家に帰ると、玄関に男物のスニーカーはなかった。
それにほっと息を吐いて、わたしは靴を脱ぐ。そうしてリビングへ向かおうとしたけれど、ドアノブに手を伸ばしかけたところで、中から母と姉の笑い声が聞こえてきた。
思わず動きが止まる。どうやら母は、さっき来ていた姉の彼氏と会ったらしい。彼について、ふたりで楽しそうに話している声が聞こえた。
いつから付き合いはじめたの? このまえまで違う子だったのに。でも彼もかっこいいわね、優しそうで、とか。まるで友だち同士みたいに。
わたしはしばしそこに突っ立って迷ったあとで、けっきょく、ドアを開けることなくきびすを返した。
のろのろと階段を上がり、自分の部屋に入る。鞄がずるりと肩をすべり、床に落ちた。
録音がうまくいったことや、CD ショップでお気に入りの曲がかかっていたことでほんの少し浮き立っていた気持ちも、今はすっかりしぼんでいた。
教室で聞いた、西条さんのことをうれしそうに話す有賀くんの声。玄関で見た、姉の彼氏の嘲るような笑み。CD ショップで向けられた、丹羽くんのこれ以上なく素っ気ない態度。それらが代わる代わる頭をめぐって、息が苦しくなる。
死にたいと思うのは、いつもこういう、何気ないときだった。
なにか決定的な出来事があったわけではなくて、ただこんな、悲しいことがたまたま重なったときだったりする。
誰にもわたしを好きになってもらえないこと。わたしが誰の視界にも映っていないこと。どれだけ『灯』が褒められたとしても、けっきょくわたしは『あかり』で、『あかり』がぜんぜん駄目な人間であることは、なにも変わらないこと。
そんなことをどうしようもなく実感してしまったときだとかに、いつも思う。
ああやっぱり、死にたいな、って。
深く息を吐いて、わたしはポケットに手を入れた。スマホを取り出し、ロックを外して、動画投稿サイトを開く。
この三カ月で、なんだかすっかり指に染みついてしまった行動。なにも考えていなくても、わたしは気づけばその動作を繰り返している。すがるように、何度もそこを見てしまう。
流れるように画面をスワイプし、コメント欄を見る。そうしてもう覚えるほど読んだコメントを、ふたたび読み返そうとして、
「……え」
思わず声が漏れた。
コメントが、増えていた。
コメントがつくのは基本的に、動画を投稿してから数時間以内だった。
投稿を待ってくれていた常連さんが、投稿直後に立て続けにコメントをくれて、そのあとに新規の人からちょこちょことコメントが届いて。時間が経つにつれ増え方は落ち着いていき、やがて潮が引くように終わる。それがいつもの流れで、この流れから大きく逸脱するようなことは今までなかった。
もちろんときどきは、投稿から一日以上経ってからぽつぽつとコメントがつくこともある。だけどそんなことは稀で、ついたとしても一日にひとつかふたつぐらいなものだった。
なのに。
【まじでいい声。エモい】
【素敵なカバー! 知れてよかった】
【よき】
【感情がこもった歌い方がいいな】
【なんか泣ける声】
──今、コメントが、五つも増えている。
前回コメントを確認したのはカラオケ店で、歌を録音するとき。およそ二時間ほど前だった。
そのたった二時間で、五つ。しかも投稿から一日以上経った、今に。
驚いて、わたしは見間違いではないことを確かめる。さらにそれらのコメントの投稿時間を見てみると、どれも今から二十分以内だった。
二十分で、五つ?
どくどくどく、と耳元で鼓動が鳴る。指先が緊張で強張る。
なんだろう。なにが起こったんだろう。混乱しながら画面を上へスワイプし、何気なく再生数を見たとき。また、心臓が大きく跳ねあがった。え、とふたたび声が漏れる。
──再生数の桁が、ふたつ、増えていた。
さすがにそこで、なにかあったのだと悟った。
鼓動が速まるのを感じながら、わたしは検索エンジンを開く。
『灯 歌い手』とか『灯 歌ってみた』とか、適当に単語を組み合わせてエゴサ―チをしてみる。だけど引っかかるのは自分で投稿した動画ばかりで、とくに目ぼしいものは見当たらない。
一階から、母がわたしを呼ぶ声がする。ご飯、という単語がちらっと耳に届いたけれど、反応する余裕はなかった。
背中を丸め、かじりつくようにスマホに向かい、わたしは呼吸も忘れるぐらい夢中で、指先を動かしていた。
そうして見つけたのは、とあるSNS だった。
【このカバーめっちゃいい! 好き!】
そんな短いコメントとともに、わたしの動画のURLが載せられた投稿。
投稿時間は二十分前で、間違いない、と思った。
──これ、だ。
目にした瞬間、スマホを持つ手が震えた。
その投稿者の名前は、わたしでも知っているものだったから。
音声合成ソフトを使って曲を作り、動画投稿サイトへ投稿している、人気の音楽家。わたしも何曲か、その人の曲を歌ってきた。サイトでのチャンネル登録者もSNS でのフォロワーも何十万単位で持つ、いわゆるインフルエンサー。その人が。
わたしの動画を、紹介していた。
全身が心臓になったみたいに、大きく脈打つ。そこにある光景がすぐには信じられなくて、食い入るようにその投稿を見つめる。そのあいだにも、投稿につく『いいね』とリプの数が、ものすごい勢いで増えていく。
これが与える影響の大きさは、すぐにわかった。
ふたたび自分の動画へ戻ってみると、この数分で、また再生数がとんでもない増え方をしていた。比例して、コメントもかなり増えている。
【たしかにいい! なんか味わいのある声】【ハマった】【ふつうにめっちゃ上手い】【これからリピります】……。
ページを更新するたび、コメントが次々に増えていく。再生数も、チャンネル登録者数も。
わたしはスマホを握りしめたまま、ただ呆然と、その様子を見ていた。
今までも、こんなふうにSNS でわたしの動画を紹介してくれる人は何人かいた。その人たちと同じように、またひとり、わたしの動画を見つけて気に入ってくれた人が、好きだと言って紹介してくれた。ただそれだけ。今までと同じ、ひとりの人の、ひとつの好き、なのに。
それを誰が言うかで、こんなにも違うなんて。
ただただ圧倒されていた。指先が震えだし、やがてその震えは全身に広がった。
──その日。はじめて、わたしの動画がバズった。