4 夏目わかば 東京都足立区
西新井署を出たころには正午になっていた。朝食を食べずに四時間以上も取り調べを受けていたので、さすがに空腹だ。コンビニに入り、梅のおにぎりとバナナを買ってイートインスペースで封を切った。
――石黒先生が、死んだ。
とっくに死んでいたと思っていた人間の死を告げられて、どう思えばいいのか判らなかった。あの〈祝祭〉の夜から十四年間、石黒先生はどういう人生を送っていたのだろう。
石黒望。
自分たちを育ててくれた〈親〉であり、〈祝祭〉の首謀者。
彼女とは十二年間、一緒に生活した。多くの顔を持っていた人だった。厳しく叱りつけられたこともたくさんあったが、物知りで、優しく、泣き虫だった自分をよく抱きしめてもくれた。石黒先生は、体温が低かった。彼女の冷たい身体に抱かれていると、余分な熱と一緒に嫌な感情まで吸い取ってくれる感じがして、気持ちよかった。
〈お前たちは、被害者だ〉
石黒先生の言葉で、もっとも印象に残っているものだ。
〈お前たちは生まれた段階で、この社会から加害されている。だが、社会は可愛そうな人間を甘えさせてなどくれない。私たち被害者は自ら刃を手に取り、社会を刺すしかないんだ〉
石黒先生はよく〈私たち被害者〉という言葉を使った。その意味についてきちんと聞いたことはないが、彼女の使う一人称複数の名詞を聞くたびに、わかばは、石黒先生と深いところでつながれている感じがした。
「あの、すみません。イートインスペースのご利用は、三十分までです」
気がつくと、コンビニの男性店員が近くにいた。名札には「てぃん」と書かれている。彼もまたカオと同じく、生まれが貧乏で、借金を背負わされて日本にきたのだろうか。ただ、彼から漂う迷惑客への仄かな敵意は、自分たちが「私たち」になることを拒む色があった。
立ち上がり、店を出る。
自宅までの二キロほどを、わかばは歩いて帰ることにした。
身体を鍛えるためになるべく歩くようにはしているが、単にバスに乗る二百十円も惜しい。
――潮時、か。
足立区に引っ越してきて一年三ヶ月、これで三回目の馘だ。東京は地域のつながりが薄いとはいえ、そろそろ一帯に情報が出回りだすだろう。そうなるともう仕事を見つけることも難しい。
十年以上、螺旋を、ゆっくり下っている感じがする。
引っ越す。アルバイトを探す。情報が出回る。馘になる。そのたびに、自分はまた一周、螺旋を下る。長い時間をかけて、螺旋を下り続けている。この底には、一体何があるのだろうか。
「ふう」
寝不足の頭で慣れない考えごとをして、頭が重い。
気がつくと、近所の公園に差し掛かっていた。
ベンチと小さな遊具があるだけの公園には、人がいなかった。もう今夜の出勤に備える必要はない。少し空の下で休むのも、いいかもしれない。
公園に入り、ベンチに腰掛ける。こんな風に公共の場でゆっくりすること自体、久しぶりな気がした。たぶん、多くの人が生活をしている「公共」に、身を置いていたくないのだと思う。単に人に見られるのが嫌なのか、自分には「公共」を使う資格がないと思っているのか、本心は自分でもよく判らない。
石黒先生が、死んだ。
生きていたら、いまごろ七十歳くらいだっただろうか。老いたとはいえ、あの石黒先生が誰かに殺されるとは思えない。自宅の階段から転落して死んだと、刑事は言っていた。やはり事故なのだろうか。
石黒先生はなぜ、長野で生きていたのだろう――。
考えても仕方がないことを考えている。いくら考えたところで、答えが出るわけはない。石黒先生のことだ。自らの痕跡をすべて消し、〈宮田真理〉という人格を作り上げて生きていたのだろう。いまから調べても、何も判らないに違いない。
それよりも考えるべきことは、当座の金だ。まだ情報が出回っているかは判らない。あちこちに面接に行って、仕事をもらえないか探すべきだった。何ヶ月かでも雇ってもらえれば、引っ越し資金を作ることもできる。
わかばは立ち上がった。ジーンズの尻についた埃を、両手で払う。
そのときだった。
視界の中に、刺々しいものを感じた。
〈目を逸らすな〉
石黒先生の声が、頭の中で鳴った。
公園の出入り口に、ひとりの人間が立っていた。
青いパーカーのフードを被り、マスクをしていた。細身で、身長は一六五センチくらいだ。顔がよく見えず、男性か女性かも判らない。
