目が覚めて枕元の時計を見たら、ちょうど午前五時だった。
もうひと眠りする時間はあるが、妙に目が冴えてしまっている。羽角啓子はベッドの上で体を起こした。パジャマの上からガウンを羽織り、そのポケットに携帯電話を入れてから台所へ向かう。
床暖房のスイッチをオンにして、コーヒーを淹れた。
遠くからガタンゴトンと電車の音が聞こえてきたのは、最初の一口を啜ったときだった。
その音に耳を澄ましていると、
「おはよ」
菜月も姿を見せた。すでにマフラーを首にかけ、ダッフルコートを手にしている。
「もう行かなきゃいけないの? 今日はずいぶん早いんだね」
大学も二年生に上がったとたん、菜月は早朝に登校することが多くなった。
「しょうがないよ。一限目に量子力学の実験があるんだもん。その準備をしなくちゃいけないの。ただし午後からは授業なしだから、夕食の材料を買って早めに帰るね」
そう言いながら、菜月は冷蔵庫を開け、冷凍してあった食パンを取り出した。
「母さんも食べる? ついでだからわたしの分と一緒に用意してあげるよ」
「ありがたいな。ぜひお願い」
食パンをトースターに入れると、菜月はテーブルの向かい側に座って携帯電話を取り出した。
啓子はコーヒーを飲むふりをしながら、それとなく娘の手元を覗き込んだ。折り畳み式の端末。その画面に一枚の画像が表示されている。
写っているのは、笑顔を浮かべた菜月自身だ。Tシャツにジーンズ姿で、あるものを抱きかかえている。それは青い色の風船だった。しかも、かなり大きい。直径は一メートルほどあるかもしれない。
「なに覗いてんのよ」
そう口にした菜月だが、その視線は携帯からまったく外れることはなかった。
「それ、去年の夏にバイトしたときの写真でしょ」
「そうだよ。最終日の記念写真」
菜月が通っている国立T大学の近くには「バルーン杵坂店」なるデパートが立っている。T大の学生には、そこでアルバイトをしている者が多い。昨年の夏は菜月もその一人だった。選んだ先は食品売場。一か月ぐらい働いた。
バルーンというデパートは、全国にあるどの店舗でも、名前にちなんで風船をロゴマークとしている。企業の習わしで、アルバイトの人間が職場を去るときには、サイズも色も様々な風船のセットがプレゼントされるという。
「またあそこでバイトしようと思ってさ」
「目標は七十五万円かな?」
車が欲しい。菜月がそう言い始めたのは半年ぐらい前からだ。新車で百五十万円するコンパクトカーを狙っているようだ。そこで家計費から援助してやることにしたが、その額は半分の七十五万円に留めておいた。
「そ」
短く頷き、菜月は画像を切り替えた。
今度の一枚で菜月は、風船ではなく三十歳ぐらいの女性と一緒に写っている。この女性は、菜月が世話になった食品売場のスタッフだ。名前はたしか高島晴海ではなかったか。
晴海は小太りの体型だ。しかも青いユニフォームを着ているから、この一枚も見ようによっては、風船を抱えた写真とあまり変わりがないように思える。
菜月が晴海をどれだけ好いていたのかは、先ほどの笑顔とは一転し、別れを惜しんで泣いていたことからもよく分かる。「すごく面倒見がよくて、もう一人のお母さんみたいな人」。菜月はよく晴海をそう評していた。
「この食品売場、すごく働きやすかったんだ。また晴海さんに連絡してみようかな」
「それがいいんじゃない。バイトを募集しているかどうか訊いてみなよ」
「うん、そうする」頷いてから、菜月はおどけた様子で拳を握ってみせた。「早くマイカーをゲットして、電車通学とはおさらばするぞ」
「電車といえば、不思議だよね」
「何が?」
「さっきガタゴトって音が聞こえたのよ。たぶん始発かな。で、いまごろ気づいたんだけど、冬の夜中や明け方って、いつもはよく聞こえない遠くの電車の音が、妙にはっきり耳に届いたりするでしょ」
「まあね」
「それがいまさらながら不思議に思えたわけ。もちろん、夜や早朝は周囲が静かだから聞こえやすいということもあるんだろうけど、理由はきっとそれだけじゃないよね。何でかな?」
「母さん」
菜月は椅子から立ち上がった。
「説明してあげるから、こっちに来てわたしの横に立ってよ」
啓子は言われたとおりにした。
いつの間にか菜月は、こちらの背丈に追いついていた。並んで立つ機会など最近はほとんどなかったから、ここまで身長が伸びていたことにいままで気づかなかった。
「床に線があるよね」
菜月は下を向き、フローリング材の溝を一本、室内サンダルの爪先で指し示してみせた。
「あるね」
「じゃあ、並んだまま体の向きをちょっと変えてみよう。この線に対して斜めになるように立つの。角度にして、だいたい四十五度になるようにね」
