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 もちろん、このテーブルの椅子も二脚だし、明らかに男物の服や腕時計もあったし、覚悟はしていたことだ。でも、男と住んではいるけど弟もしくはルームメイトで、恋愛関係はないということもありえるんじゃないか――なんて希望はあっけなくついえた。
「じゃ、旦那さんがずいぶん成功してるんだな。そりゃよかった」
 俺は笑顔を作って、全然ショックなんて受けていない風を装った。
「で、旦那さんはどんな仕事をしてるの?」
 俺が尋ねると、マリアは困ったような顔をして、しばらく沈黙した後で言った。
「善人君……何も知らないんだね」
「えっ?」
「地元に帰ったりとか、昔の友達に会ったりとか、あんまりしてないんだね」
「まあ、あんまりっていうか、もう全然してないな」
「そっか……」
 マリアは、しばしうつむいた後、言いづらそうに告白した。
「私、お医者さんと結婚したの」
「医者……」俺の心がざわついた。
「そのお医者さんっていうのは、善人君の、よく知ってる人。……ちょっと待ってて」
 マリアは、いったん玄関の方に行ってから、両手で四角い物を抱えて戻ってきた。
 それは、結婚式のフォトフレームだった。
 ウエディングドレス姿のマリアと、タキシード姿の、でっぷり太った眼鏡の男が並んだ写真。そのフォトフレームには、こう刻まれていた。
「Happy Wedding TAKESHI(ハート)MARIA」
 やっぱりそういうことか――。相手が医者と聞いた時点で、予感はしていた。
 マリア以上に長い時間を共有してきた、幼なじみであり親友でありライバルでもあった男の顔は、十五年以上の月日で多少変化しようとも、忘れられるはずがなかった。思えば、マリアと初めて会った日に、俺の額にたんこぶができたのも、こいつのせいだったのだ。
 俺は、胸が詰まりそうになりながらも、祝福の言葉をかけた。
「へえ……。小学校からの幼なじみ同士で結婚なんて、ロマンチックな話だな。おめでとう」
 すると、マリアがふと思い付いたように言った。
「そうだ、この後時間ある? もしよかったら、主人が仕事終わった後で、久しぶりに三人で……」
「いや、遠慮しとく」
 俺はマリアの言葉を遮って、きっぱりと言った。
「悪いけど……俺たちは、再会を喜び合えるような仲じゃないから」
 それを聞いて、マリアは悲しそうにうつむいた。でも、事実だからしょうがない。
「マリアが幸せそうでよかったよ。……じゃあ、達者でな」
 俺は、精一杯強がって立ち上がり、リビングを出ようとした。一刻も早く立ち去りたかった。
 だが、すぐマリアに呼び止められた。
「待って。携帯番号、交換しない?」
「ん、ああ……」
 俺が答えあぐねていると、マリアはすぐ付け足した。
「主人には教えないから」
 たしかに、それも気になる問題ではある。だが、それ以上に大きな問題がある。
「えっと……俺、未だにガラケーなんだよね」
「ああ、お仕事用の?」
「うん、まあ……」
 この携帯電話で番号を交換しちゃうと、マリアの電話番号を、前歯が欠けた還暦過ぎの泥棒のおじさんの携帯に登録しちゃうことになるんだけど、それでもいい?――なんて正直に言えるわけがない。
「でも善人君、自営業みたいな感じなんだよね。じゃ、その携帯にメールしても、会社の人に怒られたりはしないよね?」マリアが尋ねてきた。
「ああ……うん」
 そうだった。ついさっき自分でついた嘘の設定を忘れていた。
「じゃ、番号とメールアドレス教えてよ。もしプライベート用の携帯があるんだったら、後でそっちの番号とアドレス送ってくれてもいいし」
「うん……分かった」
 結局、マリアの頼みを断れず、俺はスーさんからの借り物のガラケーを開いた。
 だが、そこで俺は、さっそくピンチに陥った。
「えっと……」
 どうすれば自分の番号とアドレスが出るのか、操作方法が分からないのだ。
とりあえず、前に俺が持っていたガラケーと同じように、メニューボタンを押した後「0」を押してみた。すると、幸い一発で出た。
 ところが、さらにまずいことに気付く。番号とアドレスだけでなく「須藤法彦 スドウノリヒコ」と、スーさんの氏名も一緒に出てしまったのだ。スーさんってこんな本名なんだ、泥棒のくせに法律の法が名前に入っちゃってるんだ……と思いながらも、当然この画面をマリアに見せるわけにはいかないので、動揺を隠しながら言った。
