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 その日、啓子は再び黒木と一緒に、バルーン杵坂店の四階へと足を運んだ。
 最初の聞き込みから、ちょうど一週間が経っていた。時間が経ったからこそ新たに記憶がよみがえる、という場合も多い。だから地取りは一度で終わらせず何度でも繰り返す。それが捜査の鉄則だ。
 売場を回ったあと、『ふわっと』へ向かった。
 いま預かっている幼児は三人だ。
 今日は菜月のシフト日でもあった。風船の絵柄が刺繍されたエプロンを着けた菜月は、部屋の隅に置かれた作業用の机に座って、ハンドポンプで風船に空気を入れているところだった。
「ああ、羽角さん。こんにちは」
 藪中は片手を軽く上げ、白い歯を見せながら近づいてきた。
「またお仕事中にお邪魔してすみません。しかも娘までお世話になってしまって」
 藪中は菜月の方を見やった。「いえいえ、菜月さんに来ていただいて、すごく助かっていますよ」
 啓子は菜月の働きぶりを横目で気にかけつつ、ハンドバッグからメモ帳を取り出した。
「もしかしたら、高島晴海さんの事件に関して、あれから何か思い出されたことがあるかもと思いまして、また寄らせていただきました」
「いやあ、すみません」藪中は頭に手を当てた。「ずっと考えていましたが、やっぱり何もないですね。――反対にこちらからお訊きしたいんですけど、犯人の目星はまだ全然ついていないんですか」
 啓子は渋面を作ってみせた。「この表情からお察しください」
 藪中は、それが癖なのかまた頭に手を当て、顔に苦笑いを浮かべた。
 このとき藪中の方へ、髪を三つ編みにした女の子が近寄ってきた。青い風船を持っている。
「一緒に遊んで」
「いいよ」
 藪中は女児から風船を受け取った。
 サボらずにちゃんと働くのよ。そんな目配せを菜月に送ったあと、啓子は託児ルームを出ようとした。そのとき、
「失礼します」
 中に入ってきた人物がいた。スーツ姿の大柄な男だ。生活安全課の小池だった。背後に一人、部下の女性署員を引き連れている。
 啓子は小池と顔を見合わせた。互いに驚く。こうして聞き込みと立ち入り調査のタイミングが重なったのは、まったくの偶然だ。
 藪中が急に風船を取り落としたのはそのときだった。小池の方へ向けた彼の顔は蒼白になっている。
「少しお話しさせてもらってもよろしいですか」
 小池が野太い声で迫ると、藪中の表情はますます硬くなった。やがて彼は前へ出た。小池の脇をすり抜け、ぼんやりした足取りで出入り口の方へ向かう。
「ちょっと藪中さん。どうしました?」
 啓子は背中に声をかけた。それを無視して藪中はフロアへ出た。
 その姿を啓子は追った。後ろから黒木と小池もついてくる。
 藪中はと言えば、フロアの突き当たりまでふらふらと歩いていき、非常口のドアを開けたところだった。その向こうは屋外に設置された非常階段になっている。
 ドアクローザーがついているため、非常口の扉がいったん閉じた。
 啓子は小走りになり、ドアを開けた。
 藪中は非常階段の手すりから、身を乗り出すようにして、下を覗いていた。ここは四階だ。地面まで十二、三メートルもの高さがある。
「危ないですよっ」
 そう声をかけようとした矢先だった。藪中は躊躇することもなく、手すりの向こう側へ上半身を倒し、軽く足元を蹴った。
 藪中の衣服を掴もうと、啓子はとっさに手を伸ばしたが、指先は虚しく空を切っただけだった。
 間を置かず、地面の方で鈍い衝突音がした。

 

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