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 砂浜には何やら作業している人影があった。あれは──。
「あ! 栞さーん、おはようございまーす」
 両手を大きく振り振り、挨拶をくれたのはアシスタントディレクターAD手鏡渚子てかがみなぎさこさんだった。『クローズド・カップル』のメインキャストは総勢六人いるが、彼女はそれとは別、つまり裏方の人員だ。中でも僕らと歳が近い。まだ二十代前半だったはず。服装はTシャツにゆるめのオーバーオールを合わせたラフで活動的な格好。化粧っ気の薄い顔にはアラレちゃん眼鏡を載せている。
「おはようございます、渚子さん」
 僕は挨拶を返しつつ、なぎさこ、という不思議な響きを慎重に発声した。「小口栞」はもちろんペンネームだけれど、彼女の名前は芸名の出演者たち以上にインパクトがある。手鏡に、渚子だ。一度見聞きしたら忘れられない。初対面の時、ついそれを本人の前で口走ったら、彼女は気分を害した様子もなく、わざわざ運転免許証を取り出して見せながら、こう言った。
 ──正真正銘の本名ですよ。小説の登場人物みたいでしょ?
 含みのある言い回しには意味があった。後から知ったのだけれど、渚子さんは僕の作品をデビュー時から追ってくれている読者だったのだ! 島に渡ったメンバーの中で唯一の貴重な──奇特な?──御仁ごじんだった。元々幼い頃からミステリを読むのが好きだったという。そんないきさつもあって、彼女は人見知りの僕にも割と好意的に接してくれていた。僕も出演者の面々よりむしろ彼女に波長の近さを感じているくらいだ。
 そんな渚子さんが、先ほどからなぜか僕の顔を凝視している気がする。
「どうかした?」
「……毎日遅くまでお疲れ様です」
「え?」
 思わず僕が聞き返すと、彼女は人さし指を目の下に添えて、
「くまが目立つ気がしたので。きっと昨晩も新作を書き進めていたんですよね?」
 うぐ。純粋なまなざしが胸に突き刺さる。
 仕事道具のノートパソコンはもちろん持参していた。けれど、島に来てからまともに立ち上げてすらいない。撮影で気力を使い切り、この二日間はベッドに倒れたと思ったら気づけば朝を迎えていた。くまが濃いのは生まれつきだ。
 僕が頭をかきながら、のろのろと弁解しようとした時、彼女が続けて声を上げた。
「あ! もしかして、セブン・シーズ・ハウスの枕が合いませんでした? それでよく眠れてないとか……。あれ、完全に私の好みで発注しちゃったからな……そうだったらごめんなさい!」
 僕は一瞬呆けた後、発想の飛躍に思わず吹き出しそうになった。セブン・シーズ・ハウス──コテージの寝具には今のところなんの不満もない。
「枕もベッドもすこぶる快適だよ。執筆よりも睡眠がはかどっちゃうくらいには」
 僕がそう言うと、今度は彼女がきょとんとして、その後笑ってくれた。
「ふふ、そうでしたか。それなら、まあ、よかったです」
「くまは元々出やすいんだけど、目立つかな。やっぱりメイクか何かで隠した方がいい?」
「あ、いえ。それはそれでいかにもな感じなので、私はいいと思います!」
 褒められていると取っていいんだろうか。首をひねる僕には気づかずに、彼女はまた急に思いついたように話しだす。
「そういえば、時に栞さん。セブン・シーズ──これ、七つの海って意味ですけど、具体的に七つの海域がどこを指しているか、ご存じですか」
 脈絡もなくクイズが始まった。こんな風に彼女はなかなか自由人で、もっと言えば天然っぽいところがある。実際撮影中にも、明らかにカメラに見切れる立ち位置にいたり、声が乗ってしまうようなタイミングで話しかけてきたりすることがあった。けれど、こういうキャラだと受け入れられているためか、あるいは編集でどうとでもなるのか、そうした諸々を木野さんは割とスルーしていた。
 ……えーと、なんだっけ。七つの海か。暇つぶしにはちょうどいい。つき合ってあげよう。
「七つ全部は自信ないけど、わかるところから。まずは太平洋に大西洋だよね。それからインド洋、地中海、これで四つだ。あとはそうだな……カリブ海? あ、黒海とか、紅海なんてのもあったな。どこかは忘れたけど。でもとりあえず七つは出たぞ。どう? いくつかは合ってる?」
「うんうん、なるほど」渚子さんは腕を組み、うなずいてから。「それでは正解の発表です。インド洋、これは合ってます。でも栞さん、うっかりです。大きなところを忘れてますよ。北極海と南極海」
