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「ね、ね、この動画見た? 灯って人の」
「あー、それ見たかも! 昨日ソラが紹介してたやつでしょ」
「はじめて歌聴いてみたんだけど、いいよね」
 翌朝。
 世界が、変わっていた。
 教室の中で灯の話題が聞こえるという、信じられないような事態が起こっていた。
 クラス中で盛り上がっているというほどではない。バズったといっても、歌い手界隈で軽く話題になったぐらいのもので、一晩も経てば、再生数も勢いは落ちていた。
 それでもその日は、教室の中で、灯の名前を口にするクラスメイトがいた。斜め後ろの席で、ふたりの女子が灯について話している声が聞こえてきた。
 嘘みたいだった。
 灯を知っている人が現実世界に、わたしと同じ空間に、いる。
 耳慣れたクラスメイトの声でその名前がつむがれていることに、たまらなく不思議な気分になる。聞こえるたび心臓が大きく脈を打ち、全身に力がこもる。なにを言われるのかとてつもなく怖いくせに、それでも耳を澄まし、必死にその声を追ってしまう。
 灯としての活動のことは、リアルでは一切明かしていない。
 明かすような友だちもいなかったし、家族にも言う気にはならなかった。
 わたしみたいな根っからの日陰者が、ネットではこんな派手な活動をしているなんて知られたら、なにを思われるのか怖かった。キラキラしたネット世界での灯と、現実世界でのわたしを、結びつけたくないというのもあった。
 だから本当に、はじめてのことだった。
「てかこの人、めっちゃいろんな曲投稿してるよね」
「このカバーとかけっこうよかったよ。声と曲が合ってて、あたし好きだった」
「え、どれどれ? 今度聴いてみよ」
 灯のことを話す声がする。灯が、この教室の中に存在している。
 信じられない。
 心臓が暴れている。頬や耳が熱い。机の上で握りしめた手のひらに、汗がにじむ。
 ──まさかこんな日が、くるなんて。

 とりあえずわたしに拾えた範囲では、彼女らからの評価はおおむね上々のようだった。
「たしかにけっこう上手い」とか、「まあ、わりと好きな声」とか、なんだかよけいな修飾語がついた表現が多かったけれど。
 それでも顔の見えるクラスメイトからの声は、ネットでもらう匿名とくめいの評価とはぜんぜん違う手触りがあって、胸が震えた。
 昨日バズったときは少しだけ、これをきっかけにわたしが灯だとバレたらどうしよう、なんてことを心配したりもしたけれど、そこはまったくの杞憂のようだった。「あれ、ひょっとしてこの声……?」なんていぶかしむような声は、どこからも聞こえなかった。顔は隠しているとはいえ、声はそのままなのに。
 だけど思えば、わたしは教室でほとんど声を発することがない。だからクラスメイトたちはきっと、わたしの声なんて記憶にないのだろう、と遅れて思い至る。それから、自惚れた心配をしていた自分が、ちょっと恥ずかしくなった。

 耳を澄ませ、夢中でクラスメイトたちの声を拾い、そのたび緊張に全身を強張らせながら過ごしたその日。鼓動は一日中落ち着くことなく駆けていて、たぶん今日だけで、一生分の拍を打ったような気がする。そのせいで放課後には、耳も心臓もぐったりと疲れきっていた。
 再生数と同じように、クラスメイトたちが灯の話題を口にする頻度も、だんだんと減っていった。放課後になる頃には、もうすっかり別の話題へと流れていた。
 バズったといっても、効果は一過性なのだろう。それにほっとしたような寂しいような複雑な気分で、わたしはホームルームが終わると教室を出た。廊下でもトイレでも、もう灯の話題が聞こえてくることはなかった。終わったんだなあ、とぼんやり思いながら、わたしは手を洗ってトイレを出る。
 そうして教室の入り口に近づいたとき、
「──なあ、これ聴いた? この、灯って人の歌ってみた動画」
 中から聞こえてきた声に、どくん、と心臓が跳ねあがった。
 拍子に指先が震え、思わず手に持っていたハンカチを落としそうになる。
 それが、有賀くんの声だったから。
「あー、それ」と別の男子が応える。
「丹羽が言ってたやつな。昨日バズってたって」
「そうそう。俺も奏汰に聞いてから聴いてみたんだけどさあ、マジで、けっこうよくて」
 息が止まった。
 どくどくどく、と耳元でうるさいぐらいに鼓動が鳴る。全身が心臓になったみたいに、その音で満たされる。
「ふつうに上手いし、あとさ、なんか、声がいいっていうか」
 有賀くんが言葉を継ぐ。灯のことを、しゃべっている。声がいい、って。有賀くんが。
 わたしの、声を。
「俺さあ、この人」
 愕然がくぜんとするわたしの耳に、声はさらに流れ込んでくる。
 聞き間違えようもないほどはっきりと、その声は響いた。
「好きかもー、声とか」
 視界が揺れる。
 吸い込み損ねた息が、喉で音を立てる。
 瞬間、胸の底でふくらんだ激しい感情は、あっという間にわたしをのみ込んだ。

 ──え、すご。なんか、めっちゃ上手くない!?

 ずっと覚えていた。あの日、有賀くんがわたしの歌を褒めてくれた日のこと。たぶんこれからも、わたしは一生忘れられない、と思う。
 だってその日は、わたしの世界が色を変えた日だった。
 わかっていた。有賀くんにはそんなつもりなんてなかった。ただ、隣で歌っていた人が上手いなって思ったから、上手いって言っただけ。何気なく口にしただけの、ほんの軽口。それをまさか本気にされて、本当に歌い手の活動を始められるなんて、想像もしていなかっただろう。
 だから、伝える気なんてなかったんだ。どれだけ有賀くんに感謝していたとしても。
 あの日の有賀くんの言葉があったから、わたしは現実世界とは違う場所に居場所を見つけられて、道端の石ころだったわたしを認めてくれる人に出会えて、ずっと死にたかったわたしが、ほんの少し、生きやすくなったことなんて。
 きっとこの先もずっと。伝えることなんてない、って。そう、思っていた。
 だけど、と。わたしは急に、目が覚めたように思う。
 だけど本当は、伝えたかった。ずっとずっと、有賀くんに伝えたかった。
 ありがとうって、言いたかった。
 有賀くんがいたから、今まで思いもしなかった世界に飛び込めた。今まで知らなかった喜びを知ることができた。現実世界がどれだけしんどくても、これさえあればどうにか明日も生きていけるんじゃないかって、そんなことを思えるぐらいの。そんな、生きるよすがと出会えた。
 それを有賀くんに伝えて、これがわたしなんだってことも、教えたかった。
 有賀くんのおかげで生まれた灯のことを、有賀くんに、知ってほしかった。