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 母の懸念ももっともだ。来週出張から帰ってくる予定の父が疲れた頭でこの結果表に目を通すことになると思うと、暗澹あんたんたる気持ちになる。
「ああもう、あんたみたいな子を持つと頭が痛いわ。世の優等生たちのお母様方が羨ましい。こうして毎日尻を叩かなくても、親戚中に自慢できるような成績を取ってきてくれるんでしょうからね」
「ごめん……」
「あんたってほんと、詰めが甘いわよね。この時期に余裕ぶってていいのはね、受験勉強をこれっぽっちもしなくても東大に行けるような天才だけよ。あんたみたいなバカが真似しちゃダメ」
 分かっている。僕のような凡人は努力あるのみ。正論だ。だから耳が痛い。
「何なの、その顔は」
 真摯に反省していたつもりだったのだけれど、母の目にはそうは映らなかったようだった。
「学校のテストは受験と関係ない、なんて言い出さないわよね? 考えてもみてよ。東大にぽんと合格するような人は大抵、定期テストでも楽々トップを取り続けるものでしょ。そんな言い訳はね、負け犬の遠吠えなのよ」
 今日のホームルームで、しくも担任が似たようなことを言っていた。まさにそのとおりだ。ぐうの音も出ない。
 母の説教に納得すればこそ、何も言い返さなかった。しかし、その態度がまた母の怒りを煽ったようだった。沈黙は金、雄弁は銀などという海外のことわざがあるけれど、どちらが金でどちらが銀かは、この家において、そのときの両親の気分により簡単にひっくり返る。
「いい加減、危機感を持ちなさいよ。失敗ばかりで私たちにさんざ迷惑かけてきた高志たかしが親孝行できる最後のチャンス、それが大学受験なんだから。ここで挽回ばんかいしないと欠陥品に逆戻りよ」
「……うん」
「お母さんもね、本当はこんなに怒りたくないの。何も言わなくても高志が自分で勉強して成績を上げてくれたら、どんなに幸せか。でもね、こんなテスト結果を見せられたら、親としてきちんと叱らざるをえないでしょう? 今お母さんがどんなに心を痛めているか、高志には分かるかしら」
「……ありがとう。いつも気にかけてくれて」
 中学受験に失敗した小学六年の冬が、頭をよぎる。他の親に合わせる顔がないからと、両親がそろって卒業式への参加を見送った、あのみじめな日々には二度と戻りたくない。
 息子への思いを語るうちに、母の怒りは次第に落ち着いてきたようだった。まだ不機嫌そうではあるものの、表情が幾分和らぎ、声に冷静さが戻ってくる。
「さて。これからどうするつもり?」
「死ぬ気で勉強して……次の期末テストでは、こんなことにならないようにする」
「あとは?」
「……勉強に集中したいから、今日の夕飯は抜き、で」
「当然よ。食事の時間はもちろん、寝る間も惜しんでやりなさい。ああそうそう、この割れたカップ、やっぱり片付けておいてあげるわ」
「……いいの?」
「つくづく恵まれてるわよね、うちの子たちって。家のことをなんにもやらずに、受験勉強に専念させてもらえるんだから。お母さんはね、あなたの将来のために、毎日毎日、全身全霊を注いでるのよ。感謝してよね」
「してるよ」
 そう答えると、母は満足げに唇の端を持ち上げた。じゃ、これは預かっておくから、と母が結果表の紙を引き寄せたのを合図に、僕もズボンのポケットから取り出したスマートフォンをダイニングテーブルに置き、きびすを返して二階の“勉強部屋”へと向かおうとする。
「そうだ、高志」
「……ん?」
「あんたの机の引き出しにしまってあった紙、捨てておいたから」
「紙──」心当たりがなく、首をかしげる。「──何のこと?」
「夏休み中の体育祭準備について、とかいうお知らせの紙よ。どうせ、高校生の本分は青春、だとかバカなことを言ってる劣等生たちが作ったんでしょう。受験前の勝負の夏に、たかが学校行事のために登校を呼びかけるなんて、何考えてるのかしら。それを許可する教師も教師よ。部活だって絶対に入らせなかったのに、ましてや体育祭だなんて、そんな時間があるわけないじゃないの」
 一方的に憤りをぶつけられ、ようやく思い出した。母が見たのはおそらく、計算用紙として使おうとしていた裏紙のうちの一枚だ。受験勉強が本格化してからノートの減りが速くなり、家計を管理している母に何度も文句を言われたため、なるべく不要な紙を溜めておいて再利用するようにしていたのだけれど、それが裏目に出たようだった。
 最近は勉強に関係のない配布物を不用意に持ち帰らないように気をつけているから、たぶん、去年か一昨年のものだろう。弁解しようかどうか迷ったものの、母の勘違いを指摘するのは得策ではないと判断し、黙っていることにした。
「高校生の本分は勉強に決まってるでしょ。高志が生まれてから十七年間、こんなに学費や生活費や手間をかけてきたのに、この正念場の時期を青春なんかに費やされたら、私たちの努力が台無しだわ。あなたはそんな親不孝をする子じゃないって、お母さん、信じてるからね」
 最後だけ、母の口調が甘く、優しくなる。不機嫌な声を浴び続けてひどく痛んでいた頭が、心地よく痺れ、ふっと軽くなった。「言っとくけど、全部期待の裏返しなんだからね」という母の念を押すような台詞に、ゆっくりと頷く。
「ほら、さっさと行って。ちゃんとスケジュールどおりにやってるか、あとで見にいくから」
 追い払われるようにして、部屋を後にした。リビングは涼しかったけれど、廊下にはむんとした熱気が立ち込めている。六月ももう下旬だから、たぶん梅雨入りしているのだろう。
 自室に入って、ドアを閉めた。私服に着替えたのち、母が様子を窺いにきたときのため、再びドアを開け放つ。そうしておかないと、隠れて漫画を読んだりゲームをしたりしているのではないかと、あらぬ疑いをかけられることになるからだ。僕としては、わざわざ火種ひだねを作るようなことはしたくないし、幼い頃から固く禁止されてきたそれらを今さらどこかで借りてくるつもりも毛頭ないのだけれど、子どもというのは得てして親に信用されない生き物であるらしい。