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 女子トイレとの間の壁にもたれかかり、長い黒髪の先を気だるげに指に巻きつけている、華奢で小柄な女子生徒。茶色の通学鞄を肩に下げていて、もう片方の手には図書室のシールが貼られた文庫本を携えている。
 色白の頬がぴくりと動き、次いで大きな黒い瞳がこちらへと向いた。校則で禁じられているため化粧はしていないはずなのに、睫毛まつげはふんわりと長く、唇は理想的な赤みを帯びている。教室で何度も目にしたことがあるにもかかわらず、あまりにも可憐に整いすぎているその顔の造形に、一瞬たじろいだ。
「ええと……ほしさん?」
 一年生のときから三年連続で同じクラスだけれど、名前を呼んだのは初めてだった。星愛璃嘉えりか、という彼女のフルネームを思い出す。クラス全員の氏名を一覧にしたとき、多すぎる画数のせいでいつも一人だけ浮き上がって見える彼女は、現実にもひときわ浮いた存在だった。
 人形のような可愛らしさ。それでいて表情の乏しい顔。最低限の出席時数のみ満たせればいいと考えているのか、入学時から無断欠席や遅刻・早退を繰り返しているため、彼女が一日中教室にいることはめったにない。保健室登校をしているという噂もある。教室に来るときは、後方のドアからすっと現れ、誰とも言葉を交わさないまま、休み時間の雑踏に紛れていつの間にか姿を消す。ぱっと目を引く外見をしているから、星さんがいる日はみんなそわそわと彼女を気にするけれど、本人はどこ吹く風で、持参した文庫本を自分の机で黙って読んでいる。
 名前を呼ぶどころか、こうして至近距離で顔を合わせるのだって、当然のことながら初めてだった。クラスで埋もれている僕と、浮いている星さん。一見して似たような立場でありながら、彼女は僕にとって、教室内で最も遠い人間のような気がしていた。どこか別の世界の匂いがする、というのだろうか。
 だからこそ、そんな彼女の口から飛び出した言葉に、目を見張った。
「染野さ、大丈夫?」
「……え?」
「大丈夫かって、いてるんだけど」
 外界に興味のなさそうな星さんが、僕の苗字を平然と呼んだことに驚く。内藤くらいの存在感があればいやおうでも名前を覚えるだろうけれど、僕はクラスで最も影が薄い部類の人間だ。ともすれば認識すらされていないのではないかと思っていた。
 突然の問いに戸惑っていると、星さんは僕が出てきたばかりの男子トイレのドアに目をやり、また僕をまっすぐに見上げた。天井の蛍光灯の光が、つややかな黒髪に天使の輪を描いている。人気ひとけのないしんとした廊下では、彼女のまとう異色のオーラがひときわ大きく感じられるからだろうか、そこで初めて彼女との身長差を自覚した。一六六センチの僕、おそらく一五〇センチそこそこの星さん。
 彼女の何か言いたげな視線の意味を察し、息を呑む。
 教室での僕の体調の異変を見抜いたというのだろうか。よりによって、星さんが? トイレの前に退屈そうにたたずんでいたのは、なかなか出てこない僕を待っていたから?
 そもそも僕のほうはといえば、学年順位のことで頭がいっぱいになっていたせいか、星さんが珍しく朝から教室に来ていたことも今の今まで忘れていた。そういえば、後ろの席の女子生徒たちが声を潜めて噂していた気がする。そして今、彼女が通学鞄を持って廊下にいるということは、中間テストの個人結果表を受け取るという用を済ませ、はやくも早退するところなのだ。もしくは、これから保健室に行くのかもしれない。
 いずれにせよ、他人との交流を好まない星さんが、なぜ僕を追うように教室を出て、自ら声をかけてきたのかは、謎のままだった。
「ああ……ごめん、ちょっと貧血で、気分が悪くなっ──」
「──そうかな」
 星さんがゆっくりと瞬きをした。その見透かすような目に、途端に居心地が悪くなり、反射的にひたいに手をやる。前髪を乱暴に手櫛てぐしで梳き、ブレザーから覗く白いシャツの袖を強く引っ張って整えると、ようやく気持ちが落ち着いた。
「そうだよ。でももう治ったから大丈夫。心配してくれてありがとう。じゃ、教室に戻るね」
 早口でまくしたて、その場を後にした。自然と逃げるような歩調になる。J組の教室の前まで来て、恐る恐る振り返ってみると、星さんの姿はもうなかった。トイレのそばにある階段を下りていったのだろう。
 何だったんだ、今の。
 まだ動揺が胸に残っていた。今度こそ誰もいなくなった廊下を呆然と眺めていると、手に握ったままだったスマートフォンが短く震えた。
