また、俺がさっきから感じていた、妙な懐かしさの原因も分かった。それはにおいだった。部屋にわずかに残ったマリアの体臭だ。――というと不快なにおいのようだが、そうではない。かといって、シャンプーや香水のような人工的な香りでもない。ほんのり甘い香りの中に、ほんの少しだけ汗のにおいが入っているような……そう、俺は小学生の時、初めて彼女に出会った瞬間から、この香りに異国を感じていたのだ。彼女は母親がフィリピン出身だった。「名前がカタカナってありえなくない? せめて漢字にしてほしかったわ」と何度も言っていたのを覚えている。
ということは、さっき出かけていった女が、マリアだったということか――。
とりあえず、こんな豪邸に住んでいるのだから、幸せに暮らしているのだろう。それは素直に喜ばしいと思った。そういえば、この家の下見をしたスーさんが、網戸のまま出かけたマリアについて「冷房代をケチる必要があるとは思えねえが、田舎者の成金ほど貧乏性だったりするからな」なんて評していたが、まさにその通りだ。この家をマリアが建てたのなら、言い方は悪いが、まさに田舎者の成金だろう。茨城から上京して、どんな仕事をしているのか知らないが、相当な稼ぎがないと、二十三区内にこの家は建たないはずだ。それにしても、マリアは東京でバリバリ働いて大金を稼ぐようになったのか。そうかそうか、それはよかった……。
と思いかけて、ふと気付いた。
この家は、本当にマリアが建てたのだろうか。
俺は、マリアが独身だと決めつけて考えていた。無意識に俺の願望を反映していたのだろう。でも冷静に考えて、その可能性はどれほどあるだろうか。――苦い思いが心に広がっていくのを感じながら、俺はポケットの中の腕時計を触った。
腕時計のコレクションは、男物ばかりだった。そもそも、腕時計があった二階の部屋のハンガーには、高そうなスーツやネクタイが掛かっていたし、一階のクローゼットにも男物の服が掛かっていた。ダイニングテーブルの椅子は二つだし、ソファの上のクッションも二つある。一方で子供用の家具やおもちゃは見当たらない。――これはどう考えても、男との二人暮らしだ。今見える範囲にはマリア一人の写真しか置かれていないけど、もっと探せば他にも写真が出てきたりして、同居する男の素性も分かるかもしれない。でも正直、今のマリアに夫や彼氏がいることを知ってしまうのは嫌だ。
だが、そこでまた俺は思い直す。――待てよ。男と一緒に住んでいるからって、夫や彼氏と決まったわけじゃないぞ。そうだ、弟かもしれない。マリアにはケントという弟がいたのだ。それに、今はシェアハウスなんてものが流行っているとも聞く。刑務所暮らしをしていた俺もそれぐらいの流行はつかんでいる。なんでも、大規模なところでは何十人もの、縁もゆかりもない人間が、風呂や台所やトイレを共同で使いながら一つ屋根の下で生活するらしい。それを初めて聞いた時「それってほぼ刑務所じゃん」と俺は思ったものだが、とにかく恋愛関係じゃなくても男女が同居することが今はありえるのだ。つまりマリアが男と同居しているからって、イコール結婚や同棲とは限らないのだ。そうだそうだ、よかった、安心した……。
なんて一人で考えながら、俺ははっと気付いた。
いったい俺は、さっきからじっと突っ立って何を考えてるんだ。もう盗む物は盗んだんだから、さっさと逃げなきゃ駄目だろ。泥棒が収穫を終えた家に長居してもメリットはない。捕まるリスクしかないのだ。
というか、もしマリアが独身だったとして、俺は何を望んでるんだ? もう一度会おうというのか? 前科者に成り下がって昨日出所したばかりの俺が、会える身分なのか? 会ったとしてどうなる? まさか今度こそ恋が成就するとでも思ってるのか?
