学習机の前に座り、数学の問題集を開く。部屋は蒸し暑いけれど、七月にもならないうちからエアコンを使い始めたら、父には根性が足りないとなじられ、母には電気代が上がると目くじらを立てられるだろう。せめて夏休みが始まるまでは辛抱するしかなかった。
昨日の続きから再開しようとシャーペンを握ったとき、右手の甲に突っ張るような痛みを覚えた。見ると、横一文字の赤い傷ができていて、血がにじんでいる。先ほど母が投げつけてきたフライ返しの角が当たって、皮膚が切れてしまっていたようだった。
これは目立つし、数日は治りそうにないな、とため息がこぼれそうになる。
でも、仕方ない。
両親からの期待に、まったく応えられなかったのだから。
そう自分に言い聞かせ、重苦しい気分を振り払って勉強を始めた。
時計を気にしつつ、苦手としている漸化式の問題に取り組んでいる最中、ふと、隣の部屋から足音がするのに気がついた。
よかった、と思わず笑みが漏れる。──今日はきちんとベッドから出て、元気に過ごしているみたいだ。
頑張れ、お姉ちゃん。
しばし目をつむり、かつての姉の姿を思い出す。僕が深夜まで“特訓”を強いられて机の前で泣きべそをかいているとき、中学受験の難しい応用問題を分かりやすく手ほどきしてくれた賢い姉。それなのに僕が志望校に軒並み落ち、両親に冷たく突き放された合格発表の日の夜、代わりに自分がこっそり小学校の卒業式を見にいこうかと遠慮がちに申し出てくれた優しい姉。第一志望校だった難関中学の制服を着たお姉ちゃんが来たらもっと情けなくなるからと断ると、一瞬きょとんとしたのち、あ、そっか、と恥ずかしそうに苦笑していた無邪気な姉。
高志くんって、あの染野奈保ちゃんの弟なんでしょ。
そういった言葉に僕が毎度感じていたのは、二割がプレッシャー、八割が誇りだった。両親や周りにどんなに比較され、「できないほう」の不名誉な烙印を押されても、姉自身への尊敬が失われることはなかった──お姉ちゃんだから。そのぶん姉は、いつも思いやりをもって僕に接し、お菓子を半分にすると大きなほうを譲ってくれたり、両親の虫の居所が悪いときに進んで矢面に立ってくれたりした──お姉ちゃんだから。
そんな優秀だった姉を、二年前、大学受験という名の魔物が呑み込んだ。
その魔物に、僕もこれからまさに挑もうとしているのだと思うと、心の真ん中を貫いている糸が、今にも切れそうなくらいに、ぴんと張り詰める。
天井付近の窓から朝の光が差し込む体育館に、滑舌がいいとは形容しがたい校長の声が、マイク越しにまだるく響き渡っている。
『あと一か月もすれば夏休み。三年生の皆さん、勝負の夏ですよ。この四十日間をどう過ごすかで、三月に泣くか笑うかが決まってくるわけです。一日の勉強時間は十時間、計四百時間を目標に。一年生と二年生の皆さんも、他人事だと思ってはいけませんよ。受験は日々の積み重ね。継続は力なり、という言葉がありますが──』
まただ。
ありとあらゆる負の感情が、怒濤の勢いで身体の奥底からせり上がってくる。
急激に気分が悪くなり、思わず胸を押さえた。
視界が揺れる。息が苦しくなる。首筋を冷や汗が伝う。頭の内側が刺すように痛い。長距離走を終えた直後のように、心臓が早鐘を打ち続けている。
その場で耐えようとしたけれど、一分も経たないうちに限界を迎え、僕は壁際に立っている担任に断って列を抜け出した。三年生になってからというもの、月に一度の全校朝礼のたびに途中でトイレに立っているため、担任にはさぞ胃腸の弱い生徒だと思われていることだろう。
当初は校舎一階の男子トイレに向かうつもりだったものの、体育館を出てすぐに気が変わった。先月使った際、朝礼をサボっている生徒のグループがトイレ内にたむろしていたことを思い出したのだ。
今はとにかく、一人になりたい。
代わりの場所を求めて、僕はとっさに体育館裏へと駆け込んだ。
壁伝いに速足で歩き、奥へ奥へと進む。幸い、どこにも人影はなかった。柱の陰で立ち止まって空を見上げ、何度か意識的に深呼吸をすると、症状は自然と収まっていった。めまいや吐き気が消え、頭痛が軽くなり、胸を突き破らんばかりに膨張していた正体不明の不安が、体内のどこかにまた影を潜めていく。
この症状とは、いったいいつまで付き合い続ければいいのだろうか。果たして治る見込みはあるのだろうか。こんな状態で、プレッシャーのかかる受験を乗り切れるだろうか。両親にバレたら、何と言われるか分からない。
快晴の空を眺めながら、そんなことを真剣に考えていたせいで、近づいてくる足音に直前まで気がつかなかった。
「染野」
振り返ろうとした瞬間に苗字を呼ばれ、闖入者の正体を知る。
星さんだった。僕は驚いて、はっとするほど端整で無表情な彼女の顔を見つめ返した。
「どうして……ここに?」
「染野のことが気になったから」嘘か本当か分からない口調で、彼女は平然と言った。「いつもは保健室にいるんだけどね。朝礼なんて、出ても居心地が悪いだけだし、卒業に必要な単位がもらえるわけでもないし」
改めて観察してみると、星さんは通学鞄を肩に下げていなかった。履いているのは上履きで、手には体育館シューズの入った青い袋を持っている。珍しく朝礼に参加していたというのは本当らしい。でも──僕のことが気になったから? どういうことだ。
「見てたよ。やっぱり調子が悪そうだね。人が集まるところは苦手?」
「いや、だからこれは──」
「貧血、って嘘は通用しないよ。パニック発作でしょ、それ」
──パニック発作?
思いもよらない指摘に、言葉が出なくなる。