「ああ、俺のアドレス長いから、先にマリアに教えてもらった方がいいな」
「あ、そう? じゃ、私の番号言うね。080……」
 俺はマリアの電話番号をボタンで打ち込む。そうすると「発信」と「登録」という選択肢が出た。「登録」のボタンを押し、まずマリアの電話番号と名前を登録した後、その登録画面からメールアドレスの項目を選択して、マリアのスマホにアドレスを表示してもらってそれを打ち込めば、無事に登録が完了した。
「じゃあ、えっと……ワン切りと空メールするわ」
 俺はそう言って、たった今登録した番号とアドレスに、電話をかけてワンコールで切った後、空メールを送る。不慣れな携帯電話でも、どうにか無事に操作を終えることができた。とりあえず、自分の携帯電話じゃないことがばれなかったのでホッとした。
「善人君が最初に携帯買った時も、こんな感じで番号交換したよね。たしか高一の時」
 マリアが懐かしそうに言った。
「あ、そうだったっけ? よく覚えてないな」
 俺は笑顔を作りながらも、これ以上思い出話を弾ませても惨めになるだけだと思って、会話を切り上げた。
「じゃあ……そろそろ、おいとまするわ」
「うん、また連絡するね」
 玄関に向かった俺に続いて、マリアが結婚式の写真を持ってくる。
「あ……わざわざ、それを持って見送ってくれるのか」
「あ、いや、ここに置いてあったから」
 マリアが玄関の脇の棚を指差した。――昨日は逃げるのに必死だったし、今日はスリッパを即座に発見したことをマリアに指摘されて焦っていたから気付かなかったけど、冷静に見れば、来客から見える位置に結婚式の写真を飾っていたのだと分かった。
 俺は、靴を履いてから、自らの傷口に塩を塗り込むように、改めて写真を目に焼き付けた。これでマリアへの未練を断ち切るつもりだった。
「Happy Wedding TAKESHI(ハート)MARIA」という文字が刻まれた、スレンダーで美しいウエディングドレス姿の新婦と、眼鏡をかけて醜く太ったタキシード姿の新郎のフォトフレーム。緊張のせいか、その眼鏡の奥に脂汗が流れているのが見て取れる。まさに美女と野獣のカップルだ。
「これ、ひどいよね」
 マリアが苦笑いしながら、そのフォトフレームを指差した。俺も「ああ」と苦笑を返した。とはいえ、この汗だく眼鏡デブに、俺は完膚なきまでに負けたんだ。――そう実感しながら、俺は「それじゃ」と、玄関のドアを開けて外に出た。
「善人君、また連絡するね」
 マリアが背後で再び言ったが、きっと社交辞令だろう。俺は振り向かずにドアを閉め、早足で駅へと歩いた。

回想・1996年7月

 あれは小学校五年生の夏休み。たしか七月の末頃の、よく晴れた暑い日だった。二十年以上経った今でも、昨日のことのように思い出せる。
 あの日から、俺たち三人の関係は始まったのだ――。
 俺がいつものように、自転車で公園に着くと、木陰のベンチに座っていた肥満児が振り返った。眼鏡がきらっと光り、二重顎がぷるんと揺れる。
「おいヨッシー、遅いぞ~」
 そう言って出迎えた汗っかきの肥満児に、俺は手を上げて応える。
「おおタケシ、お待たせ~」
 その日も俺とタケシは、いつものように公園で落ち合った。特に約束したわけでもないけど、雨の日以外はほとんど毎日会っていた。
「やっぱり、デブに夏はきついだろ?」
 俺が軽口を叩くと、すぐにタケシが言い返す。
「うるせえな。ヨッシーみたいなガリガリよりは、この体型の方が健康的なんだよ」
 俺は痩せていて、タケシはデブ。俺の家はホステスの母親との貧乏母子家庭で、タケシの家は父親が医者だけあって金持ち。――俺たちはなにかと正反対だったけど、いつも一緒に遊んでいた。三年生の時に俺が牛久市立大野小学校に転校してきてから、タケシとはずっと同じクラスで、ずっと遊び仲間だった。二人とも家にテレビゲームがなかったのも、二人で遊ぶことが多かった要因だった。もっとも、俺の家は貧乏だから買ってもらえなかったのに対して、タケシの家は金持ちなのに教育方針で買ってもらえなかったという違いはあったけど。
 俺たちの遊び場は基本的に、近所の児童公園だった。そこは「団地の公園」と呼ばれていた。東京などの都会で「団地」といえば大きな集合住宅を指すけど、俺たちが育った茨城県牛久市大野町の大野団地は、田舎だけあって森林や田畑に囲まれて土地が余りまくった、一戸建ての建ち並ぶ人口千人ほどの住宅街だった。
