第一章



 青い海。白い砂浜。すこぶる陳腐な言い回しだ。けれど、目の前にあるのはそうとしか表現しようのない光景だった。
 風車が悪魔のように見えたら悪魔の描写をなすべきだ。しかしそれが風車にしか見えなければ、そのまま風車と書けばいい。芸術的な描写にとらわれて、見え透いた工夫をする作家は一生かかっても何もつかめない──誰の言葉だっけ。太宰だざいおさむ先生か。うん、偉人の名言はいい。凡人をわかった気にさせてくれる。
 文豪の威を借りながら、改めて眺める窓の外。一面に広がるリゾートな景色を思う存分堪能した後、僕はおもむろにため息をついた。
「……はあ、帰りたい」
 恋愛リアリティーショー『クローズド・カップル』、撮影三日目の朝だった。
 今、南の島に建つコテージには、僕を含め六人の男女が共同生活をしていた。そういうていの撮影なのだ。出演者の恋愛模様はそこかしこに設置されたカメラに収められ、リアルな質感そのままに、やがてお茶の間に届けられることとなる。
 それを思うと……島の開放的な雰囲気とは裏腹に、僕の気持ちは閉鎖的に沈んだ。予定された滞在期間は十日間。先はまだまだ長い。終わりが見えないという意味では、体感の残り時間は無限に等しく、それはつまり永遠と同義だった。
 僕は再びせり上がってくるため息を無理やり飲み込んで、視線を室内に転じた。
 あてがわれた一人部屋は、僕が暮らす都内のワンルームより優に広い。設備は整って快適だったけれど、自分が本来いるべきでない場所にいるのだという落ち着かない気持ちは日に日に高まるばかりだった。
 なんにせよ、いつまでもここでうだうだしているわけにはいかないのだ。僕はいよいよ部屋を出る決意をする。
 カメラの集中砲火に備えて、身だしなみはすでに整えてあった。こうした撮影の場にスタイリストがいないのは異例のことで、正直かなり心細い。ただ、世間の需要を思えば、僕が王子様のようにきらっきらにめかし込む必要はないわけで、むしろ寝ぐせでいくらか髪の毛が跳ねていた方が雰囲気が出るというものである。そんな風に自分を納得させた。
 木製の扉を押し開け、外から鍵で施錠。板張りの廊下を行く。
 ここは三階建てのコテージの二階だった。二階には出演者の部屋が六つと、物置に使われている部屋があるくらいで、今さら見るべきものはない。僕は素直に階下に向かった。生活の設備はほとんど一階にまとまっている。吹き抜けになっている階段を下りれば、そこが撮影のメイン舞台となるリビングダイニングだ。
 ダイニングテーブルには先客がいた。
「や、おはよー」
 向こうの方が先に反応して、ひらひらと手を振ってくれる。同じリズムでロングの黒髪がさらさらと揺れた。
 緊張のゲージが高まる。けれど、僕はなんとか最大限明るい声で挨拶を返した。
「おはようございます、花火はなびさん」
 松浦まつうら花火。絶賛売り出し中の女優さんだ。この番組のキービジュアルでも中央に配されていた彼女は、今回の出演者の中では一番人気といえるだろう。芸能界にうとい僕ですらその名をよく知っていた。今やメディアで見かけない日はないからだ。
 一人で朝食を取っていたらしく、目の前のテーブルにはパンくずがわずかに残った空のお皿が置いてあった。今は食後のコーヒータイムのようだ。カップを傾ける仕草一つとっても華があり、つい見とれてしまいそうになる。
 と、不意に彼女がつややかな柳眉をひそめた。コーヒーが苦かったのかな、と一瞬思ったけれど、どうやらそうではなく。
「……やっぱりしおり君、ちょっと壁を感じるな」
「え? そ、そう?」
「そうだよ」
 吸い込まれそうな黒目がちの瞳と正対して、僕は二の句が継げなくなる。
「もしかして、私、何か嫌われるようなことしちゃった?」
 上目遣いの追い打ち。
 僕は前に出した両手を全力で振って否定した。
