この教室でのわたしの存在感なんて、たぶん、壁に貼られたポスターぐらいなものだろう。
ある日、それが別のものに代わっていたって、きっと誰も気づかない。もしかしたらひとりぐらいは気づいてくれるかもしれないけれど、ああ代わったんだなって一瞬思うだけで、数秒後には意識から消える。それぐらいの、どうでもよくて、主役どころかモブですらない、ときどき視界の隅に映るだけの、背景と同じ。
──それが、わたしだった。小学生の頃からずっと。
「西条さん、まーた別れたんだってさー」
教室の後ろのほうから、目の前にいる友だちに向けて話すにしては無駄に大きな男子の声が聞こえてくる。
「マジで!?」とそれに返した男子の声もやっぱり無駄に大きくて、
「え、二組の大島だろ? このまえだったじゃん、付き合いはじめたの」
「ウケる、最短記録じゃね? 一週間?」
放課後の教室に今残っているのは、その騒がしい男子グループとわたしだけだった。
なんとなく居心地が悪くて、わたしは急いで鞄に教科書を詰め込む。彼らのほうはわたしの存在なんて気にも留めていない様子で、隣のクラスのかわいい女子の恋愛事情について、しきりに盛り上がっているけれど。
気に留めていないどころか、もしかしたら本当に、わたしの存在なんて彼らには見えていないのかもしれない。だからこそ、こんな恥ずかしげもなく、下世話な話題で盛り上がれているのかもしれない。今ここにいるのがわたしではなく他の女子だったなら、彼らはもっと声量を絞るか、話題を選んでいたのではないだろうか。こんな、いてもいなくても変わらない、背景みたいなわたしでなければ。
そんな思いつきはすぐに確信になって、ほろ苦く胸に下りてくる。
軽く唇を噛んで、わたしは鞄の留め具を閉めた。マフラーを巻き、ポケットからイヤホンを引っ張り出す。そのコードが絡まっているのを見て、ああもう、と口の中で小さく呟く。
もつれたコードを乱暴にほどきながら、やっぱりワイヤレスのやつが欲しいなあ、なんて頭の隅で思う。もっと音もいいやつ。このまえお店で見かけたあれ、ちょっと高かったけどやっぱり買っちゃおうかなあ。そんなことをぼんやり考えながら、ほどけたその両端を耳に入れようとしたとき、
「──西条別れたって、え、なにそれマジの情報?」
後ろから聞こえてきた声に、ふと手が止まった。
「マジマジ」とそれを受けて誰かが、食い気味に返す。
「俺、大島から直接聞いたから。一昨日、なんか急に振られたって」
「なんか急に? 喧嘩したとかじゃなくて?」
「さあ。でも前の、村井だっけ。あいつも言ってたじゃん? 水族館でデートしてたら、なんかいきなり振られたとか」
「なんだそれ、こっわ。やっぱあのレベルのかわいい子の考えることはわかんねえ」
冗談っぽく怯えた声でぼやいてから、「でも」と彼は気を取り直したように明るい声を出す。うれしそうなその声に、一瞬だけ指先が震えた。
「なんにせよ、これでまた西条はフリーになったってわけか。よっしゃあ」
わたしはぎゅっと目を閉じると、イヤホンを耳に深く差し込んだ。ひったくるように鞄をつかみ、早足で教室を出る。
教室の後ろに集まっていた彼らは、出ていったわたしになんて、なんの反応も示さなかった。
もちろん、有賀くんも。
わたしがいなくなってもなにも変わらず、同じテンションとボリュームで西条さんの話題を続けているのが、廊下を歩きながら背後で聞こえた。
校舎を出たところで、わたしはポケットからスマホを取り出す。そうしてアプリでプレイリストを開くと、適当なところから再生を始めた。
耳に軽快な音楽が流れ込んでくる。そこでようやく強張っていた身体が少しほぐれて、きゅっと縮こまっていた喉を空気が通り抜ける。
うつむき気味に歩いていると、爪先に小石がぶつかった。蹴られたそれは勢いよく転がり、側溝に落ちる。ぽちゃん、と軽い水音がフェンスの下から聞こえた。
──ああ。
なんでか、その様子を目で追っているうちに、わたしはぼんやりと思う。ここ数年、何度となく繰り返し思うことを。
──やっぱり、死にたいなあ、って。
家の扉を開けると、玄関に見知らぬ男物のスニーカーが並んでいた。
誰のだろう、と驚いているあいだに正面にあるリビングのドアが開いて、「あれ」と声が飛んでくる。
びくっとしながら顔を上げると、カーキ色のブレザーを着た男の人がいた。知らない人だった。
「えーと、こんにちは?」
家に入るなり見知らぬ顔と出くわして固まるわたしに、その人は怪訝そうに挨拶をする。
「え、あ」わたしも返そうとしたけれど、動揺して咄嗟にうまく声が出せなかった。
