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小学校

 三回誘拐されかけたあたりから、私は周囲から色眼鏡で見られるようになりました。
 プライバシーが重視されるようになった現在なら、連れ去り未遂事件が発生したことは周知されても、被害者が誰だったのかということまでは分からないよう配慮がされるかもしれません。でも、1983年秋生まれの私が小学校低学年だった90年代前半なんていうのは、高額納税者の名前が強制的に発表されていたような、個人のプライバシーなどまるで配慮されていなかった時代でした。連れ去り未遂事件の被害者が私だという話は、毎回すぐ広まっていました。
「香織ちゃん、また誘拐されたの?」
「お前またかよ~」
「しょっちゅうさらわれるって、ピーチ姫みたいだな~」
 子供は残酷です。私はそんなデリカシーのない言葉もよくかけられました。もっとも、テレビゲームが家になかった私は、ピーチ姫というのがクッパという化け物にさらわれ、マリオという髭面の男に毎回救助される役回りだということも知りませんでしたが。
 とはいえ、そうやってからかわれる方が、まだ気が楽でした。困るのが、同級生の女の子から、どこか含みのある表情で、こんな言葉をかけられた時でした。
「香織ちゃんみたいに可愛いと大変だよね~」
 果たしてどう返答するのが正解なのか、当時の私には分かりませんでした。というか、実を言うと、大人になった今でも分からないのです。
 人生で何千回と経験しているのですが、「可愛いね」「美人だね」という言葉を、特に同じ女性からかけられた時、「そんなことないよ、私可愛くないよ」なんて否定すれば、「そんなわけないじゃん。本当は自分が可愛いと思ってるんでしょ?」などと冷たく言い返されることがほとんどで、かといって「うん、まあね」なんて肯定しようものなら、「香織ちゃん、自分が可愛いって認めちゃったんだけど~」などと冷たく笑われてしまうのです。否定しても肯定しても、最終的には冷たい目を向けられ、イヤな奴扱いされてしまう。どちらを選んでもバッドエンドという救いのないゲームなのです。
 私がもっと口が達者な人間だったら、この難解極まりないゲームもうまく対処できたのかもしれません。でも私は、小さい頃から今に至るまで、口下手で引っ込み思案な人間です。四十歳手前でたどり着いた、容姿を褒められた時にとるべきリアクションは、「苦笑いで無言のまま、否定とも肯定ともつかない感じで首を傾ける」という、なんとかその場をやり過ごすだけの、コミュニケーションとしては落第点の方法しかありません。今なおこの程度なのですから、小学生の私に正解が分かるはずがありませんでした。私は週に何度も「香織ちゃんって可愛いね」「美人だよね」などと言われ、リアクションの粗を探されて茶化され、何も言い返せずにため息をつく。そんな不毛なやりとりを強いられました。
 小学校低学年頃の、特に女の子だと、何か嫌なことをされたらすぐに泣くという自衛手段を持っていた子も多かったと思います。でも私は、悔しくても嫌でも、うまく泣くことができない子供でした。これは私の偏見かもしれませんが、嫌なことを言われたりしただけですぐ泣ける子というのは、たとえばきょうだいとのケンカ中に泣くことで保護者から守ってもらえたり、買い物中に欲しい物があった時に泣くことで買ってもらえたり、「泣いた結果メリットが得られた」という成功体験を持っていたのではないかと思います。
 それに対して私は、一人っ子でしたし、生まれた時からずっと貧しい家庭環境だったので、泣いたところで状況が改善することなどほとんどありませんでした。だから、誘拐されそうになったことを茶化されても、「香織ちゃん可愛いね」からの嫌味コンボを食らっても、涙は出ず、ただ気持ちが沈むだけでした。今思えば私は、小学生の頃からすでに、人間関係に疲れていました。
 もちろん、私に対して容姿のことを特に言わない女の子もいました。実際に小学校三、四年生の頃は、特に仲のいい女子のクラスメイトが三人いました。仮にAちゃん、Bちゃん、Cちゃんとさせていただきます。 
 休み時間に一緒に遊んだり、体育の時間などに二人一組で何かする時は、三人のうちの誰かとペアになっていました。人見知りで、予期せぬところでやっかみを受ける私は、この三人と離れたら友達なんて誰もいなくなるかもしれないという危機感を抱いていたので、とにかくこの三人だけは絶対に大事にしようと心に決めていました。
 私が通っていた小学校は、三年生になる時と五年生になる時の、隔年でしかクラス替えがなかったので、三年生と四年生の間は、AちゃんBちゃんCちゃんと私の四人グループにいることで安心できました。
 しかし、その三人との友情も、やがて崩れ去ってしまったのです――。

 序章となったのは、小学校四年生の二学期の事件でした。
 体育の授業があった日、私は下校の前にふと気付きました。ブルマがなくなっていたのです。
 ブルマというのも、若い読者の方には説明しなければ分からないかもしれませんね。今の若い人にとっては、ブルマといえば、ドラゴンボールのキャラクターしか知らないかもしれません。――いや、今の若い子はドラゴンボールすらよく知らないのかな? まあとにかく、ブルマというのは、女性用下着とほぼ同じ形状の紺色のショートパンツで、当時は学校の体操服として、女子が穿くことが義務づけられていたのです。
 下着と同じ形状ゆえ、羞恥心を覚えるのはもちろんのこと、それを穿いて運動しているうちに本物の下着がはみ出してしまう、はみパンと呼ばれる現象も起き、当事者である女子児童からはすこぶる評判が悪い穿き物でした。でも当時、女子の児童生徒は男子と同じハーフパンツの体操服を着用することは許されず、ブルマが嫌なら夏でも長ズボンを穿くしかなかったのです。なぜあんな児童ポルノさながらのルールがまかり通って、保護者たちから特にクレームが出ている様子もなかったのか、今思えば悪い意味で理解を超えていますが、当時すでにブルマは、もはや男たちの性欲をそそるアイテムと化していて、女子中高生がお金欲しさに自らのブルマを売り、愚かな男の客がそれを買う「ブルセラショップ」という店まで出現していたほどでした。そうやってブルマのイメージが悪化したことで全国的にブルマ廃止の流れが強まり、私たちの小学校も翌年から廃止になるのですが、私のブルマが紛失したのは、その直前の時期でした。
 ただ、私もはじめのうちは黙っていました。もしかしたら私がうっかり紛失したのかもしれないと思ったからです。でも、毎週のようにブルマがなくなり、ストックがどんどん減っていくと話は変わってきます。そこまで行くとさすがに私のミスなどではなく、何者かによる犯行としか思えませんでしたし、たとえ一枚数百円の物でも盗まれてしまうのは、貧しい我が家にとっては一大事でした。ブルマの追加購入のために家計に負担をかけるわけにはいかないことは、四年生にもなれば重々分かっていました。
 結局、たぶん五、六枚目のブルマがなくなった日の、帰りのホームルームの前に、私はそっと教室を出て、担任の先生を廊下で待ち構えて、他のクラスメイトに見られないようにそっと告げたのでした。