第一章   宣戦布告

 

 令和五年の年が明けた。警視庁本部の六階にある組織犯罪対策部暴力団対策課のマル暴刑事たちは正月返上だ。

 二年前、日本最大の暴力団、吉竹組が分裂した。現在は大阪市天王寺区下寺町を拠点とする本家吉竹組と、東京都港区六本木を拠点とする関東吉竹組に分かれ、にらみ合いを続けている。

 暴力団対策課第一暴力犯捜査一係の警部補である藪哲子やぶ あき こは去年の秋から特別対策本部に詰めて、殆ど自宅に帰れていない。備えつけのテレビでは元旦らしく振り袖姿の女性タレントが映っていた。十時ちょうどになり、NHKでニュースが始まった。

「東京都と大阪府の公安委員会が、分裂した二つの吉竹組が抗争状態にあると指定したことを受け、今日午前、大阪市天王寺区の本家吉竹組総本部に大阪府警が立ち入り、事務所の使用を禁ずる処置と家宅捜索を実施しました」

 テレビに寺院の入口のような門構えが映る。本家吉竹組の総本部だ。寺や神社が密集する地域にある。野次馬の中に破魔矢を持った初詣客の姿が映る。大阪府警のマル暴刑事が、大阪府公安委員会の発行した張り紙を貼り付けた。

『この事務所に立ち入り、またはとどまることは禁止』

 マル暴刑事や機動隊員が続々と門の周辺を固める。本家吉竹組の暴力団員たちも集結し、激しいヤジ合戦になっていた。騒然とした雰囲気の中で、マル暴刑事たちが家宅捜索令状を見せて、扉を開けさせる。

 藪は民放やネットのニュース動画も確認し、現場の様子を分析していた。

「案の定、双子の姿はないね」

 本家吉竹組の組長は異例の二人体制だ。矢島勇と矢島進という七十四歳の一卵性双生児が取り仕切っている。

「警察に踏み込まれるところに組のトップが立ち会ったら暴力団側の負け試合に見える。地元和歌山の神社で双子仲良く対策会議中だろう」

 乗鞍匡志のり くら まさ しが言った。彼は暴力団対策課の管理官で警視だ。藪の上司にあたるが、同じ釜の飯を食った同期でもある。

 藪のデスクの内線電話が鳴る。ナンバーディスプレイに大阪06から始まる番号が表示される。待ち構えていた電話だった。

「警視庁、暴対の藪です」

 相手は大阪府警の組織犯罪対策本部の管理官だった。特定抗争指定にかかる作業の責任者でもある。

〇八〇〇マル ハチ マル マル開始の特定抗争指定暴力団認定にかかる事務所閉鎖手続き、並びに家宅捜索が無事終わりました」

「了解、特異動向は」

「ありません」

「警視庁も着手に入ります」

 藪は受話器を置き、立ち上がる。

「次は警視庁の番だよ」

 乗鞍が、マル暴刑事百人が集う大部屋に声を響き渡らせる。

「六本木に乗り込むぞ」

 男たちのかけ声で警視庁本部の床が震える。

 皇居の南、桜田門にある警視庁本部から暴力団対策課の面々が乗る覆面パトカーが車列を作り、関東吉竹組の本部がある六本木七丁目へ向かう。人気のない霞が関を抜け、首都高沿いのビル群の隙間を駆け抜けた。

 元日の正午前、六本木界隈は門松を飾る店舗が多く見られる。いつもは渋滞する六本木交差点も今日は交通量が少ない。予定通り、暴力団対策課一行は六本木七丁目の路地裏にあるいずみビルヂングに到着した。この最上階に関東吉竹組の本部がある。旧吉竹組の跡目争いに敗れ、五代目の双子体制に反旗を翻した関東吉竹組組長の泉勝が所有する。