「あ、そうか。そしたら、あとの四つは?」
「残りは──北太平洋と南太平洋、そして北大西洋と南大西洋です」
「そこ、分けるんかい!」
 予想外だった。そんなのありか。
「困難は分割せよ、です」
 それもちょっと違うと思うけれど。
 なんだか妙におかしくなって、またぞろ吹き出しそうになるのを、空咳をしてごまかす。
 それから僕は話題を変えるために尋ねた。
「そういえば、渚子さんは朝から砂浜で何を?」
「よくぞ聞いてくれました」彼女は胸を反らすようにして、傍らに三脚で立てられたカメラを示した。「今日は全員参加のイベントとして海水浴とバーベキューが計画されています。舞台はもちろんこのビーチ! ですから皆さんの姿を様々な角度から撮影できるよう、固定カメラをセットしていたんです。灰村はいむらさんと一緒に」
 彼女の視線の先を追うと、そちらの方ではカメラマンの灰村櫂介かいすけさんが腰をかがめてカメラをセッティングしていた。半袖ハーフパンツでタオルを首に巻く壮年の彼が、裏方サイドの二。この番組では基本、コテージ内に設置された複数の定点カメラが出演者の姿をとらえ、その映像を本土のテレビ局で編集して放送するという形式を取っていた。が、定点カメラの映像をつなぐだけではどうしても臨場感に欠ける。各人の動きにも対応しきれないということで、灰村さんが有人カメラとして状況に応じたアングルを押さえる役割を担っていた。その上で、屋外での長時間撮影に当たっては、こうして特別に固定カメラを準備し対応していた。
 改めて辺りを見渡すと、砂浜の方々に黒々としたカメラが設置されている。その数、十台はありそうだ。
「朝からこれを一つ一つ……頭が下がります」
「いえいえ。キャストさんが作り出す生のドラマを撮り逃すわけにはいきませんからね」
 殊勝に言う渚子さんだけれど、僕は知っている。今回の撮影で彼女にかかっている負担は相当なものだ。何せ島に渡った撮影スタッフは、プロデューサー兼ディレクターの木野さんを除けば前述の二人、ただそれだけ。出演者六人と、木野さん、渚子さん、灰村さんで総勢九人。それが『クローズド・カップル』の撮影現場の全陣容だった。
 もちろん、これは当初計画されていた数ではない。あるトラブルが起き、制作サイドの人員は大幅に欠けていた。僕はそこまで思い出し、改めて尋ねてみる。
「そういえば、B班は今どんな状況? 無事来られそうなの?」
 すると、渚子さんは頭を抱えながらうめいた。
「それが……今日も欠航の判断がなされました。完全にデッドロックです……」
 B班──それが本来島にいるはずの第二陣の制作スタッフだった。
 僕らA班は初日、羽田空港から朝一の全日空便で八丈島へ渡り、その後チャーター船を利用して漆島に到着した。空の旅は約五十分、船での移動も二時間ちょいという順調な行程だった。しかし追って合流するはずだったB班が災難に見舞われた。チャーター船がエンジントラブルを起こして足止めを食らい、そのうちに黒潮の影響で高波が発生、航行禁止が言い渡されたのだ。一夜が明け、二夜が明けても、状況はまったく改善していないという。
「この季節、こういうことはあまりないそうなんですが……ただ悪い周期に入ってしまうと、八丈島から離島に向かう船は一週間近く欠航することもあります。ヘリという航行手段もあるにはあるんですが、ここ漆島の場合、ヘリポートがないので法律上着陸ができません。船を出すか否かの判断は当日朝になされます。B班の到着は最速でも明日……明後日以降になる可能性も見ておいた方がいいとのことです」
 思ったより状況は深刻なようだ。
「それまで現場担当がたった二人か……かなり大変そうだね。しかもカメラマンは手がふさがってることが多いから、ADの渚子さんがなんでも屋にならないといけない」
 僕の所感を黙って聞いているようだった渚子さんが、そこで急に僕の両手を取り、自分の両手で包み込むようにして持ち上げた。見ると、こちらを見上げる瞳は涙で潤んでいる。そのまま感極まったように、
「……そう! そうなんですよ! この苦労、わかってくれますか!」
 彼女も鬱憤がたまっていたらしい。勢いのままにワンマンプロデューサーの不平不満をぶちまけていく。
