2019年7月5日
翌日の午後。俺は電車を乗り継いで、また犯行現場に向かってしまった。
常識的に考えれば、こんなことは絶対にやるべきではない。まあ、出所翌日から空き巣を働いた、非常識にもほどがある人間が「常識的に考えれば」なんていうのもおかしな話だけど、とにかく犯人が犯行現場に戻るなんてデメリットしかないのだ。
でも俺は、服装を変えて周辺をうろつくだけなら大丈夫だろうと最終的に判断し、作業服ではなくカジュアルな私服で出かけた。もし昨日の犯行が気付かれて通報されていたら、あの家の近くにパトカーや警官の姿が見えるはずだ。それが遠目に見えた段階で、不審に思われないようにそっと引き返し、そのまま駅に戻ればいいのだ。
確かめたいだけだ。あの家に住んでいた女が、本当にマリアだったのかどうか。
あの顔写真。そして大野中学校と竜ケ崎西高校の卒業アルバム。彼女がマリアだと思う根拠は多分にある。でも断定はできない。顔写真は他人の空似で、卒業アルバムはよく見たら学年が全然違った、なんて可能性も排除できない。
俺は昨日と同じ道順を通り、昨日侵入した家の前を訪れた。近くにパトカーが停まっているようなこともなく、何も変わった様子はない。一方、隣のビルはもう足場の解体作業に入っていた。となると、家の前の道をうろついて、作業員の印象に残ってしまうのはよくない。昨日の俺の犯行が何日か経った後で発覚し、警察がこの作業員たちに聞き込みをして「そういえば、犯行当日かどうかは分からないけど、前の道をうろついてる怪しい男がいました」なんて証言をされてしまう恐れもゼロではないのだ。
俺は家の前を通り過ぎ、角を曲がった。昨日の午後四時頃、マリアかもしれない住人の女が歩き去った方向だ。ちょうど今の時刻も、四時少し前だ。
しばらく歩くと、商店街に入った。昨日、マリアかもしれないあの女は、この商店街で買い物をしていたのかもしれない。もしかすると今日もいるかもしれない。ただ、これだけ多くの人が行き交う商店街で、また彼女を見つけるのは難しいような気もする。彼女に会いたいなら、やはり家の前で張り込むのが最も確実だ。でも、そんなことをすれば当然、通行人にも隣のビルの作業員にも怪しまれてしまう。う~ん、どうすればいいか……なんて悩んでいた時だった。
正面から歩いてくる、女の姿が目に入った。
おおっ、間違いない。高校時代のマリアによく似た、あの女だ。
他人の空似かもしれない。ただ、実物を見ると、やっぱりよく似ている。でも、俺だって年を取って、見た目も相当変わっているはずだし、マリアだってすっかり変わっているのかもしれないし……などと改めて考えながら、俺は女をじっと見つめて歩く。女もこちらに向かって歩いてくるので、距離はどんどん縮まっていく。そして、もう少しですれ違うという時だった。
女がぱっとこちらを見た。視線に気付いたのだろう。
俺はとっさに目をそらそうかと思ったが、その時すでに彼女は、こぼれそうなほど目を大きく開いて、俺を見つめていた。
「よしと、くん?」
女が言った。――もう確定だった。
「嘘でしょ……善人君?」
「……マリア?」
俺も、今気付いたような芝居をしながら、約十六年ぶりに彼女の名前を口にした。
「うそ~っ、こんなことってある?」
マリアは目を見開き、口元を押さえて泣き出しそうな顔になった。商店街を歩く通行人が、何事かと怪訝な顔でマリアを見て通り過ぎていく。マリアは、その視線に気付いて恥ずかしくなったのか、「すいません」と小声で言って周りに頭を下げながら、俺に近付いてきた。
改めて近くで見ても、マリアは高校時代から変わっていなかった。もちろん大人になっていたが、老けた感じはなかった。むしろ大人になって、より美しくなっていた。
「あの……元気だった?」マリアは潤んだ目で俺に尋ねてきた。
「うん。元気だよ」
「でも……善人君、痩せたね」
「元々痩せてただろ、俺」
「ふふ、そうだったね」
