。私のこと、愛人にしてください」
「愛人って……」
「好きにしてくださって結構です。それともこんな子供みたいな女はダメですか?」
「いや、ダメじゃないけど」
 どう答えてよいのか口ごもっております。
 還暦過ぎまで独身を通してしまった一郎ですが、もちろん童貞というわけではありません。それなりに恋をし、付き合った女性も何人かおります。それ以外にも、風俗利用の経験もあります。
 むしろ四十を超えたあたりからは、専ら風俗で精を放っておりました。自涜じとくもしました。ただそれも十年ほども前の話で、ここのところは朝勃ちさえ致しません。そんな一郎ですから、目の前の、少女とも見紛う若い娘から、好きにしていいと言われて狼狽しているのです。
「まぁそのぅ、愛人どうこうは兎も角として、えーと近くに銀行はあるかな。いやもう閉まっている時間か。コンビニだな。いやいや、コンビニって引き出し額の制限があるんだったっけ。だったら銀行のATMか」
 しどろもどろに申します。
「お客さん」
 店員に声を掛けられびくりとします。
「肉が焦げていますよ」
 言われて鉄板に目をやりますと、なるほど咲子が並べた肉が炭になっています。
「食べます」
 きっぱりと言い切った咲子が、半ば炭になった肉を無心で口に運びます。ジャリジャリと炭を噛む音が聞こえてきます。
「おいおい、大丈夫なの? 無理はしなくていいんだよ」
「大丈夫です。家ではもっと酷いものでも食べていますから」
 笑顔で言う咲子の歯が炭で黒く汚れています。
 瞬く間に鉄板の上の肉を平らげ、それをウーロン茶で胃に流し込んだ咲子が大きく息を吐いて申します。
「あー、美味しかった。ご馳走様です」
 咲子が食べ終わりましたので勘定をして外に出ました。
 綾瀬に住んでいる咲子の通勤の足は東武線です。エキミセと通称されるデパートの二階に乗り場があります。同じ二階にみずほ銀行のキャッシュコーナーがあるのを思い出し、そこで一郎は三十万円を引き出し、備え付けの封筒に入れて咲子に渡します。
「今夜はお付き合いしないでいいんですか?」
 咲子がてらいもなく訊きます。
「今日のところは急な話だから」
「毎週水曜日と土曜日が休みです。明日の水曜日の都合はどうでしょう。大隅さんの自宅でも、ラブホでも」
 積極的と申しますか、あっけらかんと申しますか、益々ますます一郎は答えに窮します。
「水曜日はボクも仕事があるから……」
「それじゃ土曜日にやりましょう」
「いや、やるとかやらないとかでなく、もう少し、お互いのことを知りたいよね」
「やっぱり私じゃ……」
 三十万円の入った封筒を握り締めたまま、咲子が俯きます。
「そうじゃないんだ。ほら、ボクもこの歳だろ、やっぱりいきなりというわけにはいかないよ。いろいろ心の準備も必要だし」
 苦しい言い訳をしておりますが、実のところ自分のものが役に立つのかどうか、それが一郎の心配事なのでございます。すでにこの時点で、心の準備ではなく、ED薬を準備しなくてはと、ぼんやり考えている一郎です。
 いきなり咲子が背伸びして、一郎の後頭部を抱え込みます。なんとか踏み止まった一郎に、ぶら下がるようにして唇を押し付けてきます。そのまま小さな舌が挿し込まれます。
 場所は東武線の改札前です。通勤客も少なくありません。思いもよらなかった咲子の振る舞いに、舌を絡めることもできず、硬直するばかりの一郎です。
 唇が離れます。
 硬直したままの一郎にペコリと頭を下げた咲子が申します。
「それじゃ土曜日楽しみにしています。細かいことは、またお店に来られたときにでも。今日はここで失礼します。ありがとうございました」
 咲子が背中を向けます。自動改札を通り抜けて人込みへと紛れていきます。手には三十万円の封筒がしっかりと握られています。斜め掛けにしたポシェットに仕舞う気はないようです。
 人込みに紛れていく咲子の小さな背中を目で追います。やがて見失ってしまい、ようやく一郎は我に返ります。
 あんな若い娘と……
 一郎の胸に去来する想いはその一念です。
 まさかこの自分が……
 もうこの段階で、一郎はセックスをする気満々です。三十二歳という咲子の年齢は、一郎の娘といってもおかしくない年齢です。ただし咲子の見た目は、娘どころか孫といってもいいくらいあどけなく見えます。
 それから一郎は新仲見世通りへと歩きます。寝酒の一杯もらないと、とても眠れない気がしたのです。
