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 目の前で、ポニーテールの髪が左右に揺れている。
 秋の西日を受けて艶を放つその髪の持ち主、菜月なつきは、いま軽くハミングしている。
 それを聞いて、羽角啓子はずみけいこは思い出した。この子には、四歳から五歳にかけてピアノを習わせていたんだっけ……。
 知能の発達にいいからと、亡き夫が発案したことだった。そのせいで菜月の音感は優れている。
 担任教師との三者面談を終えた帰り道だった。嫌な緊張から解放され、こっちも鼻歌の一つでも歌いたい気分になっている。
「ちょっと早いけど、どこかで晩ご飯を食べていこうか」
 そう娘の背中に声をかけると、
「賛成」
 答えるなり、菜月は通学リュックを背中から下ろした。足の動きは止めることなく、中からメモ帳を取り出す。
「ね、何か面白い話を教えて」
 菜月は、リュックを背負い直しつつ、メモ帳に引っ掛けてあったシャープペンシルを握った。
 部員が交代で書く学校新聞のコラム。そのネタにまた困っているらしい。
 以前は「新聞記者ごっこ」というのをよく母娘二人でやっていた。警察回りの記者のふりをしてネタ取りをしようとしてくる菜月に、こちらも刑事課長になったつもりで相手をしてやったものだ。
 そんな他愛のない遊びも、いつの間にか途絶えて久しくなっていた。早いもので菜月はもう中学二年生だ。
「じゃあ、そこで何か買ってあげるから」ちょうど書店の前を通ったところだった。啓子は店の入口を指さした。「本か雑誌からでもアイデアを探せば?」
「活字じゃ駄目だよ。あれからのイタダキだろ、ってバレちゃうかもしれないから」
 二十一世紀も近くなってきたいま、インターネットというものが急速に普及し、誰もがいろんな情報を簡単に入手できるようになってきた。ついでに、どんな事件の真相もパソコン一台で判明するようになってくれれば、毎日の仕事もだいぶ楽になるはずなのだが。
「誰もが手に入れられるソースじゃ駄目なの。自分だけがそっと当事者から教えてもらった話じゃないと。第一次情報でないとね」
 娘がこういう生意気な口を利くのは、いまに始まったことではない。
「だけどね、そんなことを言われても、こっちだってネタ切れなのよ」
 中学生のための防犯アイデア――そんなたぐいの情報を提供してきた回数は、もう両手の指では数えきれない。
「母さん。来月、立志りっし式があるのは、ちゃんと覚えていますか」
 菜月は、いきなり話題と、そして口調を変えてきた。
「……ええ。約束どおり、そっちにも出てあげるよ」
 もし事件が何も起きなければ、という条件つきだが。
 もう三十年ほども前になるが、自分も同じけやき中学校で立志式なるものを経験した。しかし、保護者までが参加したという覚えはない。
「その式典で、二年生の代表として、将来へ向けた決意を発表するのは誰でしょうか」
「あんたなんでしょ。前にも聞いたわよ」
 だからこそ、わざわざ年休を申請して出席することにしたのだ。
「わたしは二年生全員に向かって表明する予定です。将来は新聞記者になって真実を暴くために邁進まいしんします、と」
「真実、ね。ちょっと大袈裟おおげさすぎない?」
「もし十年後にちゃんとした記者になれていなかったら、わたしは大恥をかいてしまいます。ビッグマウスと言われてずっと笑い者になります。ですから、いまのうちにスクープ癖をつけておきたいのです。娘の不始末は親の不始末です。それでもいいのでしょうか?」
 また妙な理屈をつけてくる。
「分かったから、そのおかしな口調はやめて。気持ち悪いって」
催涙さいるいスプレーの作り方とか、そういうのはもういいの。もっと大きな事件の話を教えてよ」
「だって学校新聞でしょ。殺人の話なんて載せられる? あんたたちには刺激が強すぎるんじゃないの?」