 新着通知を見る。心当たりのないメールアドレスが表示されている。
 またか、と嫌な予感がした。
 読まないほうがいいと分かっているのに、怖いもの見たさで通知をタップしてしまう。指紋センサーに親指の腹を当てると、匿名の差出人からの新着メールが開いた。
 内容に目を通す。一行ずつ読み進めるごとに、胸糞むなくそが悪くなり、体調不良中に感じたのとは別種の不安が脳をむしばみ始めた。貧血という説明が嘘とは言い切れなくなりそうなほど、顔から血の気が引いているのが分かった。
 朝からこの調子では、先が思いやられる。
 ズボンのポケットにスマートフォンを押し込み、J組の教室の前で耳を澄ました。こんな簡単な文法事項、今さら説明するまでもないと思いますが──などと受験生にプレッシャーをかけるようなことを言いつつ、時制の一致について解説している英語教師の声が聞こえてくる。
 僕はできるだけ身を小さくし、後方のドアからそっと、教室という名の日常へと滑り込んだ。

 差し込んだ鍵を回し、家に入る。
 後ろ手でドアのロックをかけると、カチリという無機質な音が、白で統一された玄関に響いた。一日の平和な半分が終わり、窮屈なケージに自分自身を監禁する音。
 専業主婦家庭でありながら、家の鍵を自分で開けて入るのは、小学生の頃からの習慣だった。家事で忙しい母の手を煩わせないようにするためだ。一度か二度、鍵を持って出るのを忘れてやむなくインターホンを押したときは、だらしがない、自己管理がなっていないと、厳しい口調で叱責された。以来、外出時には細心の注意を払っている。
 ローファーを三和土たたきの端にそろえて脱ぎ、ただいま、と家の奥に向かって声をかけた。相手が料理や皿洗いをしていても聞き逃すことがない程度に大きく、また外に漏れ聞こえない程度に小さい、適切な声量で。その際、玄関のドアは完全に閉じていなくてはならない。
 おかえり、の声が返ってくることはない。
 その代わりに、キッチンの方面から物音がする。
 玄関のすぐそばには、二階へと続く階段があった。ただし、リビングに顔を出さずに自室に向かうわけにはいかない。今日のように、母が首を長くして待っている配布物が通学鞄に入っている日は、この帰宅直後の時間が特に憂鬱だった。
 リビングのドアを開けると、カウンターキッチンの向こうに、こちらに背を向けている母の姿が見えた。昔、父が出張先のフランスで買ってきたという派手な白いレースのエプロンを身につけ、食器棚の整理をしている。
 数秒経って、母がようやくこちらを振り返った。家の中でも口紅を塗り忘れることのない赤い唇を、素早く動かす。
「今日だったわよね。見せて」
 顔を合わせるなり、こちらに手を差し出してくる。そう要求されることは分かり切っていたから、すぐに取り出せるよう、例の個人結果表は鞄の外ポケットに入れてあった。
 細長い紙きれを手渡す。みるみるうちに、母の両目が吊り上がった。
「──これ、何?」
「今回の……中間テストの結果」
「見れば分かるわよ。順位、下がってるじゃない。なんで?」
 すぐには答えられなかった。反省すべき点は山ほどある。数学の見直しが甘かったこと。古文の文法問題の演習が足りなかったこと。英語の発音問題の配点を見誤ったこと。要するに──。
「努力が、足りなかったから……」
「はあ?」
 呆れと侮蔑の入り混じった低い声色に、僕は身をすくめた。
 次の瞬間、母が調理台に勢いよく平手を叩きつけた。隅に置いてあったコーヒーカップがシンクへと転がり落ち、派手な音を立てる。
「たるんでるんじゃないの? よりによって、この大事な時期に! あんたは元がバカなんだから人一倍勉強しろって、いつも口酸っぱく言ってるでしょ? 親の言うことをちゃんと聞かないからこんなことになるのよ。三年生になって最初のテストだっていうのに、冗談じゃないわよ!」
 激昂した母が、調理台の上にあった金属製のフライ返しをひっつかみ、渾身の力で投げてきた。顔をかばった右手に衝撃があり、鋭い痛みが走る。跳ね返ったフライ返しが白いタイル張りの床に落ちて、耳障りな音を立てた。
 母が息を荒くしながら、シンクを覗き込む。
「あーあ……割れちゃったじゃない。家事の合間に休憩するときにいつも使ってた、お気に入りのカップだったのに。あとで片付けておいてよね」
「うん」
「ったく……こんな成績取って、お父さんが何と言うか」
 結果表の用紙についたしわを丁寧に伸ばしながら、母がキッチンを回り込み、ダイニングテーブルへと移動する。深いため息をつきながら椅子に腰かけた母は、恨みがましい目でこちらを見上げてきた。