僕があの日拾い上げて手の中で大切に磨きながら持ち帰ったパチンコ玉は小夜子の義眼を創り出した。そしてその義眼を僕はとても愛している。僕がこれからずっと小夜子を宝物のように大事にする。巡り巡って、これはやはりちょっとした運命だ。
僕たちは式も挙げずに入籍した。小夜子にはもう両親はいないし、僕の両親は健在だが、兄夫婦と一緒に遠くに住んでいる。結婚したと電話で連絡をいれると、呆れていたが特に波風は立たなかった。殆ど音沙汰のない生活を続けていたのが幸いした。
母が言った。「そう言えばお嫁さん、うちにマッチした名前だよね。空也のとこにくる定めだったのよ、きっと」
僕の名前は星子空也という。母が言うところの「マッチ」は単純に星と夜の符合だ。母が口にした「定め」は、僕が感じていた運命に同意してくれたようでとても満足だった。
「あんたは何だかフワフワしているから心配していたの。これからはしっかりと地に足をつけなきゃだめだよ」
「一度連れて行くよ」と母の長引きそうな話を遮った。写真を送ったら「可愛い子でよかった」と返事があった。何だか普通すぎて拍子抜けしたが、小夜子は「義眼だとバレてないね」とフフフと笑った。
結婚してからも相変わらず僕達の時間は穏やかに過ぎていった。ただ時々、小夜子は竜巻のように僕を振り回す。
「私、爆弾犯を知っているの」
僕は吹き飛ばされそうになった心を必死で掴まえ、辛うじて着地して母のアドバイス通り踏みしめる。そしてゆっくりと口にする。
「誰なの?」
「どこかの高校生。でもだいぶ経ったから、今では空ちゃんくらいになってるよね」
「誰なの?」
「名前は知らない。知ってたら会いに行ってるもの」
「警察に言わずに、会いに行くの?」
「まず直接会って恨み言の一つも言ってやらなきゃ。それからよ、警察は」
彼女の知り合いの化学教師が犯人像を分析したらしい。警察にも掴めなかったから想像の範囲内でしかない。簡単な爆弾なら化学の教師でも作れるが、知識のある高校生にも可能だ。彼女の勤める高校には鍵の掛かった薬品庫があるが、信頼されている生徒であれば入ることができる。その教師も規則違反とはわかっていても生徒に鍵を預けて薬品を準備させることがあったのだという。
「だから犯人は高校生」
高校時代の化学の先生を思い出してみた。いつも何か捜し物をしているように忙しなく目を動かしている女性だった。そのくせ動作は三倍速の早送りをしたくなるほどスローで「任せたからお願い」が口癖だった。姿や行動は思い出せるが名前が出てこない。僕は確かにその先生の信頼を得ていた。小夜子の知り合いがその先生だと仮定すると彼女は当時僕を疑っていたことになる。
「その先生、女の人?」
「そうだけど。私よりだいぶ年上。どうして?」
「僕の化学の先生も女の先生だったから」
「そうなの。でも二分の一の確率で女でしょ。今、先生やめちゃってる。どこの高校だったのかな、松井さん。空ちゃんの先生も松井さん?」
「そんな名前だった気もするし、違う気もする」
正直、僕は先生の名前をすっかり忘れてしまっていた。
「きっと違うね。そんな偶然ないもの。空ちゃんも化学得意だった? 爆弾作れるの?」
積極的な嘘をつきたくないので答えに困った。
きっと警察は学校に聞き込みに来たはずだ。「薬品庫の管理はどうなっていますか」その問いに先生は「鍵は職員室で厳重に管理して持ち出せないし、在庫管理は完璧にしています」と答えたに違いない。僕に鍵を預けていたと話すはずがない。彼女にとって僕は犯人であってはならないはずだ。必死で先生の名前を考える振りをして首をかしげていたので、何となく「爆弾作れるの?」の返事をやり過ごすことができた。
「私ね、空ちゃんと出会ってから幸せだよ。初めての幸せ」
「初めてなの、幸せ?」
「左目がなくなる前も幸せじゃなかったもの」
小夜子が「左目がなくなる」と言う度に僕は心の中で「素敵なのがあるじゃないか」とフォローしているが、その気持ちは言葉では上手く言い表せなかった。でもこの前、「それは僕の感じ」という出来事があった。
職場でトイレに行った時に「清掃中」の看板がでていたけれど、前にも入れてもらったことがあるので「すみません」と言いながら駆け込んだ。手を洗っていると掃除のおばちゃんが横に立って手洗い台の隅に置いてある小さな花瓶を指さした。細い葉に小さな蕾が一つ付いたものが挿してある。「何でしょう」と取りあえず聞いてみた。
