最初から読む

 

 そう。知ってほしい。──伝え、たい。
 その瞬間、目眩めまいがするほど鮮烈な衝動が、胸を焼いた。
 あの日、有賀くんのおかげで、一歩踏み出せたように。
 また一歩、わたしはここから、踏み出してみたい。
 それでほんの少し、ほんの少しでもいいから、わたしの世界を変えてくれた彼に、近づくことができれば──。
「てか、この声さ」
 込み上げた熱い感情に押されるまま、入り口の手前で立ちつくしていた足を、前へ進めかけたときだった。
 ふいに有賀くんが、言葉を続けた。
「西条の声に似てね?」
 ──瞬間、足が止まった。
 ざばっと、頭から氷水を浴びせられたみたいだった。
「そうかあ?」と、教室では、有賀くんの友だちが笑い交じりに返す声が続く。
「あんま思わなかったけど。おまえはなに聴いても西条さんに聴こえるんだろ、どうせ」 
「いやいや、これはマジで似てるって。西条の歌聴いたことないけど、たぶんこんな感じだって」
「なんだそりゃ。聴いたことないのかよ!」
「いやほら、だいたい想像つくじゃん。ああでも、言ってたら西条の歌声マジで聴いてみたくなってきた。今度カラオケ誘ってみよっかなあ」
「カラオケとか百パー無理じゃん。いっしょに帰るのすら拒否されてんのに」
「わかんねえだろー。もしかしたら、めっちゃくちゃカラオケ好きな人で、ワンチャン来てくれたりするかもじゃん!」
 熱のこもった口調で有賀くんが言葉を重ねるたび、わたしの全身からは熱が引いていく。数秒前にふくらんだ高揚もすべて、その冷たさに押し流されていく。
 中途半端に足を踏み出しかけた体勢のまま、わたしが思わずその場に立ちすくんでしまっていたとき、
「──あれ? なあ、ちょっと」
 教室にいた別の男子が、ふと声を上げた。有賀くんたちに話しかけたものだったらしく、「うんー?」
 と応える有賀くんの声がしたあとで、
「水篠さん? って、どこだっけ、席」
 唐突に鼓膜を揺らしたわたしの名前に、心臓がびくりと跳ねた。
 ひゅっと、喉で息が詰まる。
 思わず教室の中を覗くと、プリントを手にしたひとりの男子が、有賀くんたちの座る席の前に立ち、困ったように教室を見渡していた。
 彼の持っているプリントがわたしのものなのだろうと、すぐに察した。先生から返却されたなにかのプリントを、みんなの席に配っているところなのだろう。
「へ、水篠さん?」と有賀くんが彼に訊き返す。
 そのきょとんとした口調に嫌な予感がして、心臓が硬い音を立てたとき、
「誰だっけ、それ。そんな人いたっけ?」


 気づけばわたしは、弾かれたようにきびすを返し、その場から走り去っていた。
 鞄を教室に置いたままだった、と気づいたのは、下駄箱で靴に履き替えているときだったけれど、取りに戻る気にはならなかった。少しも。ただ一秒でも早くこの校舎を出たくて、ローファーのかかとを乱雑に踏みながら、昇降口を出た。
 はっはっ、と浅い呼吸が漏れる。喉の奥が熱くて、うまく息が吸えない。マフラーを巻いていないむき出しの首筋に、冷たい空気が触れる。
 早歩きで校門へ続く坂を下りたところで、堪えきれなくなり、わたしは駆け出した。
 目が熱い。けれど対照的に握りしめた指先はぞっとするほど冷え切っていて、震えてくる。
 バカみたいだ。
 胸の奥できちんと言葉にして思うと、涙があふれてきた。

 ──この声さ、西条の声に似てね?
 ──西条の歌声マジで聴いてみたくなってきた。
 ──水篠さん? 誰だっけ、それ。

 さっき聴いた有賀くんの声が、繰り返し頭をめぐる。
 吐き出す浅い呼吸は気づけば嗚咽おえつになって、喉を震わせた。
 バカみたい。
 バカみたいだ。
 知っていたくせに。何度も突きつけられて、そのたび理解して、のみ込んできたくせに。
 どうしてすぐに忘れて、自惚れてしまうのだろう。ちょっと有賀くんが、灯の歌を聴いてくれたぐらいで。好きだと言ってくれたぐらいで。
 そもそも彼が灯の声を好きだと言ってくれたのだって、ただ、彼の大好きな西条さんの声に似ていると思ったから。ただそれだけのこと、だったのに。
 バカみたいだ。本当に。本当に。
 息ができなくなって、わたしはしゃがみ込んだ。嗚咽が連続して漏れる。うつむくと、暗い地面に涙がぼたぼたと落ちた。
 自転車に乗った男の人が、怪訝けげんそうにこちらを見ながら通り過ぎていったのがわかった。だけど動けなかった。ただあふれる感情に身を任せ、うずくまったまま、嗚咽も堪えず泣き続けた。

 どれぐらいそうしていただろう。
 ふと顔を上げると、自分が小さな児童公園の入り口でしゃがみ込んでいたことに、今更気づいた。
 冷たい風が濡れた頬を撫でる。誰もいない公園の奥にベンチを見つけ、ふらふらと立ち上がる。歩きながらポケットに手を入れ、スマホを取り出す。
 死にたいな、と思った。
 だから、歌いたいな、と思った。
 そうだ、いつも、そうだった。
 死にたいと思ったとき、わたしは歌った。
 その気持ちを叫びたくて歌った。
 わたしを見つけてほしくて、わたしに気づいてほしくて、死にたくなくて、明日も生きていたくて、歌った。
 ああ、と、ひどく純粋で鮮烈な衝動が胸をつく。
 歌い、たい。
 押されるまま、わたしはイヤホンを耳にはめる。
 まだ涙は収まっていないし、息もあがっているし、きっと不格好な歌声になるのはわかっていた。それでも歌いたかった。まるで酸素を求めるように、わたしは音源を再生し、唇を開いた。
 歌ったのは、わたしがはじめて動画を投稿した曲。
 あの日、わたしの世界を、変えた曲。
 ──そう、変わったと、思っていた。歌に出会って。有賀くんに出会って。
 だけど違った。わたしは今までもこれからも道端の石ころで、教室の掲示物で、いちばんわたしを見てほしいと思っていた人の視界にすら、入ってはいなかった。ただわたしがひとり舞い上がって、自惚れていただけで。
 だから歌った。かっこ悪く震えてかすれる、どうしようもない声で。
 苦しさにあえぐように、ただ、手元の小さなスマホに向かって。
 誰かわたしを見つけて、って。無我夢中で、叫んでいた。

 

この続きは、書籍にてお楽しみください