「元々ADってなんでも屋なところがありますが、さすがに今回はそもそもの企画段階から異例ずくめ、その上トラブルも重なって正直てんてこ舞いです! なのに木野さんは、『トラブル上等! これはむしろ最高の演出だよ』なんて盛り上がっちゃって……。確かにロケの期日の関係であまり悠長にはしていられないんです。役者はそろっているので、撮れる画は撮っておかなきゃいけない。ですが……『B班抜きでもなんとか形になってるから、このまま撮りきっちゃおうか? なんなら僕もカメラ持つし』とか簡単に言うのどうかと思いません!? 結局サブカメラは私がやってるんですよ! むきー」
 声に出して「むきー」って言う人、初めて見たよ。
 渚子さんの愚痴は止まらない。
「はあ……木野さん、癖の強い人と聞いてましたが、そんなもんじゃないですね。そもそもこの番組、B班含めても現場スタッフは十人強だから、元々かなり人員を削ってるんです。そのしわ寄せのせいか、次から次へと仕事が降ってきて、さすがに手が回りません!」
 僕は気圧けおされつつも、彼女の過熱したテンションを落ち着けようと、少しおどけたトーンで言葉を返す。
「あー、やっぱり舞台設定に凝りすぎたのかな? 無人島を探してきて、そこに立派なコテージを建てた。それで満足してたら、人手にかける予算がすっかり残ってなかったのかも」
「予算の全容は私にはわかりませんが……まあ、敏腕で鳴らす木野さんのことですからね、考えなしに人を削ってるわけではないんでしょう。現場の頭数が増えれば、それだけ責任や役割が分散します。カメラの外にわんさか人がいれば、出演者の集中力や没入感にも影響が出る。そういうことを見越して、少数精鋭に振り切ったというのはなんとなく察します。今回、キャスト陣のマネージャーすら同行を一切お断りしてますしね。夾雑物はなるべく排除し、機動力を上げ、出演者が生み出す自然な空気感を余すことなくカメラに収める──リアリティーショーの極意に沿った采配と考えれば、まあ、わからないこともない……ですが!」
「理屈として納得できたからといって、当事者として腑に落ちるかといえば……また別だよね」
 渚子さんはこくりとうなずいた。
「でも一気に吐き出したら少し気が晴れたかも」それから彼女は改めて腰を折る。「お見苦しいところを……失礼しました。本当はわかってるんです。この二日間、木野さんの指示はこれ以上ないほど的確でした。カメラが足りないと見るやすぐに定点カメラの数を増やしたり、盛り込むイベントの種類、演出をその場で調整したり……撮影日を二日もふいにしたかもしれないことを思えば上出来にすぎます。そして、こんな状況で撮影を決行できたのは、出演者の皆さんの協力のおかげでもあります。ちょっとこき使われたからって、ADが弱音吐いてちゃ始まりませんよね。……気を取り直して! 計画通りでないところが多々ありますが、それでも出演者さんたちには極力不便が出ないようにしますので、どうかご安心を。本土との行き来は封じられてますが、今も通信は問題なくつながってますし。ちなみにセブン・シーズ・ハウスは館の裏手にある発電機から電気を供給していて、水道は地下水からのくみ上げ、プロパンガスも持ち込んで長期滞在に耐える仕様です。食料も充分。何かお困りごとがあったらなんなりと申しつけてください。引き続きイレギュラーな撮影体制にはなりますが、よろしくお願いします」
 かしこまって言われると、こちらが恐縮してしまう。
「あ、ありがとう。なんだか至れり尽くせりで逆に申し訳ないな。せめて残りのカメラの設置とか手伝おうか?」
 純然たる親切心で申し出たのだけれど、渚子さんはそれをきっぱりと突っぱねた。
「さすがに舐めてもらっちゃ困ります! いろいろ言いましたけど、私も仕事人としてのプライドがありますから。裏方の業務は裏方に任せて、栞さんは早く女の子の一人二人口説いてください!」
 ……無茶苦茶言うなあ。
 曖昧に請け合って、僕は腕時計に視線を逃がす。時刻は午前九時を回ったところだった。
 その時。
「おーい、手鏡。終わったならこっち手伝えー」
 灰村さんからADにお呼びがかかる。
「あ、はい、ただいま!」
 渚子さんはわたわたと声を飛ばしてから、近くのカメラの角度を再度慎重に整えた。その仕上がりに一人うなずくと、
「それじゃ、私行きますね。砂浜での全体撮影は午後三時からを予定してます。よろしくです」
 そう言い置くと、白い砂を蹴り上げ颯爽さつそうと走り去っていった。
 
