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 啓子は自家用車でバルーン杵坂店へ向かった。
 地下一階には紺色のジャンパーを着た捜査員がすでに何人か臨場していて、現場の確保にあたっている。いずれも県警本部に所属している機動捜査隊の連中だ。
 杵坂署の刑事課からは、まだ黒木しか来ていないようだった。
 バックヤードの一角に、冷凍食品用の小さな倉庫がある。晴海の遺体はその中に横たわっていた。
 啓子は遺体の前で屈み込み、手を合わせた。
「死亡推定時刻は昨晩の七時前後です」
 背後で黒木が説明する。
「被害者は独身。アパートで一人暮らしですから、帰宅しなくても通報する人がいなかったため、遺体の発見は今日の未明になりました。見回りの警備員が見つけて、すぐに警察へ通報しています」
 晴海は鈍器で頭を殴られているようだった。着衣に乱れはない。
「被害者の私物はロッカーにそっくり残っていますし、売場のレジも荒らされていません」
 犯行の目的は物盗りではない、ということだ。
 晴海は、菜月が保存していたあの写真と同じように青いユニフォームに身を包んでいた。両手には作業用手袋を嵌めている。
 倉庫内には発泡スチロールの箱が二種類、堆く積み上げられていた。一方には冷凍食品が、もう一方にはドライアイスが入っているようだ。
 殺されたとき晴海は、冷凍食品の箱にドライアイスを詰める仕事を、一人でやっていたらしい。
「さっき機捜の人が言っていましたが、凶器はたぶんここにあるドライアイスではないか、ということです」
 ドライアイスの大きさは様々だった。大きなものは煉瓦ほどのサイズで、重さは三キロぐらいありそうだ。これなら十分、凶器になるだろう。どれも一個ずつ専用のカバーに包まれているから素手でも持てる。
 啓子はドライアイスのブロックを一つ手にした。やっかいだな、と思う。もし犯人が凶器のドライアイスをこの冷凍室の外へ、つまり常温下へ持ち出したとしたら、いまごろはとっくに気化し、二酸化炭素ガスになって消滅していることだろう。それを包んでいたカバーも、切り刻んで焼却するなどしてしまえば跡形すら残らない。
「それから」黒木も啓子の隣でしゃがみ込んだ。「ちょうど午後七時ごろ、倉庫の前を通りがかった店のスタッフがいて、扉越しに口論する声を聞いています」
「どんな声?」
「『あんたなんか消えて』だそうです」
「それは被害者が口にした言葉ね」
「ええ。それに応じた別の怒鳴り声もあって、そっちは男のものだったといいます」
 すると、口論の相手であるその男が犯人だと見て間違いなさそうだ。
 横たわった晴海の顔は苦悶に歪んでいるが、その端には強い怒りの色も滲んでいるようだ。死ぬ直前にしていた口論の激しさが、この表情から窺えるような気がした。
「羽角主任。ひょっとして被害者とお知り合いですか」
 黒木にそう言われて、啓子は自分がいまだに合掌したままだったことに気づいた。
「ええ。ただし、わたしじゃなくて娘がね」
「菜月ちゃんがですか。もしかして、この売場でアルバイトをしたことがあるとか?」
「そう。あの子にとっては『もう一人のお母さんみたいな人』だったのよ」
 そこまで“いい人”が激怒するような相手とは、どんな男なのか……。
 それにしても、菜月の受けるだろうショックを思うとやるせない。テレビやネットでニュースが流れる前に、この悲報をそっと知らせてやった方がいいだろうか。
 ややあって、杵坂署から刑事課長以下の捜査員が到着した。
 特例でデパートの会議室を借り、そこで臨時の会議を開き、捜査員各自の担当を割り振った。
 啓子は黒木と一緒にデパート四階の聞き込みを任された。
 バルーン杵坂店四階で扱っているのは、主にスポーツ用品と紳士服、そして子供服だった。また、フロアの一角に託児ルームも設けてあるようだ。
 すでに正午を過ぎている。黒木が買ってきたコンビニのおにぎりを一つ口にしてから、受け持ちのフロアに向かった。
 子供服売場でベテランと思われる店員を一人捕まえ、警察手帳を提示する。
「ああ、地下一階で起きたアレですよね。本当に驚きました」
 もう事件について知っているようだ。それなら話は早い。
「では高島晴海さんという人はご存じですか」
「ええ。このフロアで何度か見かけたことがあります」
 四階と地下一階ではだいぶ離れている。スタッフ同士の交流はないだろうと思っていたから、この返事はやや意外だった。
 それにしても地下一階で勤務している晴海が、この売場にどんな用事があったのだろう。
 その疑問は、続く店員の説明ですぐに解けた。
「高島さんはここに来る前、保育園で働いていたんです。保育士の資格を持っているんですよ。そこで手の空いた時間に、『ふわっと』で手伝いをしていたようなんです」
「『ふわっと』……というのは?」
「このフロアにある託児ルームの愛称です」
 元保育士か。そういう経歴の持ち主だからこそ、菜月は晴海を「もう一人のお母さん」と感じたのかもしれない。
 礼を言って売場を離れた。
 ならば、まず託児ルームから聞き込みを始めるべきだろう。
 フロアの案内図を見たところ、目指す場所は売場から離れた片隅にあるようだ。昼寝をする子もいるため、できるだけ静かな場所に設置したということか。
 黒木が手洗いに寄るというので、啓子は先に一人で託児ルームへ足を向けた。
 通路を進みながら携帯電話を取り出し、菜月にかけてみる。応答はすぐにあった。
「授業はもう終わったの?」
