最初から読む

 

 だってね、と星さんは腕組みをして続けた。僕の返答は最初はなから期待していないようだった。
「仮に染野が嘘をついていないとして──朝礼みたいに長いあいだ立ってなきゃいけない場で起こるのって、脳貧血でしょ。その場にしゃがみ込んだり、頭より足を高くして寝転んだりすればよくなるのに、どうして対処しないの? まさかそれくらいの知識がないとは思えないし」
「周りに見られるのが嫌だったから。それで外に出てきたんだ」
「だとしても、保健室に行けばいいよね。そしたらカーテンを閉めてベッドに寝転べる。一人の空間で、他の生徒に見られることなく休めるよ」
「……実は、養護の先生が苦手でさ」
「嘘。染野は入学以来、一回も保健室に来たことなんてない」
 星さんが保健室の常連であることを迂闊うかつにも忘れ、墓穴を掘ってしまう。
 それにしても意外だった。無口な印象だった星さんが、実は口を開くとこれほど多弁で、威圧的といえなくもない態度を取るなんて。
「分かってたんでしょ。身体はどこも悪くないんだって。精神的なものだから、意識の矛先を変えて症状を和らげるしかないもんね。深く息を吸うとか、発作が起きた場所から離れるとかして」
「決めつけられても困るよ。本当にただの貧血だし、全然大したことないから、気にしな──」
「それに」と、僕の言葉が聞こえなかったかのように、星さんが続ける。「確かさっきは、校長が受験についてプレッシャーをかけるようなことを言ってたよね。それが引き金になったんじゃない?」
 違うよ、と否定しようとして、考え込んでしまった。指摘されるまで気づかなかったけれど、星さんの言うとおりなのかもしれない。あの急激な体調不良が起きるタイミングは、教室で大勢の視線を浴びたときや、学校の朝礼や満員電車といった人が密集する場に身を置いているときなど、周りの環境に左右されるのだと思っていた。でも、“そこはかとなく不安を感じる状況”という意味では、どちらも同じだ。
 視線。人混み。閉鎖空間。校長による他意のない激励。さまざまな要素が複雑に混じり合い、僕の心身を攻撃してくる。
「前回だってそうだったよね」
「……前回?」
「おとといだったかな、染野が朝のホームルーム中に発作を起こして、トイレに逃げ込んだとき。あれさ、中間テストの個人結果表が配られた直後だったよね。やけに青くなってたけど、何をそんなに恐れてたの? 推薦狙いでもなければ、いくら学校の成績が悪くたって、普通そんなにショックを受けないと思うんだけど──」
 星さんは含みを持たせた口調で言い、僕の顔を至近距離から覗き込んできた。思わず身を引き、抗議の目を向ける。
 しかし星さんは素知らぬ顔で、僕の右手の甲を指差した。
「ところで、その傷」
 彼女の視線の先にあるものに気づき、反射的に左手で隠す。重ね合わされた僕の両手をたっぷり数秒間見つめてから、星さんは再びゆっくりとこちらを見上げた。
「このあいだ廊下で話したときにはなかったよね。どうしたの?」
「……ドアに挟んじゃってさ」
「ふうん、ドアかぁ」星さんが目を細める。「ずいぶんと断面が薄くて鋭利なドアなんだね、そんな一直線に切れるなんて。それに、だいぶ勢いよく閉めたんじゃない? 染野って、もっと慎重なタイプだと思ってたけど」
「星さんは、別に、僕のことをよく知らないだろ」
「誰かにやられたんでしょ?」
 隠し事をしている僕を責めるわけでも、反対に同情を寄せるわけでもない、ごく淡々とした口調で、星さんが言った。
「ドア、だってば」
「だったらなんで傷を隠したの?」
「怪我した理由を言うのが恥ずかしかったからだよ。それだけ」
「おとといもだったよね」
「……え?」
「自覚ないの? じゃあ、癖になってるんだ」
「だから、何のこと?」
 むっとして問いかけると、星さんは僕を凝視してきた。気まずくなって視線を逸らそうとしたとき、彼女がじっと見つめているのは僕の目ではなく額であることに気づく。
