一時間歌って、二曲納得のいく録音ができたところで、わたしはカラオケ店を出た。
自転車の鍵を外しながら、ふと、先ほど玄関で鉢合わせた姉の彼氏のことを思い出す。
……まだいるかな。また、鉢合わせるのは嫌だな。
わたしを見てバカにしたように笑った彼の口元を思い出し、自然と、足が家とは反対方向へ向かう。
そうして着いたのは、カラオケ店から五分ほど自転車で走った先にある、CD ショップだった。
ここもカラオケ店ほどではないものの、しょっちゅう訪れている。
ここ数年、音楽はダウンロード配信が主になり、CD を買う機会はかなり減ったけれど、それでもCD ショップという場所は今も大好きだった。なにも目的はなくとも、自然と足が向かってしまうぐらいに。
店内にずらりと並ぶジャケットを眺めているだけでも、心が躍った。試聴機が用意されているので、それを聴いているうちに思いがけない曲との出会いがあったり、なにより音楽があふれる場所で、音楽に囲まれることができるというだけでも、その場所はたまらなく魅力的だった。
お店の自動ドアが開くと同時に、耳慣れたイントロが流れ込んできて、あ、と思う。すぐに気づいた。
ほんの一週間前に歌って、投稿した曲だったから。
人気アーティストの曲ではあるけれど、別シングルのカップリング曲で、この曲自体はそれほど有名ではない。わたしも、コメントで【この曲を歌ってほしい】というリクエストがくるまで知らなかった。
だけど試しに聴いてみるとすごく気に入って、動画を投稿したあともいまだによく聴いている。投稿した動画の評価も上々だった。マイナーな曲にしては再生数もコメントも多かった。
だからなんとなくわたしにとっては思い入れのある曲で、これが流れていることにちょっとうれしくなる。センス良いなあ、なんて上から目線で評価したくなる。
このお店は、以前からそうだった。店内で流れる音楽が、わたしの趣味と合っている。わたしが動画を投稿した曲がよく流れていたり、逆にここで聴いた曲を気に入って、後日歌ってみることも多い。そんなところも含めて、なんだかわたしにとっては、とても居心地の良いお店だった。
好きな曲が流れているだけで良い気分になりながら、わたしは妙に軽やかな足取りで店内を歩く。
外にいるときはたいていつけるようになったイヤホンも、ここでは外す。ここでだけは耳を塞がなくても、大好きな音楽が覆ってくれる。
次はなにを歌おう、と考えながらあふれる音楽を見渡しているだけで、胸が甘くふくらんだ。新譜の棚を見て、ランキングを見て、奥へ進んで……と、いつものお決まりのパターンで、店内を歩いていく。
今わたしの他にいるお客さんは、仕事帰りらしきOL 風の女の人だけだった。
他のお客さんが少ないというのも、わたしにとっては、このお店の魅力のひとつだった。いるとしてもある程度年齢のいった大人がほとんどで、わたしみたいな高校生の姿はない。だから知り合いに会う恐れがほとんどなくて、それも本当にありがたい、と勝手に思っていた、のだけれど。
「──あの」
ふいに後ろで声がした。
すぐには、それがわたしに向けられた声だと気づかなかった。このお店で誰かに声をかけられるなんてこと、今まで一度もなかったから。
気づかず試聴機のほうへ手を伸ばしかけたとき、ぽんぽん、と軽く肩を叩かれた。
心臓が跳ね、一瞬息が止まる。
弾かれたように振り向くと、黒いエプロンをつけた男の店員さんが立っていた。それにほっと力が抜けかけたのもつかの間、彼の顔を見てまた一瞬、息が止まった。
それが、クラスメイトだったから。
「あ……」
── 丹羽くん、だ。
話したことはないけれど、有賀くんと仲が良くて、よくいっしょにいるから知っていた。
思いがけない形でクラスメイトと遭遇したことに、わたしは咄嗟に反応の仕方がわからなくなる。
アルバイトだろうか。今までもずっといたのだろうか。気づかなかった。まさか店員側に知り合いがいるとは思いもしなかったから。今まで一度も、店員さんのほうは気にして見たことすらなかった。
どうしよう、なにか言ったほうがいいのかな、と一瞬混乱して、わたしが次に発する言葉を選びかねていたとき、
「これ」
丹羽くんは短く言って、すっとなにかをこちらへ差し出した。
「落としましたよ」
見ると、彼の手にあったのはウサギのキーホルダーだった。わたしの鞄にぶら下がっていたはずの。はっとして鞄を見ると、たしかにそこからウサギが消えている。
「あ……あり、がとう、ございます」
わたしはぎこちなくお礼を言って、キーホルダーを受け取る。
丹羽くんはそれに短い会釈だけ返すと、くるりときびすを返した。
やり取りは、それで終わった。
わたしは思わずその場に立ちつくしたまま、呆けたようにその背中をしばし見送っていた。
──ああ。
理解は、一拍遅れて追いついた。
気づかれなかった、のか。
途端、頭から冷水を浴びせられたみたいに、全身が冷たくなる。
ぴくりとも動かなかった丹羽くんの表情と、ひどく事務的な口調だけで、理解するには充分だった。
丹羽くんはわたしがクラスメイトだと、気づいていなかった。ただのお客さんのひとりとして、最低限の対応をした。
理解すると同時に、言いようのない羞恥が、いっきに胸を満たす。ひとり動揺していたさっきの自分がバカみたいで、消えたくなる。
それはそうだろう、と遅れて思う。
わたしが有賀くんの友だちである丹羽くんを知っていたからって、向こうもわたしを知っている理由なんてない。クラスメイトだからといって、なんの興味もない相手ならいちいち顔を覚えない人もいるだろう。丹羽くんにとってのわたしは、そうだったというだけ。
それはそうだ。当たり前だ。なにを自惚れていたのだろう。バカみたいだ。
──忘れていた。わたしはあの教室の中で、ただの掲示物だったんだ。