《うん、いま帰り道で、これからスーパーに寄ろうとしてたところ。――ちょうどよかった。母さん、今晩のおかずどうする。何食べたい?》
「要らない。いったん帰宅するけど、泊まり込みの準備をしたら、すぐまた出ていくから」
《泊まり込み? ってことは殺人が起きたんだ……》
「ええ。その関係で、あんたに教えておきたいことがあってね」
 ためらいが生じる前に、一気に言ってしまうことにした。
「菜月にとってはとても辛い知らせだよ。殺されたのは高島晴海さん」
「うそ……」
 短い呟きを残したまま、受話器の向こう側は黙り込んだ。伝わってくるのは、背後の雑踏の気配だけだ。
 ――じゃあ、もう切るね。
 そう口にする直前だった。
『ふわっと』のドアが開いた。託児ルームの利用を終えたらしき一組の母娘が出ていく。
 そしてドアが閉まる前に、室内からフロアへ転がり出てきたものがあった。直径が五十センチほどもある青い色の球体――風船だ。
 啓子は左手に携帯電話を持ったまま、その風船を拾い上げた。
 手にした瞬間、ふと誰かの声を聞いた。間近ではっきりと。
 ――おまえなんか消えちまえ。
 気のせいでなければ、かすかにだが、そう聞こえた。男の声で。
 だがおかしい。声はすぐ近くで聞こえたのに、そばには誰もいないのだ。つまり風船が喋ったとしか思えなかった。
 混乱したまま風船を持ち、啓子は携帯をふたたび耳に当てた。
「じゃあ、もう切るね」
《うん。ありがとう。知らせてくれて》
 消え入りそうな口調だったが、声には芯のようなものが感じられた。いま菜月の胸中では、悲しみよりも怒りの感情が勝っているらしい。
 携帯をハンドバッグにしまってから、啓子は青い風船を改めて見つめた。
 このゴムの球体が……喋った?
 ありえないことだが、いまこれを拾い上げようとした一瞬を振り返ると、どうしてもそう感じられてならないのだ。
 ――馬鹿な。
 頭を軽く振ってから、啓子は託児ルームの中に入った。
 かなり広い部屋だった。
 室内の中央には、十メートル四方ほどもありそうな厚手のカーペットが敷かれている。その上に幼児用の滑り台や乗り物が置いてあるが、何より目立つのは風船だ。サイズも色も異なるゴムの球体が何十個も床の上をふわふわと漂っている。
 奥の壁際を見やると、そこにはエプロンをつけた男性が立っていた。たぶん保育士だろう。歳は三十前後か。純朴そうだが、どこか幼い感じがする。
 彼もまた直径五十センチぐらいの青い風船を抱えていた。そばには女の子が一人いて、その子と風船で遊んでいたようだ。
「こんにちは。もしかして、バイトに応募される方ですか」
 保育士と見える男は、その場に立ったまま、そんなことを話しかけてきた。
「いいえ。違います。実はちょっとお話を伺いたくて」
 啓子が警察手帳を出すと、相手は大仰な仕草で頭に手をやった。
「これは失礼しました。とんだ勘違いをしてしまって」
 彼の近くにいたのは女の子だけではなかった。足元に、二歳ぐらいの男の子がまとわりついている。男はやや荒っぽい手つきで男児を引き離してから、こちらへ近づいてきた。
 彼は胸にネームプレートをつけていた。【やぶなかはると】。そう平仮名で大きく書いてあり、下の方に小さく漢字で【保育士・藪中陽翔】と添えてあった。
「ここの保育士は、あなたお一人ですか」
「ええ、いまは。ほかに女性の保育士がいますが、現在、産休中なんです。ですから、ここのところは、ぼくだけでやっています」
「失礼ですが、人手が少なすぎません?」
「たしかにそうですが」
 藪中は天井を指差した。四隅に監視カメラが設置してある。
「このとおり、子供を遊ばせておくスペースについては監視の態勢はしっかりしていますから問題ありません。ただ、さすがにトイレにも行けないことがありますので、補助スタッフを探している最中です」
 そう言いながら藪中は、天井に向けていた指先の向きを一方の壁へと移した。そこには【アルバイト募集】と題された貼り紙がしてある。

 業務内容:保育士の補助(資格は不要)
 募集人員:若干名 週に2日以上働ける人 大学生可
 時給:1200円

「実は」その貼り紙を見ながら啓子は言った。「いま大学二年生の娘がいるんですけど、このデパートでアルバイト先を探しているんです」
「本当ですか。刑事さんのお子さんなら、きっとしっかりした学生さんでしょうね。ぜひ応募してもらえると嬉しいな」
 ここで藪中は名刺を出してきた。啓子もそれに倣ってから、改めて周囲を見渡した。
「風船がたくさんあって楽しそうですね。でも急に破裂したりしたら、幼い子には危ないんじゃありませんか」
「割れにくいゴムでできていますので、針で突かないかぎり、その心配はありません。それに頻繁に交換していますし。ただ、膨らませるのは大変ですね。電動ボンベでもあればいいんですが、予算がないので、しかたなくハンドポンプで一つずつ膨らませています」
「なるほど。――ところで地下一階で事件が起きたことはご存じですか」
「ええ。今朝出てきたとき、紳士服売場の人から聞いて驚きました」
「なんでも、亡くなった高島さんは、ときどきこの託児ルームに来ていたとか」
「そうなんです。こちらから頼んだわけでもないんですが、利用者が多いとき、高島さんはご自分の手が空いていると、よく手伝いにきてくれましたね。とても感謝しています」
「失礼ですが、あなたは昨夕も勤務していましたか」
「はい。保育日誌を整理するため、午後八時ぐらいまでいました。ずっとここから離れませんでしたよ。もっとも」
 笑ったつもりか、藪中は妙な形に口元を歪めた。
「一人シフトなので、アリバイを証言してくれる同僚はいませんけどね」