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 その日、家に帰ったわたしは、さっそくネットで歌い手活動について調べてみた。
 機材などいろいろと準備がいるのかと思ったけれど、案外スマホさえあればなんとかなるらしい。場所も、とくにスタジオを借りたりはせず、自宅やカラオケで録音している人たちが多いとか。投稿も、動画投稿サイトにアカウントさえ作れば、誰でも無料で行えるらしい。
 ──これなら。
 調べていくうちに、身体の奥にふつふつと熱いものが込み上げてくるのを感じた。スマホを操作する指先が、かすかに震える。
 これなら、もしかして。──わたしにも、できる?
 気づけばわたしは取りつかれたように、録音に使うアプリをダウンロードし、音源を探していた。
 誰もやり方を教えてくれる人なんていないから、ネットで動画を観たりして、作業は見よう見まねで進めた。
 家族のいる自宅で歌うのはさすがに恥ずかしかったので、録音はカラオケで行った。何度も録り直し、編集も何度かやり直しつつ、最初の動画は三日がかりでようやく完成させた。
 三日かけても出来上がったのは、とくになにか凝ったものでもない、ただ素人が歌うだけの動画だったけれど。
 サイトに上げたところで誰か聴いてくれる人がいるのかは正直、半信半疑だった。編集しながら何度となく恥ずかしさが込み上げてきて、やっぱりやめようかとも考えた。
 だけどそのたび、頭に浮かんだ。
 あの日、上手いと褒めてくれた有賀くんの声が。どうしようもなく何度も、リフレインした。
 ──もし。
 そして同時に、すがるような渇望かつぼうが、身体の底から湧いてくる。
 目眩めまりがするほどの切実さで、願ってしまう。
 もし、ひとりでもいいから。上手いって、言ってくれる人がいたら。
 あの日の有賀くんみたいに、わたしに気づいて、認めてくれる人がいたら──。
 それは想像するだけで身体が震えてくるほど、わたしが心の底から求めてやまない、希望だった。
 それだけで、明日からもこの息が詰まる世界を、生きていけそうな気がするぐらいに。

 はじめて投稿ボタンを押すときは、さすがに手が震えた。全力疾走した直後みたいに、心臓が暴れていた。
 投稿すると同時に恐怖にも似た緊張が押し寄せてきて、わたしは逃げるようにスマホを閉じ、視界の外に置いた。増えない再生数だとかをずっと眺めているのは、いろいろと耐えられなくなりそうで。夜だったのでそのままベッドに入り、その日はそれきりスマホには触れないまま、眠りについた。

 そうして翌朝。
 意を決してスマホを手に取り、動画投稿サイトを開いたわたしは、息が止まりそうになった。
 再生数のところに表示されていた、『16』の数字に。
 目を見開き、しばし、食い入るようにそれを見つめた。見間違いではないことを、何度も確認した。
 昨日はたしかに、『0』だった。
 投稿してから、わたしは一度もサイトを開いていない。だからこの数字は間違いなく、わたし以外の誰かが聴いてくれた回数で。
 ──十六回。
 初投稿としてその数字がどれほどのものなのかは、さっぱりわからなかった。まずまずの数字なのか、ぜんぜん駄目なのか。初心者の再生数の相場なんて知らない。だけどそんなの、どうでもよかった。
 十六回、誰かがわたしの歌を聴いてくれた。顔も名前も知らない、どこかの誰かが。わたしに気づいてくれた。見つけてくれた。存在を、知ってくれた。
 それだけで、身体の芯が震えた。胸の奥に熱いかたまりが込み上げてきて、叫びたくなった。

 ──それが、二カ月前。
 わたしが『灯』としての活動に一瞬でのめり込んだ、始まりだった。
 それからはひたすら、録音しては投稿する、の繰り返しだった。毎日少なくとも一回、多ければ二~三回、動画を投稿した。
 回数を重ねるごとに、視聴者は少しずつ、だけど着実に増えていった。それが実感できたから、わたしはますますのめり込んだ。
 わたしの歌を、聴いてくれる人がいること。
 それは本当に、全身が打ち震えるような喜びだった。