 団地の公園は、滑り台とブランコと鉄棒とシーソーとトイレがあって、残りはサッカーグラウンド一面分ほどの広場だった。他の友達が公園に来た流れで、その友達の家に遊びに行ってテレビゲームをやることはあったけど、友達の家にしょっちゅう上がり込んでいるのがばれると親に怒られるというのも、俺とタケシの共通した境遇だったから、基本的には公園で遊ぶしかなかった。
 ただ、タケシはゲームボーイは買ってもらっていた。家でテレビゲームをやるのはダメだけど、外で遊びながら少しゲームをやるのはOKだったらしい。本体が大きくて分厚い割に画面は小さく、しかもモノクロという、今では考えられないようなスペックだったけど、当時は携帯型ゲーム機といえばゲームボーイ一強の時代だった。
「ゲームボーイ持ってきた?」
 俺は、遊ばせてもらえるのを期待して尋ねた。でもタケシは首を振った。
「いや、今日は持ってこなかった」
「そっか……」俺は心の中で残念がった。
「この前『ポケットモンスター』っていうRPGを買ってさ、結構面白いんだよ。モンスターを捕まえて、育てて戦わせながら旅していくゲームで、モンスターが育つと進化したりしてさ。ただ、他の人と通信ケーブルで交換しないと進化しないモンスターがいるのに、みんなあんまり持ってないんだよな」
 タケシが言った。俺は「へえ、そうなんだ」と気のない返事をする。マリオや星のカービィは面白かったけど、RPGは短時間やらせてもらっても面白くないので、興味がなかった。俺にとっては、ゲームボーイもミニ四駆もハイパーヨーヨーもたまごっちも、友達が遊んでいるのを見物するだけ。少し遊ばせてもらえれば御の字だった。
「しかも、ポケモン赤とポケモン緑っていう二つのソフトがあって、出てくるモンスターが微妙に違うんだよ。俺は赤を買ったけど、緑にしか出てこないモンスターもいてさ。なんか、ゲーム自体は面白いんだけど、友達が何人も持ってないと完成しないから、たぶんあれ、あんまり流行んねえだろうな。任天堂も失敗したな」
「へえ~」
 タケシの市場予測が大外れするのは、もう少し先のことだ。また、ポケモンに関しては忘れがたい苦い思い出もあるのだが、それもまた、もっと後に起こることだ。
「で、今日はゲームボーイじゃなくて、これ持ってきたんだ」
 タケシは、リュックからCDウォークマンを取り出した。そして、一緒に取り出したのが、嘉門達夫の『替え唄メドレー』だった。
「おっ、面白いやつだ! えっと……なんて読むんだっけ」
 この前にも、タケシのCDウォークマンで『替え唄メドレー』を聴いたことがあった。ただ、当時の俺の国語力では「嘉門」はまだ読めなかった。
「かもんたつお、だよ」タケシが説明した。「この前のとは別のやつだ。替え唄メドレーって何枚も出てるらしいな。中古屋に売ってたんだ」
「聴こう聴こう!」
 俺がCDウォークマンのイヤホンを手に取る。ところが、そこでタケシが言った。
「おい、まだ聴かせてやるとは言ってねえぞ」
「へえ、すいません兄貴、聴かせてくだせえ」俺はぺこぺこと頭を下げる。
「しょうがねえ、いいだろう」タケシが満足げにうなずいた。
 俺は、百円の自販機のジュースや、十円ガムや、今はあまり見ない十円のチロルチョコをタケシにおごってもらう時でさえ「兄貴、恵んでくだせえ」と卑屈に頭を下げていた。ただ、卑屈に頭を下げるコントを演じているというスタンスをとることで、本当にプライドが傷つくことはなかった。
「こんな小さいのにCD聴けるなんて、未来の機械だよな」俺はしみじみ言った。
「ああ、これ一番新しいやつだからな」タケシが自慢げに笑う。
 俺はCDウォークマンを見るたびに、口癖のように「未来の機械」だと言っていた。そう遠くない将来に「過去の機械」になることを、当時は想像もしていなかった。
「あ、あと、お前の大好きなイエモンのCDも持ってきたぞ」タケシが言った。
「いや、タケシがファンなだけだろ」俺が言い返す。
 THE YELLOW MONKEY、通称イエモン。ちょうどあれぐらいの時期からメジャーになっていったバンドだった。タケシは小学生にして、すでにロックの世界に足を踏み入れていた。音楽センスの部分では、俺よりずっと大人だった。