 向かった店はいつもの『うおや』ではございません。ホッピー通りに向かう気にもなりません。せめて今夜くらいは、と考えたのです。
 一郎が選んだ店は、新仲見世通りから少し入った路地裏でした。
 そこに目を付けていた店があるのです。抱えるほど大きな赤提灯に『瓢箪』と墨書きを模した店名が記されております。
 その店は銘酒を売りにする店で、朝の通勤時、店前に出された空の一升瓶を眺め、なかなかの酒を揃えているなと感心していたのです。
 今でこそ、朝は『富士そば』、昼は『アゼリア』、そして夜はホッピー通りの『うおや』で節約し、手取り四十三万円から、月々十万円を老後の貯えとしている一郎ですが、かつては銀座、赤坂、六本木と、高級店を飲み歩いた経験がございます。銘酒の蘊蓄うんちくもそれなりに有しておりますし、口も肥えております。
 何日か前の通勤途上、店前に出された空き瓶から、特に一郎が目に留めましたのが、会津の銘酒『飛露喜ひろき』です。この『飛露喜』は、そうそうお目にかかれる酒ではございません。蔵元が限定販売にこだわっており、入荷しました際には「飛露喜入荷しました」とわざわざ貼紙をする店もあるくらいです。
 ホッピーで直接的な酔いを求めるだけでなく、今夜は馥郁ふくいくとした日本酒で、心地よい酔いに身を任せたいと願ったのでございます。
 未だ宵の口の『瓢箪』の店内は八分通りの込みようでした。
 コの字型のカウンター席が二十席ほど、四人掛けのテーブル席が三席あります。
 案内されるままカウンターに着きました。壁の黒板には『飛露喜』としっかり書かれています。一杯が千八百円です。やや躊躇ためらう値段でしたが、ここまで来てビールはございません。思い切って『飛露喜』を注文します。
 突き出しは菜の花の胡麻和えでした。
 春を思わす突き出しに、ひとりで照れる一郎です。その脳裏には、咲子の肢体を弄ぶ己がイメージされております。
 升にのせたグラスが置かれます。
 若い店員が一升瓶から『飛露喜』を注ぎます。
 グラスから溢れた『飛露喜』が升に溜まります。モッキリです。
 尖らした唇から迎えに行って、グラスの縁から『飛露喜』を啜り込みます。
 芳醇な香りが鼻腔に広がります。
 菜の花の胡麻和えを一撮ひとつまみ箸で口に運び、春の味を堪能してから升の上にグラスを持ち上げ口から迎えに行って『飛露喜』を含みます。
 なんとも豊かな酔い心地に体がとろけるようです。
「今夜のお品書きです」
 店員が一郎の前に一枚の紙を置きます。
 筆書きされた品書きをコピーしたものです。
 今夜のと、あえて断っているのですから、毎日更新されている品書きなのでございましょう。
 弥生と記されたメニューは「小鉢」「造り」「焼き物」「蒸物」「揚げ物」に区分されております。
 その中でも一郎の目を惹きましたのは「造り」です。なんと「九会刺し」とあるではございませんか。クエの刺身に違いありません。
 もう何年も前に、銀座だったか赤坂だったか、一郎は、若手経営者と訪れた店で食べたことがございました。もちもちとした歯ごたえでクセがなく、それでいて脂の乗りを楽しんだ記憶が甦ります。
 しかし値段を見て思い留まります。
 七千円とあったのです。
 超高級魚で、紛い物まで流通しているクエでございます。その値決めこそ本物の証左かもしれないのですが、さすがに七千円には気持ちが萎えます。
 代わりに白子ポン酢を頼みます。それに致しましても千二百円です。
 紅葉おろしを添え浅葱を散らした白子ポンズも絶品でございました。
 添え物のワカメの歯応えの良さが、白子の柔らかさを引き立てます。
 思わず『飛露喜』をお代わりし、春キャベツのからし和えまで注文したものですから、勘定は六千円を超えてしまいました。
 
 その翌日、デスクに座った一郎が、最初にしたことはインターネットによる検索です。ED薬を手に入れようと計ります。
 目的とする医院はすぐに見付かりました。「予約不要」「保険証不要」「男性スタッフのみ」「駅から徒歩0分」「院内処方」「最短で処方まで五分間」そんな言葉が並びます。ED薬のチェーンのようです。
 もっとも近い新橋の医院を選びます。
 地下鉄新橋駅の5番出口直ぐのコンビニのビルの三階が目指す医院です。
 ほかの職員の手前、プリントアウトするわけにも参りませんので、駅からの道順をよく確認し、念のため電話番号をメモします。
「ちょっと出掛けてきます」