自分の言葉に合わせて菜月が体の向きを変える。啓子もそれに倣った。その結果、いま菜月が示したフローリングの溝が作る線からは、啓子の方が離れるかたちになった。
「さてと、いまわたしと母さんが立っているところが舗装されたアスファルトの道路だと仮定するよ」
「うん」
「そして、この線の向こう側がぬかるんだ泥んこの道だとする」
「分かった」
「さて、これから二人はきっちりと並んだまま、この境目を越えて行進していきます。いい? じゃあ、まず一歩分前に進んで」
菜月が左足から踏み出した。それに右足を揃え、完全に線を踏み越える。
啓子も同じようにしたが、線に対して遠い位置に立っていたため、足はまだアスファルトの側に留まっている。
「では、次の一歩を踏み出してみて」
啓子は足を前に出した。今度は線を踏み越える。
「だけど、わたしの方は」菜月は言った。「すでに足がぬかるみに入っているから、ほとんど前に進めない」
菜月は足を前に出したが、それはわずかな歩幅に過ぎず、その場で足踏みをしたのとほとんど変わらなかった。
「さてと、この状態を見て、何か気づいたことは?」
「進路が曲がっちゃうね」
「正解。線に対して四十五度のまま二人並んで進むつもりだったのに、先にぬかるみに入ったわたしがほとんど動けない。反対に母さんは普通の歩幅で線を飛び越えてきた。だからこの状態から二人が肩を並べたまま次の一歩を踏み出すと、どうしても、いままでとは角度が変わってしまうわけだよね。――ありがとう。もう座っていいよ」
「それで、いまの行進が音の話とどうつながるわけ?」
椅子に戻りながら啓子が訊くと、
「えっ、まだ分かんないの」
菜月は意地悪な顔でにやりとした。
「刑事のくせに鈍いなあ」
「ちょっと、親を舐めないでもらえる? 音も同じように、空気の質が違っている境目では曲がってしまう――そう言いたかったんでしょ」
「なんだ、ちゃんと理解してるじゃない」
「だけど、本当にそんなことが起きるの?」
「起きるよ。専門的には“屈折”と呼ばれてる」
光が空気中から水中へ入ったときに、その屈折とやらが起きることなら知っているが、同じような現象が音についても生じるとは思ってもみなかった。
「母さん、音の速さってどれぐらいだか知ってる?」
「たしか秒速三百メートルぐらいだったよね」
「正確には三百三十一・五メートル。だけどそれには、気体の種類が普通の空気で、しかも温度が〇度のとき、っていう条件がついてる」
「じゃあ、空気以外の気体の中だったり、周囲の温度が〇度じゃなければ、速さも変わってくるわけか」
「そう。温度について言うなら、高温の中を進む方が速くて、低温だと遅くなる」
その知識も初耳だ。
「ここまで説明すれば、どうしてさっき電車の音がはっきり聞こえたかが、分かったんじゃない? 冬の夜や早朝って、上空よりも地面の方が冷えてるでしょ。言い換えれば大気に温度差の層ができている。そういう空気の中を、地上で発生した音が斜め上に抜けていこうとしても、さっきの行進みたいに屈折を繰り返して、結局は地面に返ってきてしまう。だから電車の音も、昼間よりはっきり聞こえるってわけ」
ああ。腑に落ちて啓子は軽く天井を仰いだ。
「ありがと。おかげで頭の中がすっきりした」
T大を受験するにあたり、菜月が選んだのは理学部だった。
小学生の時分から将来は新聞記者になることを目指していたから、以前からずっと「大学では社会学部にいくつもり」と言っていた。しかし、高校の新聞部で何度も科学関係の記事を書いているうちに、すっかり理系の学問に魅了されてしまい、結局は志望学部を変更した。
かといって新聞記者の夢を捨てたわけでもなく、サークル活動では「ジャーナリズム研究会」なる団体に所属しているらしい。
「じゃあ、行ってきます」
菜月がキッチンから出ていくと、それを待っていたかのようにガウンのポケットで携帯電話が鳴った。
《朝早くからすみません。殺しが起きました》
後輩の刑事、黒木の声はやや粘ついていた。熟睡中のところを叩き起こされたか、眠気を隠しきれていない。
「どこで?」
《デパートです。バルーン杵坂店》
いましがた菜月と話題にしたばかりの場所か。とんだ奇遇もあったものだ。
「分かった。いますぐ行く」
《現場は地下一階の食品売場です》
嫌な予感がして、思わず啓子は菜月が出ていったばかりのドアを見やった。
「黒木、ちょっと教えて。被害者はどんな人?」
ええと……。手帳を捲る音を挟んでから黒木は答えた。
《売場の女性スタッフだそうです。年齢は三十歳、名前は高島晴海です》