マリアは笑みを浮かべながら、潤んだ目元をそっと拭った。そういえば、先日スーさんともこんなやりとりを交わしたことを思い出した。
「マリアは元気か?」
俺の問いかけに、彼女は「うん」とうなずいてから、聞き返してきた。
「善人君、この辺に住んでるの?」
「いや、あの……」
答えに窮した。無計画なことに、マリアと再会して会話まですることは想定していなかったので、自分のことをどう説明すべきか何も考えずにここまで来てしまっていた。
「俺は……仕事でこの近くまで寄った帰りなんだ」
とっさに取り繕った後、本当は知っていることを尋ねた。
「マリアは、この辺に住んでるの?」
「近く。すぐ近く。うち、すぐ近く!」
マリアは興奮気味に、俺が昨日侵入した家の方向を、繰り返し指差した。
「なんか、日本語が片言の人みたいだぞ」
「そうだね、アハハ」
マリアは笑った。無邪気な笑い声も昔のままだった。
と、そこでマリアが、俺の額を指差して言った。
「ていうか、おでこにたんこぶできてない?」
「えっ……ああ、本当だ、どこかにぶつけちゃったのかな」
俺は額を触り、さも今気付いたようなリアクションをした。昨日足場の鉄パイプにぶつけた額は、今日もまだ少し腫れていた。
「なんか、そのたんこぶ見て、私たちが最初に会った夏休みの日のことを思い出しちゃった。ほら善人君、あの日もおでこにたんこぶ作ってたじゃん」
「えっ……ああ、そうだったな」
少し考えてから思い出した。――そういえば俺は、マリアと初めて出会った日にも、ある男のせいで額を強打して、たんこぶをこしらえてしまったのだ。
「ていうか、そんなこと思い出してたら、泣きそうになってきた……。やばい、超懐かしい」
マリアが笑いながら、そっと目頭を押さえた。
「本当だな。こうやって会うのは、高三の時以来だもんな」
昨日から分かっていたのに、俺はまた、さも今思い返したかのように言った。
「うれしい、マジでうれしい。また会えるなんて」
マリアはそこまで笑顔で言ってから、少しうつむいて笑顔を曇らせた。
「だって……あんな別れ方しちゃったからさ」
「ごめん……あの時は、本当に」
俺は頭を下げて謝った。だが、マリアは首を横に振った。
「ううん、善人君が謝ることじゃないよ。善人君は何も悪いことはしてないもん。後から聞いたけど、いろんな事情があったんだよね?」
「いや……俺が悪いんだよ」
俺は、気まずくうつむくしかなかった。胸によみがえるのは、高校三年生の時の、たまらなく苦い思い出だった。
だがマリアは、気まずい沈黙を振り払うように、また明るく尋ねてきた。
「それで、善人君はどこ住んでるの?」
「ああ、今は……東中野に住んでる」
少し迷ったけど、居候中のアパートの場所を正直に答えた。
「そうなんだ~。あ、結婚とかは?」
「してない。長いこと彼女もいないよ」
「へえ~」
マリアは微笑んでうなずいた。――マリアはどうなんだ、結婚してるのか、と聞きたいのはやまやまだったけど、していると答えられた場合のショックを味わうのが怖くて、その勇気が出なかった。
するとマリアが、思わぬ提案をしてきた。
「ねえ、すぐ近くだし、今からうち来ない?」
「えっ……いいの? お邪魔しちゃって」
実は昨日もお邪魔してるんですけど、なんてことはもちろん言えない。
「うん。散らかってるけど、よかったら来て」
「ああ……」
そんなことないよ、今まで百軒以上の家に入ったことがあるけど、結構きれいな方だったよ、なんてことは当然言えない。
「じゃあ……お言葉に甘えて」
俺がうなずくと、マリアはうれしそうに、にっこり笑ってくれた。
「おお、すごい立派な家じゃん」
マリアに案内された家の外観を見て、俺は初めて見たかのように感嘆した。
「ああ、うん……」
マリアは謙遜し慣れていない様子で、伏し目がちに笑みを浮かべながら、玄関の鍵を開けて俺を招き入れてくれた。
「じゃ、どうぞ」
「お邪魔しま~す」