「昔とは違うんだって。最近の中学生は、ちょっとやそっとのことじゃ驚かないから、刺激や毒はあればあるほどいいの」
 ――菜月さんは非常に強い好奇心を持っています。これは長所です。お母さんはひるむことなく、それをどんどん伸ばしてあげてください。
 先ほどの三者面談で担任教師から受けた言葉が思い出された。たしかに、本人の興味を尊重してやるのは大事だろう。それに、いずれ社会に出れば、どうしたって毒に当たる。ならばいまのうちからそれに慣らしてやることには多少なりとも意味があるはずだ。
「ある男Aがね」啓子は言った。「男Bを殺した事件があったの」
「ほほう」
 唇を尖らせてメモ帳にシャープペンシルのペン先を走らせる菜月が、ともすればいっぱしの記者に見えるのは、親の欲目というやつか。
「AはBを殺す前にあることをした。何だと思う?」
 見当もつかない、という様子で菜月は首を振る。
「Bに渾名あだなをつけたの。渾名はゲコ。ようゲコ、どうしたゲコ、こんにちはゲコ、さよならゲコ……。Aはことあるごとに、心の中でずっとBをゲコと呼び習わしていた」
「何のためなんだろ」
 菜月の言葉は独りちる口調だった。答えを自分で考えたいようだ。
 だから啓子はしばらく黙ることにした。
 学校から自宅まで約一・五キロ。その、ちょうど中間地点にあたるこのあたりを歩いたのは久しぶりだった。
 右手には少しだけ古びたビルが数棟並んで立っている。ここから一番近い一棟の二階部分に、まだ「ブルーBミュージックMスクールS」の看板は出ていた。菜月をかつて通わせていた音楽教室は、いまもしっかりと存続しているようだ。看板にさびも汚れもないところを見ると、生徒数もそれなりにいるのだろう。
 そろそろ夕暮れどきだった。菜月の背中で、通学リュックに取り付けられた反射板が、もう明るく見えはじめていた。
「分かんない。降参。どうしてAはBに渾名をつけたの。ゲコなんてかえるみたい」
「正解」
「え?」
「Bを蛙だと思い込もうとしたのよ、つまり、人間以外のものだとね。殺人事件では、こういう事例がたまにある。誰かを殺そうと思ったとき、相手が自分に似ていればいるほど、自分と相手が同一化してしまって、殺すのは難しくなる。分かるでしょ、この理屈」
「うん」
「同じ理屈はね、正反対の方向にも働くわけ。自分と違う相手は、ずっと殺しやすくなるのよ。加害者が人間だったら、被害者は人間よりも蛙の方がずっとあやめやすい」
 この話は、菜月の好奇心をかなり刺激したようだ。メモ帳に書き留めている様子は、必死と表現してもいいぐらいだ。
 書き終えた菜月は黙り込んだ。このネタで一編のコラムが書けるかどうか考えているようだ。
「まだ終わりじゃないよ。ちょっと続きがある」
 舌が調子づいてしまったらしく、いつの間にか、自分の方が喋りたがっていた。それともこれは、もっと情報を提供してやりたいという親馬鹿的な心理状態のなせるわざか。
 いずれにしても、おかしなものだ。
「Aは計画通りBを殺した。犯行の際に物的証拠を何も残さなかったから、警察は自分を逮捕できないはずだった。だから徹底的に否認するつもりでいた。だけど、容疑者として刑事に事情を聴取されているうちに罪を認めてしまったの」
「どうして」
「その警察署は田舎の方にあって、すぐ近くが田圃たんぼだった。季節はちょうど、いまみたいに秋。取り調べの間、窓の外で蛙が鳴き始めた。ゲコ、ゲコ、ゲコってね」
「……そっか。つまり、殺した相手の名前が急に聞こえてきて、怖くなったってことね」
「ええ。これはあの世から届く恨みの声に違いない。Aには、そんなふうに思えてならなかったのよ。風情ふぜいのある蛙の鳴き声も、やましいところのある人には、死者の怨念にしか聞こえないわけ。神様って、やっぱりいるんだね。結局のところ、真実というものは必ず暴かれるものな――」
 途中で言葉を切ったのは、向こう側から歩いてくる女と目が合ったからだった。