 界隈を管轄する麻布署がすでに交通整理を始めている。藪は車を降りた。マル暴の要請で出動している第一機動隊がビルの入口から最上階までの各フロア、非常階段を警備する。

 冬の低い太陽が泉ビルヂングを照らしている。藪は腕時計を見て本部へ無線を入れた。

一一五〇ヒト ヒト ゴー マル、現着」

 藪は乗鞍と共に赤と黒の防弾ベストを着用した。『組織犯罪対策部』の文字が背中に入っている。人員が集まっていることを確認し、乗鞍が合図した。第一陣がエレベーターに乗り込む。最上階の廊下を突き進んだ。男たちの革靴の音が響く。藪のピンヒールの音も負けない。

 防火扉のような頑強な扉の前に立った。表札は出ていないが、ここが関東吉竹組の本部だ。乗鞍が鉄の扉を叩く。

「警視庁だ」

 扉を開けたのは若い衆だった。その後ろに関東吉竹組の幹部八名が、厳しい表情で待ち構える。大阪府警を出迎えた本家吉竹組の若い衆の中には特攻服やサラシを巻いた者もいたが、関東吉竹組のヤクザたちはみなスーツ姿でネクタイを締めていた。大企業の幹部のような佇まいをしていても、顔に傷があったり指がなかったりする。顎のすぐ下まで刺青が入っている者もいた。

「泉勝組長は」

「親父は年末年始、ハワイで過ごすのが恒例です」

「それは残念。組の歴史に残る一大事を目の当たりにできたのに」

 乗鞍が東京都公安委員会が正式に発行した書面を見せた。

「関東吉竹組は特定抗争指定暴力団に指定された。効力は令和五年一月一日正午より三か月間、抗争終結が見えない限り、この指定は延長され続ける」

 乗鞍は書面を一同に示し、関東吉竹組のナンバー2、若頭わか がしら本多義之ほん だ よし ゆきに手渡した。本多は埼玉県川口市に拠点を置く本多組の初代組長だ。埼玉県南部の風俗店を仕切る。彼はジャケットを脱ぎ、ワイシャツを肘まで捲り上げていた。左手の甲から肘にかけて切り傷の跡がある。手首まで入った波飛沫の刺青が傷のせいで歪んでいた。本多はその腕で書面を受け取った。

「関東吉竹組の特定抗争指定暴力団の指定に伴い、本日正午より、本部のある泉ビルヂング六階は閉鎖、組員は事務所に入ることもとどまることも禁止されます。万が一違反行為があった場合はその場で逮捕します」

 藪は東京都公安委員会が発行した立ち入り禁止のビラを扉の真ん中に掲げた。ガムテープで四方をきっちりと貼る。

 武闘派が多い本家吉竹組とは違い、経済ヤクザの集まりである関東吉竹組の組員たちは冷めた目をしている。暴力団側の無言の圧力に飲まれぬようにか、乗鞍がひときわ大きな声を張り上げて、令状を見せた。

「また、特定抗争指定に伴い、関東吉竹組本部に家宅捜索令状が出ている」

 乗鞍が振り返る。家宅捜索要員五十名が、すでに六階の廊下から階段を埋め尽くしていた。デジタル腕時計は十二時三分になったところだった。藪は叫ぶ。

一二〇三ヒト フタ マル サン、着手」

 

 墨田区の曳舟ひき ふね界隈は近くを流れる隅田川の流れが聞こえてきそうなほど、静かだった。対岸の浅草方面は、浅草寺を訪れる初詣客でにぎわっているのだろうか。

 暴力団対策課暴力犯捜査一係の桜庭誓さくら ば せいは二十九歳の中堅マル暴刑事だ。寿退職しブランクが三年あったが、訳あって復職し、現在は向島一家という旧吉竹組の二次団体だった組を監視、内偵している。

