歌は、小さな頃から大好きだった。
きっかけは六歳のとき。家族みんなでカラオケに行ったことがあって、そこでたしか、好きなアニメの歌だとか幼稚園で習った歌だとかを、わたしは何曲か歌った。
そうしたらその場にいた全員が、上手いと褒めてくれた。目いっぱいに拍手をして、満面の笑みで、「あかりはすごいな」って。お父さんもお母さんも、言ってくれた。
「もっと歌って」とお母さんに促され、その日はたぶん、わたしがいちばん長くマイクを握っていたと思う。それが面白くなかったのか姉が拗ねて「カラオケ嫌い、もう行きたくない」と言い出したので、けっきょく家族でカラオケに行ったのはその一度きりになってしまったけれど。
それでもその一日のことは、今でも鮮明に思い出せる。強烈に記憶に焼きついて、ずっと胸の奥で輝いている。
思えばそれが、最初で最後だったから。
家族の中で、姉以上にわたしが注目され、もてはやされたことなんて。
自転車で十五分ほど走った先にある、カラオケ店のドアを通る。家からいちばん近いカラオケ店で、あの日、家族で来たのもここだった。
あれ以来一度も、家族でこのお店を訪れることはなかったけれど、わたしだけはもう数えきれないぐらい、ここへ通い続けている。とくにこの二カ月は、ほぼ毎日のようなペースで。
受付を済ませると、いつもと同じ部屋に通された。このお店でいちばん狭い、たぶんひとり客用に設定されている個室。
なんだかもう自分の部屋ぐらい馴染んでしまったこの場所で、わたしはいつものようにセッティングを始める。スマホで歌声を録音するためのアプリを起動し、スタンドをテーブルに置く。
歌う曲なら決めていた。前回動画を投稿した際、コメントに【次はこれを歌ってほしいです】というリクエストがきていたから、それにした。
動画を継続して見てくれる人たちが増えてから、そういうリクエストもよく届くようになった。そして届いたときには、わたしは極力それに応えるよう心掛けている。知らない曲でも何度か聴いて練習して、投稿した。
無数にある動画の中からわたしの動画を見つけてくれて、聴いてくれて、好きになってくれた人だ。これからも好きでいてほしかったし、聴き続けてほしかったから。
ダウンロードしてきた音源を再生しようとして、その前にもう一度、前回の動画のコメント欄を開く。すでに覚えるほど読み込んだコメントのひとつひとつを、また読み返していく。
【灯さんの声、ほんとに好きだー】
【声も歌い方も良すぎ。灯さん、これからも推します!】
『灯』。
歌い手としての、わたしの名前。
最初はそのまま『あかり』という名前で投稿しようとしていたのだけれど、さすがに本名は恥ずかしくなって、投稿直前に三分ぐらい考えてつけた。
本名が『あかり』だから、あかりが灯る、で、『灯』。
なんのひねりもない、安直な名前だ。それでもこうして視聴者から名前を呼ばれるうちに、気づけばその名前に、わたしは本名以上の愛着を感じるようになった。
思えば実生活の中で、『あかり』という名前を呼ばれることなんてほとんどない。
クラスメイトたちはみんな、『水篠さん』とわたしを名字で呼ぶし、たぶんわたしの下の名前を知っている人自体、クラスにはほとんどいないと思う。
家族からはさすがに名前で呼ばれるけれど、そもそも家族とあまり話さないから、呼ばれる機会はさほど多くない。
だからむしろ、『あかり』と呼ばれるより『灯』と呼ばれる回数のほうが今は圧倒的に多くて、自分的にもこちらのほうが馴染んできた気がする。
──いっそ本当に、そうなれたらいいのに。
灯さん、と好意的に呼びかけてくれる文字を指先でなぞりながら、ふと思う。
もうずっと、あかりじゃなくて、灯として生きていければいい。
あかりはぜんぜん駄目だけど、灯なら、存在を認められている。好きだと、言ってもらえている。