「私が発作について探りを入れたときにさ、変な仕草をしてたよね。前髪を手で触って整えたり、シャツの袖を引っ張って直したり──まるで何かを隠そうとしてるみたいだった。おでこや腕にも傷があるんじゃないかと思ったんだけど、違う?」
「ないよ」即答する。
「じゃあ見せられる?」
「……嫌だよ、わざわざそんな。星さんに見せる義理もないし」
 とっさに前髪を触ろうとして、手を引っ込めた。癖になっているという彼女の指摘は、どうやら図星のようだった。
 嘘はついていない。額や腕に傷などないからだ。──古傷、という言い方をすると、途端に自信がなくなるけれど。
 星さんは「まあ、いいけど」と思案げにうつむき、またすぐに顔を上げた。ようやく諦めてくれるのかと思ったら、そうではないようだった。
「他にも心当たりはあるの。二週間くらい前の体育の後だったかな、内藤が染野に話しかけてるのを聞いたよ。『お前、首んとこ赤くなってるぞ、火傷か?』って。そのとき染野は、『ただの虫刺されだよ』って答えて、急いでシャツの襟を直してた」
「その会話のどこがおかしいの?」
「普通、首元の肌が赤く腫れているのを見て、いきなり火傷を疑うかな? 虫刺されか、汗疹あせもか、じんましんか──もっとよくありそうな原因がたくさんあるのにさ。ぱっと見て火傷としか思えなかったから、内藤はそう尋ねたんじゃない?」
「内藤は僕の説明に納得してくれたみたいだったけど」
「それ以上確認しようがなかっただけでしょ、染野が肝心の傷をさっさと隠しちゃったから。別にもともと、お互いの事情にあえて踏み込むような仲でもないだろうし」
 星さんに一蹴され、反論の言葉が思いつかずに黙り込む。僕が学校で誰とも深い関係を築いていないことは、どうやらお見通しのようだった。
「本当はドアに手を挟んだ事故でもないし、虫刺されでもないんでしょ? 誰かが染野のことを、意図的に傷つけてる」
「そんなことはないよ」──意図的にだなんて、まさか。
「でも染野が学校でいじめを受けてる様子はない。私が知らないだけって可能性もあるけど、もしそうだとしても、テストの結果表や校長の話のせいで発作が引き起こされたことの説明がつかない」
 ということは、と星さんは一呼吸おいてから続けた。
「親でしょ」
「……だったら何?」
 詰問されるのに疲れ果て、半ば開き直る。すると星さんは胸の前で組んでいた腕を解き、そばの壁にもたれかかった。
「染野さ、気づいてないのかもしれないけど──それを『虐待』っていうんだよ」
 彼女の桜色の唇から飛び出した言葉に、耳を疑った。
 ──虐待?
 過去に見聞きしたことのあるニュースが頭に思い浮かぶ。シングルマザーが男の家に泊まり込んで二週間近く家を空け、幼児を餓死させる。血の繋がらない父親が、まだ首も据わらない乳児を床に投げ落とし、脳に障害を負わせる。母親が不倫相手と会う際に幼い子ども二人を夜通し車に置き去りにし、熱中症で死なせる。
 自分の欲望や衝動を優先して子どもを振り回し、痛めつけ、成長しようとする芽を躊躇なく踏みつぶす、あまりに未熟な親たち──。
「何言ってるんだ。うちは違うよ。むしろ正反対だ」
「……そんなに腹を探られたくない?」
「痛くもない腹を探られて、心外だよ」
 肩を怒らせ、その場を離れようとする。体育館の中からは、校長の間延びした声がまだ聞こえていた。
 星さんはなぜ、僕の個人的な領域にずかずかと土足で踏み入ってこようとするのだろう。面と向かって話をするのも、おとといが初めてだったというのに。
「分かるよ」
 背後からふわりと飛んできた声に、僕は思わず足を止め、「は?」と振り返った。
「身体の傷も、心の傷も、隠すのが癖になるんだよね。なんとなく、他人に知られちゃいけない気がして」
 星さんは、壁に寄りかかって空を見上げていた。太陽光を受けた肌が、教室にいるときよりもいっそう白く見える。
 彼女はゆっくりとこちらに視線を向け、わずかに口元を緩めた。
「染野って、同じ匂いがするんだよね」
「……同じ?」
「私もそうだから」
 しばらくの間、僕は星さんと見つめ合っていた。

 

星さんの家庭環境とは一体──。
このあとに続く星さんの衝撃的告白は、本書でお楽しみください。