「滅相もない! ……ただ、やっぱりカメラの前に立つことにまだ慣れないというか。そもそもコミュニケーションも得意な方じゃないし。ほら、部屋にこもって年中小説ばかり書いてる人種だから」
「緊張してるんだ? だったら」彼女は立ち上がり、こちらに向かって軽やかに歩み来る。「ほぐし方、教えてあげる」
「ほぐし方?」
 蠱惑こわく的にほほ笑む花火さん。気づけば、すぐ目の前に彼女の整いすぎた顔があった。そのまま、右手のひらをとん、と僕の胸に載せ、鈴を転がすような声音でささやく。
「基本だけど、一番効果的なのが深呼吸。まずは吸うことより、肺の中の空気を吐ききることを意識して。ゆっくり、じっくり、ね」
 思わぬ展開にどぎまぎしながらも、言われた通りにしてみる。時間をかけ、少しずつ息を吐き出していく。すると、全身に入りすぎていた力も一緒に抜けていくのがわかった。
「吸う時も少しずつ、ゆっくり。お腹の底にたまっていくのを意識するの。あとはその繰り返し──どうかな」
「……落ち着いてきたかも」
「よかった。そんなに自分を卑下しないで。小説家なんて誰でもなれるものじゃないもん。めちゃくちゃすごいことだと思う」彼女は言って、体をさらに僕の方に預けた。交錯しそうになった顔を器用に傾け、僕の耳元に寄せる。「それに……私、栞君みたいな知的で物静かな人、けっこうタイプだし」
「え、なっ」
 僕が慌てて体を離そうとすると、胸元に置かれた手が、今度はぎゅっと服をつかんだ。
「そのまま」花火さんの声のトーンが一段下がった。「定点カメラの位置、覚えてるよね」
 ……定点カメラ? ああ、そうか。ようやく僕は理解する。
 これは彼女が仕かけた演出だ。
「目線は自然に。ここはきっと使われるから」
 確かに見せ場の一つになるだろう。撮影が始まってからこの二日間、正直僕は目立った振る舞いがほとんどできていなかった。出番は少なく、キャラや立ち位置もあやふや、最も番組映えしないメンバーだったはずだ。
 しかし一番人気がアプローチをかけるとなれば評価は反転する。ただ印象の薄かった奴が、番組の今後を左右するダークホースに格上げとなるのだ。
 思わず嘆息した。さすが、経験が違う。女優としてのカメラ慣れもそうだけれど、このアドリブ力。他のリアリティーショーの出演歴もあったはずだから、そこで培われたのだろう。展開に起伏を生み出し、かつ自分が「おいしいポジション」を得る立ち回り。
 しかも、だ。
「おはよう──っと、これは。お邪魔だったかな」
 完璧な間で、階上からもう一人の出演者が現れた。まさにリアリティーショーの神様に愛されているようなタイミング。これが「持っている」というやつか。
 花火さんはぱっと僕の服から手を離すと、
「おはよう、圭太郎けいたろう」とにこやかに挨拶した。「何もないよ、お話ししてただけ」
 なんというか、含みの持たせ方がまた絶妙だった。僕は横でただ愛想笑いを浮かべていればよかった。
「ふうん」
 そんな僕を一瞥いちべつする、端正なマスク。新たに登場した彼はかつら圭太郎、特撮出身の俳優だ。最近では映画や二・五次元の舞台など、活躍の場を広げているらしい。すらりとした長身に、色気のあるセンターパートがすこぶる似合っている。ここまでのイケメンと対峙すると、嫉妬や羨望よりもあきらめが先に来る。少しきざっぽい振る舞いも板についていた。
 彼は僕にさして興味もないようで、さっさと花火さんに向き直っていた。
「じゃあこれから一緒に朝食でもどうだい? クロックムッシュくらいなら作るけど」
「え、それ、一人で勝手にトースト焼いて食べた私への当てつけ? 女子力陳列罪じゃん」
「いや、どんな罪だよ」
「刑罰は、エステで二時間以下の懲役」
「余計女子力高まるわ!」
 ひとしきり笑い合う二人。何そのノリ、怖……。って、引いてる場合じゃない。すごいのは、相手を選ばない花火さんの対応力だ。