灯は教室の掲示物でも、道端の石ころでもない。ちゃんと誰かの視界に入って、誰かの世界に存在している。
だから灯なら、死にたいなんて思わない。
──あかりと違って。
「……歌お」
なにかを振り払うように呟いて、わたしはコメント欄を閉じる。イヤホンを耳にはめる。
歌わなければ、わたしは灯になれないから。
早く灯に、なりたい。
ひとつ息を吐いて、スタンドに置いたスマホに触れる。ダウンロードした音源を再生する。
動画投稿を始めて二カ月以上が経って、このへんの操作もすっかり手慣れた。最初の頃はわからないことばかりで、ネットで必死に調べながら試行錯誤していたけれど。
……最初。
思い返して、ふと胸がちくんと痛む。
放課後に教室で聞いた、西条さんが彼氏と別れたことを喜ぶ有賀くんの声が、ふいに耳の奥によみがえってきた。
べつに、知っていた。
有賀くんはずっと西条さんのことが好きで、どれだけ冷たくあしらわれてもめげずにアプローチを続けていて。今は西条さんのほうにその気はないみたいだけれど、それでもきっといつか、あのふたりは付き合うのだろう。それはそれはお似合いの、絵になるカップルになるのだろう。
──べつに、いいんだ、それで。
そもそもわたしみたいな道端の石ころが、太陽そのものみたいな彼とどうこうなりたいだとか、そんなの、願うことすらおこがましいから。
だからこれは恋じゃない。
ただ、感謝しているだけ。
わたしの世界を変えてくれた恩人である、有賀くんに。
あの日から、ただただ、ずっと。
「え、すご。なんか、めっちゃ上手くない!?」
音楽の授業中だった。
一カ月後に迫った合唱コンクールの課題曲である、『COSMOS』を歌い終えたとき。隣で歌っていた男子が勢いよくこちらを向いたかと思うと、いきなり大きな声でそんなことを言ってきた。
一瞬わたしは、自分に向けられた言葉だとわからなかった。
わたしの隣か、後ろにいる誰かに向けられた言葉だと思った。
だってそれが、有賀くんだったから。
いつもクラスの中心にいる、いわゆる一軍の彼とは、今まで話したことどころか、「おはよう」や「ばいばい」の挨拶ですら、一度も交わしたことはない。そんな彼がわたしに話しかけてくるなんて思わなくて、わたしは思わずぽかんと固まってしまったけれど、
「横で聴いててびっくりした! え、もしかして、なんかやってたりする?」
興奮気味にまくし立てる有賀くんは、間違えようもないほどまっすぐに、わたしを見ていた。軽く目を見張って、感動したように顔を輝かせて。
「え? あ、え、えっと」
突然の事態にまごつきながら、わたしはおろおろと言葉を返すと、
「な、なんかって……?」
「なんかほら、歌う活動? とか。習ってたりすんの?」
「と、とくになにも……」
「ええ、もったいな! なんかすればいいのに。マジで上手いし、ほらあれ、『歌い手』とか!」
いいこと思いついた、という感じで人差し指を立て、有賀くんが言う。まるで、友だちに向けるかのような気安さで。
なんだか圧倒されて、「歌い手」と呆けたように繰り返すわたしに、「うん」と有賀くんは白い歯を見せて笑うと、
「そんだけ上手いなら、けっこうマジで人気になれそう! いい声だし」
顔は笑っていたけれど、有賀くんの口調にからかうような色はなかった。ただの軽口だとはわかっていた。だけど彼が本気でそう言ってくれているのも、わかった。
瞬間、心臓をぎゅうっと握りしめられたようだった。
視界が揺れる。急に辺りの空気が薄くなったみたいに、息がしにくくなる。
──歌い手。
そこで有賀くんの友だちが彼を呼んで、わたしたちの会話は終わったけれど、わたしの頭には鮮烈にその単語が焼きついていた。
まっすぐにわたしを見てくれた、有賀くんの太陽みたいな笑顔といっしょに。