0 四年前
後藤望は自らが信じているほど達観した人物ではなかった。
その朝、令状を持った四人の刑事が部屋を訪れたとき、彼は穏やかな態度で自ら鍵を開け彼らを招き入れながらも、その足は震えていた。
「特定商取引法違反」と、刑事のなかのひとりが言った。
後藤はひとこと、「なるほど」と答えた。
刑事たちが令状に基づき部屋を歩き回るのを、彼はキッチンから眺めた。無性にコーヒーが飲みたくなり、戸棚に仕舞った買い置きのペットボトルのブラックを一本、手に取った。そんな後藤の一挙一動を、玄関に残った警官のひとりが見ていた。そのひとりが思いがけず若い女性であることに気づき、彼はやや背筋を伸ばした。こんなことは大したことではない──後藤はそう信じようとした。愛用のスマートフォンやPCが証拠品として押収されていくのを眺めながらそれを信じ続けることは決してたやすくはなかったが、とにかくそうした。カフェイン同様、今の彼の精神を守るためにはどうしても必要なことだったので。彼の心は自分で信じているほど、タフでも無感動でもなかった。
「七時一四分」と、刑事のなかのひとりが言った。後藤はなにも答えられなかった。別のひとりが取り出したものに目を奪われていた。銀色の手錠。それは彼にとって、舞台や映画、ゲームやパーティーの中だけに登場する、フィクショナルで現実離れした、ある種ばかばかしい存在だった。早朝の自分の部屋で、しかつめらしい顔をした公務員が真面目に取り出すような代物ではないはずだった。
本当に? と思った。
本当に、こんなことが、自分の人生に起こるのか?
父の顔が頭に浮かんだ。半年前の帰省の折、父は言ったのだ。「俺にはよくわかんないけどさ」と。
「望はさ、真面目に働いた方が、いいんじゃないかい?」
後藤は一歩後ずさり、背中がキッチンの壁に付いた。
こんなことは大したことではない──その信仰が、瞬く間に揺らいだ。
手錠をかけられたとき、その確かな重みを感じた瞬間、彼は口の中でつぶやいた。
「──神様」
1 月蝕島
「お腹を壊したときって、ついつい神に祈っちゃいますよね」
天羽七希は薄茶色の目を細め、穏やかな笑みを浮かべる。
「絶体絶命のとき──すべての希望が絶たれ──なすすべがない、自分ではもう、どうしようもないと感じたとき──ひとは神に祈ります。日常の信仰の有無にかかわらず、ただ一心に、心の奥底から。それは、私たちが本当は知っているからだと思うんです。私たちの脳が、知っている。そうすることが、私たちが救われるための、唯一、最後に残された手段なのだと」
天羽は視線をカメラからわずかに逸らし、どこか悠然とした表情で遠くを見やった。窓から射す陽光が彼の目に入り、薄い色の虹彩が細かな光を跳ね返す。
「私は──現代を生きるひとは、本当に──立派だなと、思うんです。そう、お腹を壊したときくらいしか神に祈らないというひとが、私の周りにもけっこういます。もっと、祈って、頼ったらいいのに。子供の頃は、神はもっと身近な存在でした。子供の頃の私たちは、疑うことすらしていなかった。自らは善良な存在であり、神はそんな私たちを助けてくれる救いの存在だと。『宗教』なんて言葉すら知らない、無垢な頃から……」
天羽の視線がカメラに戻る。まさに今、画面の向こうでライブ配信を見ている千二百二の人間と、まっすぐ目を合わせる。
「私はいつも、言っています。皆さんは神に守られるべき、善良なる存在だと。けれど、自分が善なる人間だと信じられない、というDMを、ほとんど毎日いただきます。ええ、今日紹介させていただいた相談のDM以外にも──そういうひと、たくさんいるみたいです。あの──あなたは善人です。間違いなく。あなたの脳には──大いなる存在に授けられた善意が宿っている。あなたはそのことを、本当は知っているはずです。ただ、この社会が──現代の厳しい世の中が、あなたから信頼を奪った。そう、神の救いを信じることは──自分の善性を信じることと同義です。現代社会は、あなたから神への信仰と、あなた自身への信頼を、奪ってしまった」
天羽はふたたび視線をカメラから逸らす。配信用PCの斜め左上──そこにある、外付けのプロンプターを見る。
「今の社会で──学校の友人や会社の同僚たちの前で、『心から神を信じている』と明言できるひとが、どのくらいいるでしょう。今や宗教は──文化に根付き、多くのひとの人生に根付く一方で──ごくシンプルな、純粋な善意からは切り離されてしまったように思います。あるいは、切り離されたのは、私たち──そう、現代を生きる、我々なのかも──。もちろん、今日までひたむきに神を信じてきた人類の歴史や、花開いた文化に、私は敬意を払っています。ただ──今を生きる我々が心から神に頼りたいと考えたとき──伝統的宗教にある、女性の軽視、同性愛の禁止など、現代の価値観にそぐわない教えが、その気持ちを阻んでしまうのは事実です」
そのとき、プロンプターの向こうで、後藤望が人差し指を上げた。話題を変えろ、という合図だ。天羽は言葉を切り、PCに顔を寄せて、視聴者からのコメントを読む姿勢を取った。
「『カルトの教祖がなんか言ってる』。あはは」
最初に目に入ったコメントを読み上げ、天羽はつい本心からの笑い声をあげた。「教祖」と呼ばれることが、未だにどうしても面白い。彼はあわてて口を閉じ、言うべきことを考える。おまえは笑い方にアホっぽさが出るから気を付けろと、後藤からさんざん言われている。