 監視拠点は向島一家が入る五右衛門ビルの北隣のビル屋上にある。そこに据え付けられたコンテナハウスは夏は灼熱、冬のいまは極寒だった。誓は電気ストーブの前でスーツの上から半纏はん てんを羽織る。震えながら、望遠鏡越しに見える向島一家の六〇六号室の扉を見つめている。

 後輩の山田やま だ巡査が伝える。

一二〇三ヒト フタ マル サンに関東吉竹組のガサ入れ、着手したそうです」

「了解。曳舟は静かなものね。十時以降から誰一人出入りはない」

 山田巡査が本部に向島一家の動向を伝え、電話を切った。

「泉は毎年恒例のハワイ旅行だそうですよ」

「まさか。渋谷の自宅にいるはず」

 関東吉竹組の泉組長は渋谷区のタワーマンションに住んでいる。こちらにも監視拠点があり、内偵がついていた。泉が出国した様子はない。

「そりゃそうですよね。特定抗争指定暴力団に指定されるなんて、暴力団としての活動を封じられるようなもんです。そんな組の一大事に海外へ行くわけがないか」

 特定抗争指定暴力団に指定されると、暴力団は事務所の使用や立ち入りを禁止される他、敵対する組織のシマに入ることもできない。組員が五人以上で集まっても、警察の摘発を受ける。こうして警察側は暴力団の身動きを封じて、抗争を防ぐのだ。

 向島一家は吉竹組が本家と関東に分裂したあと、どちらの親分にもつかずに独立し、中立を保ってきた。しかし去年ベトナムマフィアと半グレの代理戦争が勃発した。ヤクザがひとり死亡、二名が行方不明のままだ。警察官にも負傷者が出るほどの抗争だった。これを受けて、東京と大阪の双方の公安委員会が、三か月という異例のスピードで、本家・関東双方の吉竹組に特定抗争指定暴力団の指定を出したのだ。

 向島一家は構成員が八十名の博徒系暴力団で、二代目が取り仕切っている。曳舟一帯を仕切るこぢんまりとした組の初代は、向島昭雪しよう せつと名乗っていた。旧吉竹組内では直参じき さんと呼ばれる直系組長のひとりだったが、下っ端の若中わか なかでしかなかった。

 二代目の向島春刀が襲名すると様相が変わった。彼は吉竹組直参の中で最年少の四十歳で若頭補佐に抜擢され幹部となった。出生不明でどのような青年期を過ごしていたのか全くわかっておらず、初代と養子縁組をして向島春刀と名乗るようになった。彼は左肘の下から腕がない。指のないヤクザは多いが、腕一本落としているヤクザはそういない。なぜそうなったのか諸説あるが真相は不明だ。

 向島春刀は四代目の吉竹組組長・豊原裕久とよ はら ひろ ひさに寵愛されていた。吉竹組が東日本に進出した平成初期、向島はヒットマンとして数々の汚れ仕事を引き受けてきたと言われている。

 その向島は、分裂した組を和解させるために東西を奔走していた。いまは不気味な沈黙を続けている。正月の今日も向島一家に人の出入りは少なく、扉は閉ざされたままだ。

 誓は望遠鏡の前から立ち上がった。

「交代。正月らしいランチでも食べようか」

 携帯ガスコンロにやかんをかけて湯を沸かし、カップおしるこに注いだ。

 暴力団は元旦に事始め式を行う。向島一家も毎年元旦には総勢八十名の構成員が一堂に会していた。向島が一年の抱負を語り、酒を飲みかわし、餅つきをした。

 だが昼を過ぎたいまも、向島一家に構成員が集まる様子はない。当番の若い衆が中に何人かいるだけのようだ。十時ごろに近所のスーパーで寿司や総菜を五人分買ったのを確認した。会合が行われる様子もなければ、客が訪ねてくるでもない。

「今日も現れないですね、向島春刀」

 抗争を止めようとしていた向島春刀は、去年の秋から行方不明になっている。

 

「菊の慟哭」は全4回で連日公開予定