――と、心の中で自問していた時だった。
玄関の外で足音がした。さらに、ガチャッと鍵が差し込まれる音が聞こえた。
しまった、帰ってきてしまった! もう、俺の馬鹿! 泥棒が収穫を終えた家に長居しても捕まるリスクしかないのだと、さっき自覚したんだから、その後の自問タイムもまず逃げてからにすべきだったのだ。
それにしても、マリアは思っていたより帰りが早かった。まだ出かけてから十分少々しか経っていないはずだ。雨だから早く帰ってきたのか、それとも忘れ物でもしたのかは分からないが、いくら幼なじみだからって、さすがに留守宅に侵入した状態で「やあ、久しぶり」なんて挨拶してもごまかせるわけがないだろう。
俺はとっさに廊下に出て、手近な扉を開けた。そこはトイレだった。とりあえず扉を閉めて身を潜めていると、玄関のドアを開閉する音が聞こえた。次いで、廊下を通り過ぎていく足音、しばらくして水を流す音がした。水道で手を洗っているのだろう。
その隙に、俺はそっと扉を開け、ビニールの靴カバーがガサガサと音を立てないよう、大股の忍び足を心がけながら玄関まで移動する。
だがそこで、床に置かれたスリッパラックに脚をぶつけてしまった。カタンと音が鳴り、脛に痛みが走る。ああっ、結構痛い。額を鉄パイプにぶつけたのに続き、本日二度目の激突だ。
でも不幸中の幸い、脛をぶつけた音の大きさは、手を洗う水音にかき消される程度だったようだ。水音は止まらず、また足音がこちらに向かってくるようなこともなかった。俺は痛みをこらえつつ忍び足で玄関に下りると、外に人がいないことをドアの覗き窓で確認し、音を立てないように鍵を開け、ドアを静かに閉めて外に出た。内心ドキドキしていたが、まったく不審者ではございませんよ、という堂々とした態度で道路に下りて手袋を外し、人目がないのを確認してから隣のビルの塗装用の足場に入り、犯行前に置いたビニール傘を回収して歩いた。雨はほぼ止んでいたが、まだ水溜まりは多いから、ビニール製の靴カバーは外さなくても不自然ではないだろう。
しばらくして、スリッパラックにぶつけた脛の痛みも引いてきた。さすがに鉄パイプにぶつけた額よりは軽症だったようだ。早歩きしながら、不自然にならないように後ろを振り向き、辺りを見回す。追っ手もいないし、通行人に不審な目で見られている様子もなかった。
ふう、どうにか助かった。それにしても、まさかこんなことが起こるとは――。犯行が一段落したところで、安堵の気持ちとともに、再び驚きがよみがえってきた。大野中学校と竜ケ崎西高校の卒業アルバム、そしてあの顔写真。あの家の住人はマリアだったのだ。まさか初恋相手の家に忍び込んでしまうなんて……。
と、しばらく考えていたが、時間が経って冷静になるにつれ、疑問が湧いてきた。
待てよ。あれは本当にマリアだったのか?
もしかすると、他人の空似かもしれない。そもそもマリアの顔を最後に見たのは、もう十何年も前だ。俺だって三十を過ぎて、十代の頃とはかなり見た目が変わっているはずだ。マリアだって同じだろう。あの写真は、高校時代のマリアとよく似た別人の写真だっただけで、現在のマリアはもう全然違う姿になっている可能性もあるのだ。それに卒業アルバムだって、あの女と一緒に暮らしている男の物かもしれない。そういえば背表紙に「平成十何年度卒業生」とか書いてあった気がするけど、数字はちゃんと読まなかった。もしかすると、俺たちとは全然違う学年だったかもしれない。
そんなことを思いながら電車に乗り、いったんスーさんのアパートに帰る。そこで作業服からカジュアルな服装に着替え、戦利品の腕時計と、ペーパードライバーでゴールドだったため服役中に更新期限が来なかった運転免許証を持って、腕時計の買取店に行く。作業服のままで高級腕時計を売りに行ったらさすがに怪しまれるし、身分証明書は必須なので、このプロセスは踏まなければいけない。ただ、免許証から前科がばれるようなことはないし、過去の犯行では転売先をほどよく振り分けていたので、この方法で意外にたやすく売却できてしまうのだ。
――約一時間後。店員が俺に、電卓で金額を提示した。
「これぐらいでいかがでしょう」
三十一万七千円。腕時計三つで、箱も保証書も無しでこの金額は、大当たりと言っていい。俺は心の中では大喜びしていた。とはいえ、金はもらえるだけもらいたいので、俺は平静を装って「もう少し上がらない?」とふっかけ、「じゃ端数をおまけします」と店員が言って、三千円だけ上がって三十二万円になった。
こうして俺は、出所翌日の犯行で、現金十万円と腕時計の売却代金、しめて四十二万円も稼いでしまった。もっとも、スーさんに四割引かれる約束なんだけど、それでも二十五万円ほど手元に残ることになる。それに、獲得額をちょっと少なくスーさんに申告すれば、俺の分け前はもっと増える。まあ、ばれたら追い出されかねないから、あまりやらない方がいいけど。
とにかく、スーさんが帰ってくるまで余裕で生活できるのは確かだろう。気持ちにゆとりが生まれたところで、俺の中に再び熱い感情が湧き上がった。
あの家の住人は、本当にマリアだったのだろうか。それとも、たまたまよく似た顔の、別人だったのだろうか。
もしマリアだったのなら、もう一度会いたい――。