「カルト──というのは、なんとも的を射たご意見ですね。そう、カルトという言葉は、元は崇拝を意味するラテン語です。だから──ええ、私たちがそう呼ばれることは、なにも間違ってはいません。私は神を──そして皆さんのなかに存在する善意を──崇拝していますので」
後藤が今度は親指を上げるのを、天羽は視界の端でとらえた。サムズアップ──ナイス──の意味ではなく、配信終了二分前を伝えるサインだった。
「それでは、今朝はこのあたりで失礼します。この美しい島から皆さんに配信をお届けできたこと、本当に嬉しく思います。──そう、鳥の声が聞こえますよね。あれは、ひばりかな──。本当に、たくさんの鳥がいます。緑も豊かで──まだまだお見せできていない場所がたくさんあります。次の配信もぜひ楽しみにしていてくださいね。引き続き、ご相談のDMもお待ちしております。ああ──ただ、事前に告知しておりました通り、本日の夜の配信はお休みです。今夜はこの島の見学ツアーに参加してくださる方々と、オフラインで食卓を囲む予定です。そう──どうぞ皆さんも、デジタルデトックスなど試してみてはいかがでしょうか──それでは」
最後ににっこりと笑って、彼の──彼らの配信は終了した。間違いなく通信が遮断されていることを念入りに確認し終えた後藤は、「ひばり?」と眉根にしわを寄せた。
「あ、すみません、めっちゃてきとうに言いました。なんかそれっぽい鳥かなと思って」
「あのさあ……てきとうに喋るなって言ってるじゃん。教祖様がそういうの間違えるの良くないよって」
「いや、でも、ひばりっぽくないですか。スズメとかではない感じだなあと思って」
「知らないよ。おまえも知らないだろ鳥なんて」
「まあ、はい。すみません。でも、正直今日はけっこういい感じだった気がしたんですけど。やっぱこの島パワーっていうか、すごい高尚な感じで喋れたっぽい気持ちになれました」
「うん……まあ、悪くはなかったけど」
後藤は手元のパソコンで、この三十分間の配信アーカイブをざっとスクロールし振り返る。今朝は三件の相談DMに回答させたが、それほどひやりとする場面はなかった。あえて一点指摘するとするなら、締めの説法。
「他の宗教に喧嘩売るのは、しばらくナシって言ったろ」
「え、喧嘩は売ってないですよ。すごいふんわり喋りましたよ、そのへん」
「いや、もう他教に言及もしないでいい。新規で増えた視聴者が引かないように。とにかく、俺らは善意の集団だから。他教とのかけもちもアリって体でやってるわけだから」
「わかりました」
「あと、最後。『いかがでしょうか』で締めるのやめよう。なんかこう、アフィリエイトブログっぽさがすごいから。情報系ユーチューバーっぽさっていうか」
「はあ……そうですか?」
首をかしげる天羽に、後藤はひとつため息をつく。天羽を『BFH』の顔として起用し配信を始めてから、ちょうど一年になる。当初よりかなりましになったとはいえ、未だ配信後の反省会は欠かせない。
BFH──『Bona Fide Harmony』、日本語にして『善意の和』は、後藤がゼロから立ち上げた宗教団体だった。宗教団体。最初の頃は、その言葉に感じる胡散臭さに自ら顔を歪めずにはいられなかった。もともとは所謂、スピリチュアル系の界隈に参入しようかと考えていたのだ。
後藤が初めてその界隈を知ったのは、大学生の頃だった。バイト先のコールセンターに同時期に入社しただいぶ年上の女性がよく口にしていたのが、「引き寄せの法則」だった。シンプルに言えば「良いことを考えていれば良いことを、悪いことを考えていれば悪いことを引き寄せる」とする理念で、それは一般的な個人的信念や座右の銘とよく似ていながら、そこに超自然的な力や宇宙の真理が作用しているとする点で異なっていた。
「思考したことは現実になるの」と語る彼女を、後藤は単にポジティブな人物として捉えていたのだが、後に彼女は「思考をより強いエネルギーへと磨く方法を教える」というメンターとの高額なセッションを同僚たちに強く勧めるようになり、上司から厳重注意を受けたことをきっかけに退職していった。
興味を持って調べたネット上で、後藤は似たような話をいくつも見た。パワースポットや占いのような大衆的に受け入れられているものから、波動系や法則系など、全く聞きなれない似非科学のようなものまで、スピリチュアル界隈は広く隆盛を誇っている。
しかしそこで、敢えて「神」。
この国でははっきりとネガティブな印象を伴って呼ばれる「新興宗教」で行こう、と考えたのには、ひとつは天羽の存在があった。
もう八年も前になる。大学の演劇サークルに、一つ下の後輩として入って来たのが天羽だった。新歓の席で彼を一目見て、後藤は思った。こういうやつが主演を張るのだろうなと。それは例えば、予定されている次の定期公演の主演に限った話ではなく、言うなれば人生の、すべての場面の。
ただ顔が整っている、というのとはどこか違った。話してみると拍子抜けするほどに気さくで、一時間後には男女を問わずすべてのメンバーの舎弟のようなポジションを築いていたにもかかわらず、それでもなお、どこか浮世離れした印象を保っていた。安居酒屋の喧騒の中でも、彼の声は端のテーブルまでよく通った。会がお開きになるころには、脚本を担当していた北原先輩が、彼に当て書きした喜悲劇の構想を練り始めていた。
「月蝕島の信者たち」は全4回で連日公開予定