「おっと、これは懐かしい」
一緒に捜査本部の指令席となる円卓を囲んでいた刑事特別捜査隊隊長・本田明広が興奮気味の声を立てたのに釣られ、神奈川県警特別捜査官の巻島史彦は書類から顔を上げた。
円卓の前では、着替えなどを詰めこんでいるのであろう大きなボストンバッグを手に提げた男が顔にくしゃりとした皺を刻ませて笑いかけていた。足柄署の刑事課に所属している巡査部長の津田良仁だ。
「ご無沙汰しています。みなさん、お元気そうで」
「津田長、よく来た」
巻島は立ち上がり、握手で彼を迎え入れた。
〔ミナト堂〕の水岡勝俊社長とその子どもの祐太少年が〔大日本誘拐団〕なるグループに誘拐され、最終的に菊名池公園での派手な籠城騒ぎにまで発展した事件から、二週間ほどが経っていた。
巻島たち捜査班は、誘拐事件の実行犯であり、現場に立てこもっていた砂山知樹、健春の兄弟を逮捕した。巧妙に社長サイドを騙してせしめた身代金の金塊を抱えて逃走する途中での出来事だった。
現在、捜査本部では、建造物侵入の容疑で逮捕した兄弟について、誘拐事件での立件も視野に取り調べを進め、同時に証拠固めや供述の裏付け捜査などを行っている。
この事件では、犯人グループを一網打尽にしたわけではないことがはっきりしている。回収できた身代金の金塊も、奪われた枚数に三枚足りていない。
一人取り逃がしている。
それも、リーダー格と見られる男だ。
水岡社長には大下と名乗っていた。
この男は、先に振り込め詐欺事件で摘発された社本豊のグループの指南役を務めていたアワノという男と同一人物だと見られている。
さらに言えば、社本のグループで一時期詐欺を働いていたと思われる向坂篤志を殺して、遺体の服に「RIP」の文字を残し、丹沢の山中に遺棄した犯人〔リップマン〕も同一人物である疑いが高いと考えられている。
横浜の山手署の会議室に立てられた誘拐事件の対策本部は、そのまま事件の後始末及び、取り逃がした男の行方を追うための捜査本部へと移行し、本田が率いる刑事特別捜査隊、秋本貴幸が率いる捜査一課特殊犯中隊、山手署の刑事課員や誘拐現場の管轄である港北署の応援課員らが捜査に当たっている。
〔リップマン〕を追っていた足柄署の捜査本部では、手がかりの少なさから捜査も行き詰まりを見せていたようだ。そこへ起こった横浜の事件との強い関連性を考え、合同捜査の名のもと、山手署のほうに向こうの捜査を吸収することとなった。同時に捜査を担当していた足柄署の何人かを呼び寄せることにもなり、その一人として、津田がやってきたというわけだ。
もともと巻島が去年の春まで雌伏の時期をすごした足柄署で知り合い、ひょんなことから捜査指揮を預けられた〔バッドマン〕事件でも、巻島は津田の助けを借りた。その後、津田は緑多い足柄に戻り、息子夫婦と同居しながら定年までの残り少ない刑事生活を送っていたのだが、今回またこうして、大きな事件捜査に引っ張り出すことになった。
津田としては老骨に鞭を打たねばならず、なかなか楽ではないだろうが、巻島は嬉しい。津田が捜査班の一員として脇に控えているだけで気持ちが落ち着くのだ。精神安定剤のようなものである。
「もうすぐ孫の顔が見られるっていうときに、悪いな」
そんな巻島のねぎらいに津田は軽く首を振った。
「私がそばで気を揉んだところで、赤ん坊が無事生まれてくるのには何の関係もありませんからな。それより、また巻島さんのもとで仕事ができるとは思わなかった。精いっぱいやらせていただきますよ」
巻島は誘拐事件から派生したこの捜査本部の指揮も任されている。
本来、この手の帳場の実質的な指揮をとるのは、捜査一課長の若宮和生である。巻島は刑事特別捜査隊を統括する特別捜査官として、普段は遊軍的な活動をしているにすぎない。
しかし、いつか秋本が口にしてみせたように、巻島の存在は神奈川県警の捜査部門で、ジョーカー的な位置に据えられているらしい。その札は、調整型指揮官として捜査一課を束ねる若宮の手に負えない事件であると本部長の曾根要介が判断したときに切られる。
今回の誘拐事件も、従来の類似犯罪には見られない仕掛けが複数張り巡らされた、まったく一筋縄ではいかないものだった。巻島たち捜査陣は暗闇の中、手探りで捜査網を敷き、そこに何とか敵の尻尾の先が引っかかってくれたというような形だった。
そしてまだ、主犯格の男は捕まっていない。
「津田長、こいつが〔リップマン〕だ」
巻島は資料のファイルから一枚の紙を抜き出して、彼に見せた。
大下=アワノ=〔リップマン〕と思われる男が水岡社長との待ち合わせ場所に現れたとき、付近を通ったトラックの車載カメラに捉えられた画像を拡大してプリントしたものである。
細面の部類だろう。口もとが締まり、眼鏡をかけていることも相まって、理知的な人間の雰囲気を漂わせている。
しかし、汲み取れるのはそれくらいである。
画像は鮮明でなく、しかも横顔しか捉えられていない。目を細め、曖昧な輪郭を想像で補って、ようやく抱ける印象がそれくらいということだ。
重要な手がかりではあるが、これをどう捜査に活かすかという手立ては今のところ見出せておらず、したがって捜査本部外には回していない。
「感情の見えにくそうな男ですな」
粗い写真ながらも、津田はそこに写っている横顔からそんな印象を感じ取ったらしかった。「感情がない」とは言わなかった。津田はその長い刑事人生から、どんな凶悪犯にもそれぞれの人間味があるということを知っている。その考えが彼の刑事としての土台になっており、犯人に立ち向かうときの姿勢になっていると言っていい。
巻島もそんな彼の影響を受けている。またそれは、砂山兄弟を逮捕してみても、改めて感じたことだった。境遇の不運を犯罪によって打開しようとしたところに大きな誤りがあったが、そんな中でも、彼ら兄弟は互いをいたわり信頼する感情で結ばれていた。
この写真の男――〔リップマン〕には果たしてどんな感情があるのだろうか。