 彼女は「はー、おかしい」と目元をぬぐってから、
「じゃ、明日の朝食、予約しとくね」と立ち上がり、自分の食器をてきぱき片すと、二階へと去っていく。油断していたら、僕の脇を抜けていく際、小声で「それじゃ」とささやかれて背筋が伸びた。自分からの仕かけも、他者からの受けも完璧。リアリティーショーにおける振る舞いかくあるべし、という試合巧者っぷりをまざまざと見せつけられた。
 さて。
 ゲームメーカーを失い、男二人が残されたダイニング。
 なんとなく桂君の出方をうかがっていると、彼はキッチンの方に歩いていき、冷蔵庫から牛乳を取り出した。なるほど、クロックムッシュとは牛乳を使って作るのか、と思っていたら、続けて戸棚から取り出したのはお徳用のシリアルだった。だいぶダウングレードしたな。
小口こぐち栞」
 背を向けられたまま声をかけられ、反応が遅れた。
「は、はい」
「君は? 朝食べた?」
「まだ、だけど」
 そう答えると、彼は食器を二人分用意してくれる。普段朝は食べないのだけれど、せっかくなので向かいの席に着き、彼にならってシリアルと牛乳を皿に流し込んだ。
 しばらく無言でシリアルを咀嚼そしやくしていると、
「君もあれかい、花火狙い?」
 桂君が尋ねてくる。
「いや、狙いとか、そういうのでは……」
「ま、いずれにせよ、遠慮はしないよ」
 桂君と花火さんは役者同士、度々他の現場でも顔を合わせているらしく、この撮影の当初から下の名前で呼び合っている。彼が花火さんに対してストレートに矢印を向けているのは明らかだ。しかしそれが恋心に根差すものなのか、いわゆる番組的な立ち回りなのかはよくわからない。僕自身はそもそもリアリティーショーで本気の恋愛なんてあり得ないというスタンスだけれど、どう考えるかは出演者によってまちまちなのかもしれない。そう、まちまち──。
「きゃああああ!」
 その時、思索を破るように、甲高い悲鳴が二階から響いた。僕は取り落としそうになったスプーンをつかみ直し、思わず桂君と顔を見合わせる。間髪を容れず、誰かが騒がしく階段を下りてきた。
「あ、圭たんっ!」
 叫びながら飛び込んできたのは恋塚こいづかうるるだ。彼女ももちろん番組の出演者の一人。グラビアアイドルとして活躍する傍ら、同じ事務所の子たちとアイドルグループ『cubism』を結成し、音楽方面でも活動中だと聞いている。失礼ながら、本人の名前も、グループの名前も、今回ご一緒するまで寡聞かぶんにして知らなかったのだけれど、やはり対面すると一種のオーラを感じる。オーラ……いや、彼女の場合はあえて結界とでも言おうか。キャラや立ち回りを超えた、アイドル固有結界を身にまとうすごみがある。圭たん呼びもその一つ。
「ああ……おはよう」
 桂君が少したじろいだ様子で挨拶を返すと、彼女はいきなりその手にすがりついてまくし立てた。
「圭たん、助けて! いやいや、もう信じらんない! うるる怖くてどうしたらいいかわかんなくて……」
「一旦落ち着こう。何があったんだ」
「おっきな! 起きたら、うるるの部屋にいて……うるる、虫さんだめなの」
「わかった、わかった、今行くから」
 桂君がのろのろと立ち上がり、二人は連れ立って二階に上がっていく。
「…………」
 取り残された僕は、ふやけたシリアルを口に運ぶ作業に戻った。
 うるるさん、格好こそピンクのふわふわした寝間着だったけれど、メイクもラビットスタイルのツインテールもばっちり仕上げてたな。そして僕の方にはついぞ一瞬たりとも視線を向けなかった。狙いはあくまで一点に絞り込んでいるというわけか。
 これが恋愛リアリティーショー。それぞれの戦い方。
「……やっぱり場違いだよな、どうも」
 食事の後は、散歩に出ようと決めていた。僕は食器を片すと、そそくさとダイニングを離れた。