3 夏目わかば 東京都足立区(承前)
取調室に入る。
窓のない狭い部屋に、小さな机がふたつと、機材の入った黒いキャビネットがあった。
奥の椅子に座ると、正面に沼田が腰を下ろす。その隣に二十代の刑事が座り、ノートパソコンを広げる。沼田の頭越しに、一眼の黒いカメラが、こちらを見下ろしていた。
カメラの奥に、大勢の人間がいる気配を感じた。遠く離れた部屋でこちらを見ているのかも知れない。刺すような視線の存在感が伝わってくる。
「ご足労くださり、ありがとうございます。録音と録画を撮らせていただきますが、よろしいですね」
黒いキャビネットは、録音装置のようだ。若い刑事が操作している。あくまで物腰が穏やかな沼田と対照的に、名乗りもしない若い刑事は、こちらへの敵意を隠そうとしていない。ことあるごとに睨みつけるような視線を飛ばしてくる。
「夏目わかばさん、で間違いありませんね」
沼田の問いかけに、わかばは頷いた。
「幼少期を山梨の宗教団体〈褻〉で過ごした。十二歳のときに〈褻〉から出て、山梨県大沢市へ移住。その後各地を転々として、いまはここ、足立区に住んでいる。ご両親が誰かは不明」
「間違いありません。それよりも、教えてください。石黒先生が亡くなったって……」
「はい。長野県長野市で、石黒望の遺体が発見されました。自宅で亡くなっていたのを検死したところ、指紋が一致したのです」
「検死したってことは、殺されたんですか。石黒先生は」
「いえ、孤独死した遺体は検死に回すものなんです。現在のところは他殺か事故死か、判断がついていません。石黒は、長野県長野市で〈宮田真理〉と名乗って生活をしていました。この名前に、心あたりは?」
わかばは首を横に振った。聞いたことのない名前だった。
いちから説明しましょう、と沼田が言った。
「石黒の遺体が発見されたのが、四日前の木曜日です。〈宮田真理〉は長野市の一軒家に、二〇〇五年から十三年間、ひとりで住んでいました。隣人との関係は良好で、周囲には〈夫に先立たれ、生まれ育った長野に住むことにした〉と言っていたようです。近所の駐輪場で管理人のアルバイトをしていました」
「夫って……石黒先生は、夫なんかいませんでした」
「もちろん作られたプロフィールです。〈宮田真理〉の死因は、脳挫傷です。屋内の階段から転落し、倒れているところを発見されました。郵便物がたまっていたのを近所の人が見つけ、通報したのです」
沼田は説明しながら、探るような目つきでこちらを見てくる。
「〈宮田真理〉が誰なのかは、現在調べています。ただ、その名義を使い、石黒は一軒家を購入し、公共料金の契約もしていました。〈背乗り〉というやつでしょう」
「背乗り?」
「他人の戸籍を乗っ取ることです。戸籍売買――などとテレビでよく言われますが、これは間違いで、厳密には戸籍を買うことはできません。役所に行って『私の戸籍をこの人に売りました』などと申請しても、認められるわけがないですから。要するに、他人の戸籍を使い、使われた相手が名乗りでない――そういう状態を保ち続ける、それが〈背乗り〉です」
「ホームレスの戸籍を買うとかいう話なら、聞いたことがあります」
「ホームレスが背乗りされることもあることにはあるのですが、少ないです。彼らは家族がいることもありますから、そこから足がつくものなんですよ。多いのは独身の多重債務者、あとは死者です」
「死者……」
「死んだのに行方不明者届も死亡届も出ていなければ、戸籍が浮きます。勝手に使っても、誰も文句は言わない。大きな災害のあとには、こういうことがよく起きます」
背乗りを仲介する専門のブローカーがいるのだと、沼田は教えてくれた。死者の戸籍は発覚するリスクがもっとも低いため、高値で売買されているらしい。
ここまで言われても、いまひとつ全容がよく判らない。
要するに、十四年前に行方をくらませた石黒先生は、どうやら生きていたらしい。
そして、何らかの方法で他人の戸籍を入手し、長野県でひっそりと暮らしていた。
身分を変えて静かに暮らしたい――何度かそう思ったことがあるが、夢物語だと思っていた。それを石黒先生は、あっさりとやってのけていたのか――。
そこでわかばは、ひとつおかしなことに気がついた。
「どうして石黒先生は、そんなに長い間気づかれなかったんですか? だって、指名手配もされてましたよね」
「顔を変えていたんです」
「整形、ってことですか」
沼田は頷いて、初老の女性のバストショットを見せてきた。
目の大きな女性で、一瞬誰だか判らなかった。だがよく見ると、暗い双眸が石黒先生の印象と重なる。
「眼瞼下垂と下顎角形成、隆鼻術の手術をしていると思われます。要は、目を大きくしてエラを削り、鼻を高くするということですね。顔を丸ごと作り変えるほどの大工事です。検死で鼻からシリコンプロテーゼが出てきたので、怪しんだ長野県警が指紋の照合を行いました。気づかずに火葬されていたら、永遠に発覚しなかったところでした」
「整形手術をした医者は、誰なんですか」
「いま捜しているところですが、まあ闇医者でしょうね。石黒望には色々な人脈があったでしょう。彼女は一時期学生運動にのめり込んでいて、一九九〇年ごろまでは過激派とのつながりがあった」
写真を引っ込めて、沼田が覗き込んでくる。お前も当然知っているよな、という目で。
「ここからが伺いたいことですが――夏目さん、あなたは石黒望が長野市にいることを知っていましたか?」
「いえ、まさか」
「十四年の間、石黒望から連絡があったりはしませんでしたか。会いたいとか、助けてほしいとか、逆に、何か助けになりたいとか」
「ありません。石黒先生は、山で死んだと思っていました」
「山? なぜ、山だと思ったんですか」
「だって、ずっと見つかっていませんでしたから。山で死んで、獣に遺体を食べられて、いまごろ土に戻っていると思っていました。まさか、普通に生活してるなんて……」
「山、ねえ。普通そんなこと、思いますかね」
正直な感想だった。子供のころになくしたと思っていた服が、クローゼットの奥から埃まみれで出てきた感じだった。そんなものを見て、何を思えばいいのだろう。
「本当に知らないんですか」
沼田は先ほどまでより露骨に、こちらを探るような目になっている。
「この十四年間、一度も接触はなかったということでいいですか? あとからやはりつながりがあった、などと判るとまずいことになりますよ。よく思いだしてほしいのですが」
「沼田さん」
若い刑事が、たしなめるように言う。わかばはそこで、警察がこちらの背景を気にしていることを悟った。夏目という名前を誰からもらったのか、警察も当然判っているのだ。
沼田は、諦めたように息を吐いた。
「では、夏目さんがこの十四年間どういう生活を送っていたのか、教えていただけますか」