 はじめてコメントをもらった日のことは、今でも昨日のことみたいに、はっきりと思い出せる。
【声も歌い方も好き】
 その八文字を目にした瞬間、息が止まった。
 胸の奥に熱いものが広がって、その熱がいっきに喉元まで突き上げた。スマホを握る手がぶるぶると震えだし、気づけば涙があふれていた。
 顔も名前も知らない人。この動画以外、わたしとはなんのつながりもない人。
 そんな人から向けられた『好き』は、どこまでも透明にまっすぐに、胸に刺さった。
 報われた、気がした。
 わたしの生きてきたこれまでの十五年間が、その瞬間に。
 そのたった八文字に、すべてを肯定してもらえたような、そんな気すらした。
──ああ、わたしはずっと、この言葉が欲しかったんだ、って。
 そのとき、気づいた。

 昔からずっと、道端の石ころみたいな存在だった。
 家にはわたしよりずっと華やかな姉がいて、両親ともにわたしより姉のほうを好いていた。べつに、それ自体についてはとくになにも思うことはなかった。わたしが自分の親だったとしても、きっと自分より姉のほうを好きになるとわかるから。
 小さな頃から、姉のかわいさは際立っていた。ぱっちりとした大きな目も、すっと通った鼻筋も、サラサラの髪も、すらりと長い手足も。わたしの持っていないものを、ぜんぶ姉だけが持っていた。
 見た目だけではない。性格も、姉のほうがずっと社交的だった。
 明るくて人懐っこくて話し上手で。当然、周りの大人たちにはよく好かれた。両親だけでなく、親戚も、近所の人も。姉の前でうれしそうに笑い「ひかりちゃんはかわいいね」なんて褒めているとき、隣にいるわたしのことなんて、きっと誰の視界にも入ってはいなかった。
 成長するにつれ、わたしたち姉妹のそんな差は縮まるどころか、加速度的に広がっていった。
 姉は道を歩いているだけで声をかけられ、雑誌の読者モデルやら美容室でのカットモデルやらをしょっちゅうこなしていた。彼女がよく自撮りを載せているSNS のフォロワーは、気づけば四桁をゆうに超えていた。
 ──だから、当たり前のことだった。なんの疑問も、悲しみすら湧かないほど。
 わたしは姉みたいに、その日の出来事を食卓で面白おかしく話して笑わせたり、「彼氏にお弁当作ってあげたいから料理を教えて」なんてかわいらしく母に甘えたり、そうしてふたりで台所に立って楽しそうに料理をしたり、そんなふうに親を喜ばせることが、なにひとつできないから。
 学校に友だちがいないから、報告できるような楽しい出来事なんてひとつも起こらない。もちろん彼氏だって一度もできたことはない。
 ただ教室の隅の掲示物みたいな存在感で、その場にいるだけ。いじめられたことすら一度もない。きっと誰の視界にも映っていないから。
 勉強でも運動でも、秀でたところなんてない。見た目も平凡中の平凡で、すれ違っても数秒後には忘れるような、なんの特徴もない顔。性格も根暗で消極的で、ただ真面目なだけの、なんの面白味もない人間だと自分でわかる。
 わかるから、現状をどうにかしたいだとか、そんな思いすら湧かず、こんなつまらない人間はこれからもこうして日陰でひっそりと生きていくしかないんだ、って。どんなにつまらない人生だとしても、つまらない人間にはそれしかないんだ、って。
 そう納得して、受け入れてきた。
 なのに。

「え、すご。なんか、めっちゃ上手くない!?」
 あの日、有賀くんが向けてくれた賛辞に、どうしようもなく胸が震えた。
 息が詰まるほどうれしかった。
 同時にいてもたってもいられなくなって、それから衝動的に、歌い手の活動を始めてしまうぐらいに。

 ──本当は、受け入れたくなんてなかったんだ。
 歌いながら、わたしはまざまざと自分の心に突きつけられるのを感じた。
 誰の視界にも映らないこと。なんの価値もない、つまらない人間として生きていくこと。
 本当はそれが、死ぬほど嫌なんだって。
 わたしはここにいる。これがわたしなんだ。昔から歌が好きで、これだけは実はほんのちょっとだけ、他の人より上手いんじゃないかって、そんな自負を持っていて。だけど誰にも言えなくて、だからずっと誰にも聴いてもらえずにいた、わたしの歌を。
 お願いだから、誰か聴いて。
 誰か、こんなわたしを見つけて、って。
 ──そう、歌いながら、叫んでいた。