 経産省から天下りしてきた事務長に声を掛けて席を立ちます。「どちらへ?」と訊かれることもありません。なにしろこの事務長、一日の大半を席で居眠りしている職員なのです。年齢は七十を超えております。一郎が、自分の定年延長を軽く考えているのも事務長のおかげです。
「何時ごろお帰りでしょう」
 声を掛けてきたのは女子事務員の小金井こがねい真理子まりこです。
 彼女も日がな一日、婦人雑誌などで時間を潰す職員です。
 いちおう経理担当ということになっておりますが、通帳と印鑑を管理しているのは一郎で、仕事らしい仕事といえば、総会の打ち合わせなどで理事長や理事が顔を出したとき、お茶汲みをするくらいしか仕事がない真理子です。
「午前中には戻る」
 そう言い置いて事務所を後にします。
 最寄りの銀座線田原町駅に急ぎ、渋谷行きに乗ります。
 田原町から新橋までは二十分足らずの距離です。
 指定された出口を上がりますと、確かにコンビニがございます。
 コンビニのビルに入り、エレベーター横に貼られたプレートに目的とする医院の表示がございます。
 エレベーターで三階まで上がります。
 ドアが開くと目の前が医院です。
 それはクリニックという表示があるからそうだと分かるもので、なければ普通の会議室だと思ってしまうような医院です。
 室内も同じで、簡素なカウンターの向こうに若い男性が座っております。
「処方ですか?」
 問われたので一郎が肯きますと、紙を挟んだクリップボードとボールペンが差し出されます。「問診票」と記された紙です。
 既往症、服用している薬、アレルギーの有無などの質問事項が並ぶ、ごく普通の問診票です。普通と違いますのは、「お名前は匿名でも構いません」と、受付の青年から言われたことです。
 一郎は『アゼリア』の店主の苗字を借りて、小川一郎と記入します。
 問診票を渡すと仕切り板の向こうのドアに入るよう指示されます。
 ドアを入ると、そこが診察室のようで、白衣を着用した中年の医師らしき男性が事務椅子に座ったまま一郎に丸椅子を勧めます。
 奥のドアから先ほどの受付の若い男性が入室し、クリップボードを無言で医師に渡します。鷹揚な態度でそれを受け取った医師が軽く目を通します。受付の男性は医師の横に控えています。
「何回分必要ですか?」
 医師に訊かれます。その言葉の意味に一郎はハッと致します。
 通常であれば、「二週間分のお薬を出しておきますね」などと言うであろう場面で、医師は「何回分必要ですか」と訊いてきているのです。それは即ち、「何回セックスしますか?」という問い掛けと同義ではございませんか。
 それに気付いて一郎は皮算用を始めます。
 咲子に融通した金は三十万円、一回五万円として、いやいやそれは高過ぎるだろう、一回二万円として、いやいやそれは、いくらなんでも安くはないか、そのようなことをあれこれ思案し、とりあえずは三万円に落ち着きます。一郎が納得できる咲子とのセックス単価がそれでした。
「十回分をお願いします」
 肯いて医師が袖机からクリアファイルを取り出します。一枚のパンフレットを抜き出して、一郎に差し出します。
「当医院で処方できる薬の種類です。ご希望を仰ってください」
 バイアグラ、レビトラ、シアリスと並んでおります。曲がりなりにも一郎の知識としてあるのはバイアグラです。
 パンフレットを見ながらED薬を吟味します。
 先ずは特徴。
 バイアグラは使用実績を謳っております。レビトラは即効性を、シアリスは効果時間が長い薬のようです。
 次に服用時間。
 バイアグラは性行為の一時間前、レビトラは三十分から一時間前、そしてシアリスは一時間から三時間前、やや幅はございますが、いずれも一時間前に服用すれば問題がないようです。
 そして効果の持続時間。
 バイアグラは五時間程度、レビトラは五時間から八時間、そしてシアリスは三十時間から三十六時間程度。
 ここで一郎はハタと悩みます。シアリスの効果の持続時間に考え込みます。
 考えておりますのは、これからの咲子との付き合いの形でございます。
 咲子の休みは水曜日と土曜日です。週に一度、それも時間を限られた逢瀬ということでしたら、シアリスの持続時間は無駄に思えます。