その目は、明らかにわかばのことを捉えていた。
双眸には感情は浮かんでおらず、観察対象を見るようにこちらを見ている。ただ、記者ではない。何人かの記者に監視されていたことがあったが、彼らの雰囲気とはまるで違う。温度の低い視線の中に、濃い暴力の色があった。
〈襲われたら、仲間がいないかを探しなさい。相手はひとりとは限らない――〉
わかばは相手を警戒しつつ、周囲を観察した。怪しい人間はいない。単独行動のようだ。
人影が一歩足を踏みだした。「なんですか?」相手を怯ませるために、強めに声を飛ばしたが、相手は構わずに歩み寄ってくる。
「なんですか!」
――まずい。
ここに追い込まれたのだと気づいた。三方を生け垣とフェンスに囲まれた長方形の公園で、一箇所だけある出口への動線が的確に塞がれている。警察署を出てから、ずっとつけられていたのかもしれない。こちらが袋の鼠になったのを見て、仕掛けてきた――。
相手は、パーカーのポケットに手を入れた。事態は急速に悪化していた。距離を詰められている最中に相手の手が見えなくなったということは、考えられることはひとつ――武器だ。
相手が、駆けだした。
手はまだ、ポケットに入ったままだった。まずい。襲われつつあるのに、武器の種類すら判らない。地面に目を走らせたが、武器になりそうな空き瓶や石はなかった。
わかばは咄嗟に、ジーンズの尻ポケットに手を突っ込んだ。
相手の足が、止まった。こちらが武器を手にしたと錯覚したのだ。わかばはすかさず、背負っていたリュックを正面に回した。ナイロン製の非防刃リュックだったが、ないよりもましだ。
相手は、こちらが張り子の虎であることに気づいたようだ。おもむろにポケットから手を出すと、短いナイフが握られていた。
「助けてください!」
周囲に知らせるように大声で叫んだが、あたりは閑散としていた。ひと気がない時間帯を狙われたのかもしれない。相手がこの一帯の情報を調べ尽くしていることを、わかばは肌で感じた。
相手が、突っ込んできた。
ナイフを腰だめに構えたまま、走り寄ってくる。と、刃が見えなくなった。空いた片方の手で、武器を隠したのだ。素人の動きではなかった。人を殺す技術を持った人間の動きだった。
――やるしかない。
背を向けたら、間違いなく刺し殺される。
わかばはリュックを盾にし、相手に向かって突っ込んだ。
身体がぶつかり合う。リュックを突き通した刃先が、わかばの右肘に食い込んだ。うめき声が漏れるほどの激痛が、わかばを襲った。
わかばは引かずに、相手に向かって突っ込んだ。刃がずぶずぶと、肘に食い込む。この動きは想定していなかったようだ。わかばは勢いのまま、頭突きを入れた。額に衝撃が走り、相手の頭がのけぞるのが見えた。
――浅い。
鼻を折るか顎を砕きたかったが、深く入らなかった。相手が瞬時に、額を突きだしてきたからだ。わかばはリュックを下に思い切り引き落とした。ナイロンを貫いたナイフが、相手の手からもぎ取られるように地面に転がった。
相手が刃物を拾い上げようとする。その頭に向かって蹴りを見舞ったが、相手はすかさずガードした。この攻撃は、読まれていた。
相手は、ナイフを拾い上げた。
――終わった。
冷静に、そう思った。
初手を防げたのは、ただの運だった。刃物を持った人間と素手で戦うのは、たとえ相手が素人だとしても自殺行為だ。そして、目の前の相手は、素人ではない。
自分はここで、殺される。
相手にも、それが判ったようだった。勝利宣言のように、ゆっくりとナイフを握り直す。今度は一分の隙も与えないというように、腰を落として構える。訓練が窺える、美しい構えだった。自分が人生の最期で会うのはこの人間なのだと、わかばは冷静に思った。
「きゃあ!」
女性の声が、公園に響いた。出入り口に、人影が見えた。相手は、軽く舌打ちをした。
「警察を呼んでください!」
わかばは叫んだ。相手は後方に飛び退り、踵を返して走りだした。女性とのすれ違いざま、彼女はもう一度悲鳴を上げたが、そちらを見ようとすらしなかった。煙のように、相手の姿は消えて見えなくなった。
――生き残ったのか。
本来なら、もう死んでいた。わかばは身体の緊張を解くように、ゆっくりと構えを解く。
沸騰した高温の血液が、全身を巡っていた。