ぱくぱくと口だけ動かすわたしの顔を、その人はちょっと戸惑ったように眺める。そうして一瞬、微妙な沈黙が流れたとき、
「なあに、どうしたのー?」
リビングのほうから聞こえてきた高い声が、その沈黙に被さった。姉の声だった。
男の人は後ろを振り返ると、「ひかり」と姉の名前を呼んで、
「なあ、誰か帰ってきたけど。妹?」
「え、あかり?」
男の人の後ろから、ひょこっと姉が顔を見せる。そこでようやく、理解が追いついた。よく見ればあのカーキ色のブレザーは、姉が通っている高校のものだ。
茶色に染めた髪をゆるく巻いた姉は、わたしの顔を見ると、「あ、おかえり」と短く声を投げてから、
「うん、そう妹ー」
すぐに彼のほうを向き直って、先ほどの質問にそう答えた。
「マジか」と彼がちょっと驚いた声を上げる。
「妹とかいたん」
「あれ、言ってなかったっけ」
「初耳。つーか」
そこでまた一瞬、彼の視線がちらっとこちらを向く。口元にどこかバカにしたような笑みが浮かぶのが、嫌になるほどはっきりと見えた。
「似てないね。めっちゃ」
あはは、と姉は合わせるように軽く笑ってから、またリビングへ戻っていく。それを追うように彼もドアを閉め、ふたりの姿が見えなくなる。ばたん、と音を立ててリビングのドアが閉まる。
ひゅっと空気が喉で詰まる感覚がして、わたしは急いで靴を脱ぎ捨てた。
一段飛ばしで階段を上がり、自分の部屋に駆け込む。背後で閉まったドアにもたれかかるように座り込むと、ポケットからスマホを引っ張り出す。
ロックを外そうとすると、指先が震えて少しもたついた。
ホーム画面の、いちばん押しやすい場所。二カ月ちょっと前からそこに設置されたアイコンに、指をのせる。そうしてぱっと開かれたそのアプリの、いちばん上に表示された動画をタップした。
途端、イヤホンからまた音楽が流れ出す。
フリーで配布されている写真素材を背景に、人気アーティストの有名曲をカバーした歌声がのせられた、よくある『歌ってみた』動画。
動画自体はあらためて見る必要はない。だからわたしは迷いなく、画面を下へスワイプする。
現れたのは、その動画につけられた、視聴者によるコメント。
【やっぱりいい声! すごく好き】
【この曲歌ってほしいなと思ってました。めっちゃ声と合ってて素敵です】
【サビの高音がきれい】
【歌い方とか声とかほんと好みなんよね】
【曲との相性が抜群。またこういうバラード系歌ってほしい!】
鼓動が高く鳴る。画面に触れる指先に、じわりと熱が宿る。
ついているコメントは二十個ほどだった。ほとんどが投稿するたび毎回コメントをくれる常連さんで、新規の人が三人ほど。
そこに表示された文字を、わたしは何度も焼きつけるように目でたどる。そうしているうちに喉をきつく締めつけていたなにかが消え、うまく息が吸えるようになる。冷え切っていた胸が、温かなものに包まれる。
──よかった。
すがるようにスマホを握りしめたまま、わたしはゆっくりと息を吐く。
学校からずっとまとわりついていた苦しさからそこでようやく解放され、目尻に涙が浮かぶ。
わたしが、いる。
ここにだけは、ちゃんと、わたしが存在する。
わたしを見てくれる人が、わたしを認めてくれる人がいる。
それを確認するように、何度も繰り返し、コメントを目でたどる。
【好きです】【マジでいい声】【なんか泣ける】【また投稿待ってます】……。
──録ろう。
最後のコメントにあった『待ってます』の文字をなぞるように画面に触れてから、わたしは立ち上がる。鞄を肩に掛け直し、今しがた入ったばかりの部屋を出る。
録りたい。
録らなきゃ。
──また、歌わなきゃ。
気づけば“それ”だけが、わたしの生きるよすがになっていた。
小説
今夜、死にたいきみは、明日を歌う
あらすじ
累計16万部突破の「きみが明日、この世界から~」シリーズの著者が描く新たなかたちの悲恋と感動。「この教室でのわたしの存在感なんて、たぶん、壁に貼られたポスターぐらいなものだろう。ある日、それが別のものに代わっていたって、きっと誰も気づかない」家庭にも学校にも居場所がなく、生きることにしんどさを感じる高校生のあかり。ある時、クラスメイトの言葉で「どうしてもやりたいこと」が見つかり、存在を認められたと思ったものの──。あかりの“もうひとりのわたし”を中心に繰り広げられる、それぞれが何かしら苦悩を抱えた高校生たちの「好きだから、泣いてしまう」恋のストーリー。小説×音楽──。大手音楽配信サイト『レコチョク』とのコラボレーションプロジェクト!
あかりが灯る(1/7)
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