 しかし咲子は一郎の愛人になると宣言しているのです。愛人であれば、温泉旅行などという場面もあるのではないでしょうか。もちろんそうなれば、『アゼリア』を休むことも必要になりますが、福岡ツアーとやらで、三日間の休みを取っている咲子なのです。二泊三日の旅行というケースも考えられるでしょう。となりますと、シアリスの効果の持続時間が三十時間から三十六時間程度というのも、重宝するのではないかと思えるのです。
 シアリスをと言い掛けて、特徴欄の最後に説明される一文が目に飛び込んで参ります。それは勃起の程度を表すものです。バイアグラには、それに関する表記はございませんが、レビトラには「硬さを求められる患者さんに好まれています」と。いっぽうシアリスには「硬さは自然の勃起に近くなります」とあるのです。
 いささか曖昧な表記にも思えますが、どうやらレビトラは、三剤のなかで勃起力に定評があるようです。
 未だアダルトビデオなども普及していなかった高校生の折に、隣町の映画館でロマンポルノを鑑賞し、ズボンの前が痛いほどに膨張した想い出が蘇ります。もしあれほどの勃起が得られるのであればと、物は試し、期待半分で、結局一郎が選んだのはレビトラでございました。
「それではレビトラを十錠でよろしいですね」
「はい、そちらでお願いします」
 一郎の答えを確認し、受付の若い男性が奥のドアに消えます。
 診察室を出ますと、すでに薬の用意はできております。レビトラ一錠千八百円、それが十錠で一万八千円を支払い薬袋と診察券を受け取ります。診察券には『小川一郎』とさっき一郎が記した偽名が記されています。
「次回ご用命の際はこちらの診察券をご提示ください」
「これ、飲んだら、一時間後には……」
 適切な言葉が見つかりません。ギンギンになるの? と訊くのはさすがに躊躇われます。受付の若い男は慣れているのでございましょう。嫣然えんぜんと微笑んで申します。
「何もしなくて勃起するわけではありません。それなりの刺激が外部から与えられたときに反応するんです」
「そ、そうなんだ」
 それなりの刺激というものがどういう刺激なのか、具体的に訊きたかったのですが、さすがにそれは憚られます。一郎は薬袋をコートのポケットに入れて、クリニックを後にします。
 医院が入居するビル一階のコンビニでペットボトルの水を求めます。
 コートのポケットから手探りでレビトラを一錠取り出します。
 買ったばかりの水で服用します。
 本日は水曜日、咲子となにを致しますのは三日後の土曜日でございますが、先ずはED薬の効能の程度を確かめておきたかったのです。
 勤務先に連絡を入れます。
 真理子が出ます。
「ちょっと用事ができたから、今日は直帰させてもらうよ」
 それだけ告げて、相手の返事も待たずに電話を切ります。
 地下に降りて銀座線に乗り、田原町駅で降りて目指すは浅草ロック座です。
 ストリップの殿堂ともいわれる浅草ロック座は、咲子の父親が通う場外馬券場の道向かいにあります。いえむしろ、歴史と知名度から申しますと、浅草ロック座の前に場外馬券場があると申すべきでございましょう。
 国際通りを浅草ロック座へと急ぐ一郎は、先ほどの医院の受付で言われた「それなりの刺激」を得て、ED薬の効果を確かめてみようと考えているのです。
 浅草ロック座には未だ入ったことはございません。
 ストリップを観劇するなどという情熱は、ゴルフ場を追われ、浅草に移り住みました時点でなくしておりました。
 国際通りを黙々と歩き、ROXを超えて二つ目の角を右に曲がります。さらに少し歩き、ドン・キホーテの角を左折しますと目指すロック座です。
 一郎の足がハタと止まります。
 思わぬ人物が少し先を歩いています。
 低身長で小枝のような手足のおかっぱ頭、濃緑色のジャンパーを羽織り、その裾から水玉模様のワンピースがのぞいています。素足にサンダル履きです。
 咲子です。そういえば今日は休みだったなと思い至ります。
 咲子の自宅は綾瀬のはず。それがどうしてこんなところを、と思う間もなく、咲子の姿が浅草ロック座のビルに消えます。
 咲子が消えたビルには、漫画喫茶やネットカフェも入居しています。まさか咲子が一人で浅草ロック座を訪れたとも思えません。
 昨日の今日だけに、出鼻を挫かれた格好になった一郎は、きびすを返しホッピー通りへと向かいます。もちろん酒を飲もうというのではありません。『アゼリア』で早目の昼食でも食べるかと考えたのでございます。

 

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