「何だかぱっとしないでしょ。この花は外では大きく咲いて凄く綺麗だったの。だから摘んできたのに、ここは陽が入らないからずっと蕾のままで咲かないの。このトイレに入る人には誰も美しいことを知ってもらえない」
そう聞いて改めて花を眺めても花芯はきつく閉じたままで花の色さえ分からない始末だ。
「それなら諦めて捨てちゃってここでも咲ける花に替えればいいと思うでしょ。もちろん萎れればそうするけれど、この子、水は吸って元気なの。ただ咲かないだけ」
おばちゃんは今にも詩をとうとうと詠みそうな雰囲気で僕を不安にさせた。
「でもそれでもいいかなと思ったのよ。私が綺麗なのを知っていればね。誰も知らなくてもいい。私が知っていれば十分」
「そういうこと」おばちゃんは分からないだろうねぇとでも言うように僕の返事を待たずに締めくくって、掃除を再開するために背を向けた。
「分かります、その気持ち。とてもよく」
おばちゃんは振り返ってちょっと驚いた顔をしていたが、その口が小さく開いたままなのを見届けて僕はトイレを出た。それが「僕の感じ」だ。誰も目にとめない、目にとめても美しいとは思わない。そんな小夜子の義眼。僕だけが妖しく光ることを知っている。僕だけがとても素敵だと思っている。それは誰にもわからなくていい。そういうこと。
小夜子は初めての幸せを僕と出会って見つけたらしい。素直にそれは嬉しいが、僕は彼女が義眼を負い目に思っていることをよく知っている。だから義眼以前の彼女が幸せじゃなかったというのはどうしてだろうかと考えた。
「爆弾との出逢いの前に辛いことでもあったの?」
「出逢いかぁ、空ちゃんって独特だよね。でも出逢いっちゃあそうとも言えるよね。爆弾との出逢い、運命的だよね。そうなの、その出逢いの前に辛いことがあったの」
「聞いてもいい?」
「好きな人がいたの。でも叶わないの」
「片想い?」
「どうかな、どっちとも言える」
「聞いてほしくないの?」
「どうかな、どっちとも言える」
「じゃあ、聞かない。想像してみるよ。不幸だった小夜子」
僕はそう言ったが少しも想像できない。どちらかというと想像は大好きだ。些細なことでも想像で大きく膨らませて時々それが現実だと勘違いまでする。それなのに「小夜子が不幸になる叶わない恋愛」のラブストーリーは思い浮かばなかった。僕にとって彼女の過去の恋愛はさほど意味をもたない。興味の程度で想像の温度差がかなりある。
「ねぇ、空ちゃんは秘密を持ってる?」
僕達は知り合ってから何でもないふりをして大事な質問をぶつけ合った。でも本当に言いたいことと聞きたいことはそっとしまってとってある。二人のそれぞれの秘密。
「持ってるよ。僕は高校時代に夜中に自転車で走り回って朝陽の前に家に帰り着いた。誰にも知られていない。それは秘密だ」
小夜子は小さく笑ってかぶりを振った。
「何だ、全然だめ。それが秘密なら私のは秘密じゃなくて爆弾だよ」
「そうかな。それで何なの、君の秘密、もしくは爆弾」
「そうだね。聞いてみたい?」
小夜子は両目で僕をじっと見つめた。彼女の左目は今日も妖しく光ったが表情から読み取れる手がかりが一切ない。頼みの綱である右目でさえも素っ気ない。こういう時は進むのをやめるに限る。
「聞かないで大事に取っておこうかな。秘密は秘密でいるのが一番居心地がいいのかも」
小夜子はこくりと頷いて僕の胸に顔をうずめた。僕はひょろっとしたのっぽで彼女は小枝のように小さい。小枝はさわさわと揺れてのっぽの幹に寄り添っている。立ったままで抱き合うと僕の心臓の辺りにちょうど彼女の義眼がある。そう考えるだけでドキドキしてきて彼女の頭の天辺に顎を預けた。そして彼女をぎゅっと抱き寄せる。寄木細工のように僕たちはぴったりと合わさる。
「昔のことはいいよ。小夜子が今、幸せならそれでいい」
僕の言葉が顎から響いて彼女の頭の天辺に振動して伝わる。
「何だか、古い歌の歌詞みたいだね」
僕の胸に顔を埋めたままの彼女の言葉が僕の胸に振動して伝わる。合わさって、振動し合って生きていけば何も問題ない。
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