 それから当初の予定通り、僕は砂浜を少し歩いた。ただふと気を抜くと、打ち合わせしている渚子さんと灰村さんが視界に入ったりして、どうにも落ち着かない。この二日間、混乱した現場を八面六臂はちめんろつぴの活躍で支えた二人の顔にはやはり隠せない疲労がにじんでいる。周囲をのんきに遊歩し続けるのも心苦しくなり、潮風は名残惜しかったけれど、十五分ほどでさっさと切り上げることにした。
 どうせ十時からは館内活動推奨時間だ。これは絶対強制ではないけれど、コテージ内で活動するのが望ましいとされている時間帯のことだ。出演者がそれぞれ日がな一日島をふらふらしていたら撮影にならないので、その調整のために設けてあった。
 でも思いのほか、朝の自由時間もけっこういろんな人と出会ったな。というか、ほぼコンプリートじゃないか? 朝が弱い木野さんを除けば、顔を見ていないのはあと出演者の一人だけ──。
 と、噂をすれば影だ。
 小道を上り終えると、ちょうど林の方からやって来た人物と鉢合わせした。
「お。よっす、栞か」
「おはよう、我妻あがつま君」
 我妻よう。束感のあるアッシュグレーのウルフカットに、オーバーサイズのシャツを合わせ、極めつけのスキニーパンツ。名に負う通り陽性の雰囲気をまとう、彼の職業はバンドマンだ。『セカンド・アルバム』というロックバンドでフロントマンを務めているらしい。失礼ながらこれまた存じ上げない。でも、バンド名がユニークで面白いと思った。以前、たまたま二人で話す機会があって、バンド名の由来を尋ねてみたことがある。
「由来? そりゃ、なんたってセカンド・アルバムは名盤が多いからな。それにあやかったってわけ」
「セカンド名盤説? そんなの初めて聞くけど。素直にデビュー・アルバムの方がよっぽど有名なの多そう」
「あのなあ、栞。世間の評価はいいんだよ。自分が良いと思ったもの、好きと思ったものが本物なんだから」
「それはそうだ。ごめん、これに関しては僕が野暮だった。セカンド、名盤か……あまり詳しくないけど、ぱっと思い浮かぶのは『ネヴァーマインド』とか、『モーニング・グローリー』とかかな」
「……?」
「嘘! ぴんと来てない!」
「いや、セカンドの名盤といえばあれだろ。『名前をつけてやる』とか、『桜の木の下』とか」
「……うん? なるほど?」
「ぴんと来てねえな!」
 全然ぴんと来てなかった。ただ、今までなんの関心もなかった彼らがどんな音楽をやるのか、この会話をきっかけにして、少し興味が湧いたりもしたのだった。
 ところで我妻君は今まで何をしていたんだろう。やっぱり散歩? そう思って改めて様子をうかがうと、彼の表情がどことなく冴えないことに気づいた。しかも時折きょろきょろと辺りに視線を配っている。
「どうかした?」
 そう聞いてみると、彼ははっとして言いよどむ間の後、逆に質問を返してきた。
「……サリーを見なかったか?」
「え?」
「三十分くらい前かな。俺から誘って、一緒に林の方へ散歩に出たんだけどさ、ふと目を離した隙にいなくなっちゃって。一応探しながら来た道を戻ってきたんだけど、見当たらないんだ」
 そうか、そんなことが……ふむ。
 僕は余計な言葉は発さずに、散歩の出がけに遭遇したサリーの様子をゆるゆると思い返した。まず第一に、玄関先で挨拶を交わした彼女は、連れとはぐれて仕方なく戻ってきたという感じではまったくなかった。第二に、僕とサリーが出会ったのも三十分前かそこらだ。予期せぬ事態だったとしたら、そこから判断してセブン・シーズ・ハウスに舞い戻るまでがあまりに早すぎる。
 とすれば、考えられることは一つだった。……サリーは自分の意思で彼をまいたんだろう。
 ──どこも全部つまんなかったよ。
 脳裏によみがえる彼女の言葉をぐっと飲み込み、僕は気楽な口調を装って言った。
「あれじゃない? 我妻君、サリーが靴ひもを直すとかで、立ち止まったのに気づかなかったんだよ。この島の林道は決して遭難したりするような悪路じゃないけど、意外と見通しが悪いところもあるからね。サリーの方もすぐ追いつくと思って油断してたら、うっかり見失っちゃったって感じだと思う。きっと先にコテージに戻ってるよ」
「そうかな……そうだよな!」
 我妻君はそれで納得してくれたようだった。
 それから僕らは二人でセブン・シーズ・ハウスへと足を向ける。
 道中、僕は他人事のように現状の出演者の相関図を思い浮かべてみた。
 ……なんか一方通行の矢印、多くない?