その日の夕方、いったん自宅に戻り、署に泊まり込む準備をした。
再び出ていく前に、菜月をそばに呼んだ。予想したとおり目元が腫れぼったい。だが泣くだけ泣いてすっきりしたのか、表情に曇ったところはなかった。
「バルーン杵坂店でさ、アルバイトを募集していたところがあった」
「……どこの売場?」
「売場じゃない。託児ルーム」
「やだよ。子供の相手なんか。ああいうのは苦手」
「時給千二百円でも? 悪くないでしょ。いずれ車だって手に入るし。そこで六百二十五時間働けばね」
「わたしじゃ無理だって」
それを聞いて啓子は内心で安心した。あの藪中という保育士は、どうも信用できないような気がする。
「ところで菜月。あんた幻聴って体験したことある?」
「幻聴? 空耳だったらあるけど、そういうのはないかな。でもどうして?」
「託児ルームの入り口で風船を拾ったとき、おかしな声を聞いたように感じたのよ」
先ほど体験したことを、かいつまんで菜月に話してやった。
「その声、何て言ってた?」
この問い掛けには、
「よく分からないけど、なんか嫌な感じだった」
そう濁して答えるに留めておいた。
――おまえなんか消えちまえ。
あの一言が聞こえたのは、
――あんたなんか消えて。
晴海が口論相手に言ったという言葉が頭に残っていたために生じた幻聴だと思われる。だが……。
杵坂署に着くと、啓子はまず生活安全課に足を向け、小池の席の前に座った。児童係長を務めている男だ。警察学校の同期で、署内で会えば世間話をするような仲だった。
「『ふわっと』っていう託児ルームがあるよね。バルーン杵坂店の四階に」
「ああ、知ってる」
「じゃあ、そこにいる藪中って保育士のことは?」
「前に一度会ったな」
「忙しいところ悪いけど、あの託児ルームを、ちょっと調べてくれない?」
「なんで」
「その藪中って保育士がね、子供を虐待しているかもしれないから」
「本当かよ」
「虐待とまではいかなくても、子供に暴言を吐いているおそれはある」
「暴言でも虐待に当たるよ。で、その現場を押さえたのか」
啓子は首を横に振った。「そこまではっきりとは」
小池は渋い顔をした。「まあ、啓子ちゃんが言うなら、立ち入り調査をしてみるか。ただし、いまは別件で立て込んでる。やれるとしても一週間ぐらい先だな」
刑事部屋に戻ったとき、携帯に菜月からメールが来ていたことに気づいた。件名は「アルバイト先を決めた」となっている。本文には「ふわっと」――その一言だけが記されていた。
啓子はすぐ菜月の携帯に電話をかけた。
「どうしてよ。さっき子供の相手は嫌だって言ったばかりのくせに」
《気が変わったの。時給千二百円はけっこう魅力的だし》
「やっぱり、あそこはおすすめできないな」
どうしてよ。いまと同じ質問を、今度は菜月が口にする。
――おまえなんか消えちまえ。
幻聴の可能性が高いが、そうでなければ、あれは藪中という保育士が口にした言葉に間違いない。何より声の質が同じだった。足元にまとわりついていた男の子を邪魔に思って、ついそんな言葉が出たのだ。
誰しもストレスから暴言を吐くことがあるだろうが、できればそういう人とは一緒に働いてほしくないのが親としての本音だった。