昨日に続いて二度目の訪問だが、玄関から通常経路で入るのは初めてだ。昨日は靴カバーで入ったけど、今日は当然靴を脱いで、スリッパも履いた方がいいかな――なんて思っていた時だった。
「あれっ? ここにスリッパあるって、よく気付いたね」
マリアが俺の様子を見て、不思議そうに言った。
「あっ……」
俺はすでに、スリッパラックからスリッパを取っていた。昨日、マリアと鉢合わせしそうになって逃げた際、ラックに脛をぶつけたから場所を覚えていたのだ。だが、よく見るとそれは、シューズボックスの陰になって来客からは見えづらい場所にあった。
「……まあ、スリッパって、だいたいこの辺にあるでしょ」
俺はとっさに取り繕ったが、マリアは首を傾げる。
「そうかな? 知り合いの家も、あと実家も、スリッパは靴箱に入れてるけど」
「ああ、いや、あの……」
俺は少し考えてから、その場しのぎの嘘をつく。
「実は俺、住宅関係の仕事をしててね、人の家によく入るんだ。やっぱり、何百軒と他人の家の中を見てるから、いろんな家のパターンがインプットされてるっていうか……。とにかく、ここら辺にスリッパが置いてある家って、結構多いんだよ」
「なるほど、そうなんだ~」
とりあえずマリアは納得したようだった。だが、すぐに尋ねてきた。
「で、住宅関係のお仕事って、建築士さんとか?」
「いや、建築士ではないんだけど……」
「じゃあ、大工さんとか?」
「ん、いや、その……」
まずい。その場しのぎの嘘に食いつかれてしまった。とっさについた嘘のために、さらなる嘘をつかなければいけなくなっている。まるでどこかの国会の風景のようだ。
「えっと、大工でもないんだけどね……」
迷ったが、住宅関係で、俺がもっともらしく語れる分野といったら一つしかない。
「一応、肩書きは……防犯診断士、みたいな感じかな」
「へえ、そういうお仕事なんだ~」マリアは笑顔でうなずいた。
「まあ、フリーでやってるんだけどね、今日も仕事の帰りだったんだ」
「なるほど。だからラフな服装なんだね」
マリアは納得した様子だった。ちゃんと計算したわけじゃなかったけど、仕事帰りと言っておきながらカジュアルな服装だったことに対しても、「フリーの防犯診断士」という嘘の肩書きが説得力を与えてくれたようだ。
「あ、大丈夫かな、うちの防犯」
マリアが廊下を歩きながら、ふと心配そうに周りを見回した。
「まあ、ここから見ただけじゃ分からないけどね……」俺は曖昧に答える。
「ああごめん、プロの人にタダで見てもらおうなんて図々しいよね」マリアが笑った。
「いやいや、そんなことはないけど……」
金目の物がゴロゴロあって、隣のビルに泥棒が跳び移れそうな足場が組んであるのに、ベランダの窓を網戸にして出かけちゃダメ――と言ってやりたいけど、もちろんそうもいかない。
「まあ、これだけ立派な家だと、泥棒に狙われやすいっていうのは確かかな」
俺は一応忠告してやった。するとマリアは言った。
「そっか~。まあ、今まで何もなかったからって、油断しちゃだめだよね」
今まで何もなかった――マリアがそう言っている時点で、昨日の俺の犯行は気付かれていないのだと分かった。とりあえずホッとする。やはり現金も腕時計も、欲をかかずに気付かれない程度だけ盗んだのがよかったのだろう。前回の服役は、このさじ加減を間違えて住人に通報されたことが原因だったので、俺も少しは成長したようだ。
「あ、どうぞ座って」
部屋に入り、マリアにダイニングテーブルの椅子をすすめられた。俺が座るとすぐ、マリアは冷蔵庫に入っていた麦茶をコップに注いで「どうぞ」と出してくれた。
「ああ、どうもありがとう」
俺は麦茶を一口飲んでから、広いリビングを見回して言った。
「ていうか、こんな家を建てるなんて、マリアはずいぶん立派な仕事をしてるんだな」
「いや……私が建てたわけじゃないよ」マリアが首を横に振る。
「え、そうなの? なんかすごい儲かる仕事でもしてるのかと思ったけど」
「いや、私、今は主婦だから」
「主婦……」
俺の心は、ゴツンと殴られたような衝撃を受けた。