二〇〇四年 石黒望 山梨県江田野〈褻〉コミューン
夜に、赤い羽虫が大量に舞っていた。
吹き上がった羽虫は一斉に空を覆い、乱舞を続ける。大きいもの、小さいもの、真っ赤なもの、青味がかったもの――暗い蜜をむさぼるように、虫が夜を埋め尽くしていた。
虫を吐きだしているのは、一棟の鶏舎だった。二千羽の鶏が住む鶏舎が燃え上がり、火の粉で赤く染まった虫を撒き散らしている。肉の焼ける匂いが、周囲に充満している。燃え上がる虫は木屑なのか、それとも鶏の羽なのか。
炎に照らされた闇の中に、人影が見えた。
石黒望は、Cz75を二等辺三角形に構えた。
トリガーを二発連射で引くと、乾いた木が爆ぜるような音が内耳を叩いた。十メートルほど前方の影には、あたらなかった。望は左手を前に出し、銃を構えて走る。拳銃を保持しつつ突然の襲撃者に備える、特殊部隊のテクニックだった。
距離を詰め、再度引き金を連続で引いた。発射された9×19mmパラベラム弾が、標的の腰を撃ち抜いた。人影は倒れ込み、それでも逃げようと土の上を這いずり回る。無様に蠢く人影を、空を舞う大量の羽虫が見下ろしている。
銃が、焼けるようだ。
弾を撃ち尽くしたCz75は、ホールドオープンになっていた。十五発のマガジン二個を短時間で消費した。炎で炙ったように熱い。
〈誰かを殺したら、きちんと見つからないように捨ててくれよ〉
笑いながら銃を渡してくれたのは、岡本鉄朗だった。富頭会の二次団体の組長だ。
岡本とは、もともとは学生運動時代の仲間だった。一九六八年、岡本の通っていた明治大学では明大闘争が行われていて、駿河台の学生会館の食堂で初めて会った。紫煙が漂う灰色の空間で、岡本はきつねうどんを食べていた。周囲では学生たちがマックス・ヴェーバーについて唾を飛ばしながら議論を交わしている中、岡本は苛立ったようにうどんをすすっていた。
あの日のことも、いまのこの瞬間に続いている。
マガジンキャッチボタンを押すと、マガジンが自重で落下する。新しいマガジンを差してスライドを引き、安全装置をかける。ガンホルスターは用意していない。火傷を覚悟して、身体に密着させる。
「……畜生、この野郎」
倒れ込んだ人影と、目が合った。五年前からコミューンに住んでいる中年男性だった。山一證券破綻に伴う金融不安でリストラされ、多額の住宅ローンを支払えずに家を失った。金の切れ目が縁の切れ目で妻子に出ていかれ、社会を漂流した挙げ句この場所にたどり着いた。
被害者だった。世界に食われた、人間だった。
「なんでこんなことをするんだ。クソ、どうしてこんなことに……」
何もしていない。彼は、ただ必死に生きていただけだった。
「死にたくない。死にたくないよ……」
レッグホルスターからケーバーのファイティング・ナイフを引き抜き、男の頸動脈をかききった。噴水のように血が噴きだし、男は死体になった。黒い夜の中にあって、血がもっとも黒かった。
髪の毛が、返り血で粘つく。油を頭の上からかぶったようだ。
ポシェットからキッチンペーパーを出して、銃を持ちながらケーバーの血を拭った。紙を捨て、レッグホルスターに戻す。
望は、周囲を見回した。
遠くで鶏舎が燃えている。闇の奥から、様々な音が響き続けている。木々が燃える音。男と女の悲鳴。怒号。人々が走り回る音。
これを作りだしたのは、紛れもなく自分だ。惨禍の中心には、自分がいる。
それでも、自分は、疎外されている気がする。
輪の中にいるはずなのに、輪から外れたところでそれを見ている。
すべてがどうでもいいからなのだろう。これほどのことを起こしているのに、ここで起きていることはすべて、他人ごとだ。
下腹部が痛んだ。
望は腹を押さえた。腹が刺されるように痛い。どこか夢のような殺戮の光景の中、腹から響く地鳴りのような痛みだけが、望の現実だった。
ぼとんと、足元で鈍い音がした。
石を投げられたのだ。一瞬で我に返った。顔を上げると、二十メートルほど先に人影が見えた。
人影はなおも石を投げようと振りかぶる。考える前に身体が動いていた。頭部を守るために右手をかざし、ジグザグに飛ぶように望は走った。
次の瞬間、人影は倒れていた。人影の奥から、子供の影が現れていた。
睦巳だった。倒れた人影を足元に、睦巳は手を振っている。望は親指を立てて応答した。睦巳はひときわ嬉しそうに飛び上がり、次の獲物を求めるように走り去っていった。普段の寡黙な彼からは考えられないほど、高揚していた。
私の教育は、正しかったのだ。
私は人生を、間違ったのだ。
彼らのことを考えると、胸がわずかに引き裂かれる。彼らもまた、世界に食われた被害者にほかならない。でも、ほかに手段はなかったのだ。はっきりしているのは、自分はどこかで、道を踏み外したということだ。
この夜には、被害者しかいない。被害者が被害者を食い、さらなる被害を生む。だが、この世界とはそういうものなのかもしれない――。
気配を感じた。
振り返ると、わかばがこちらを見ていた。
上背が高い。十二歳の少女だと考えるとかなり体格がいい。与える栄養には気を配っていたが、生まれつきの遺伝子情報にそう書かれているのだろう。
わかばの近くに、腰を抜かした住人が座り込んでいた。住人は唖然とした様子で、わかばと石黒を交互に見ている。わかばはそちらを見ようともしない。ひっつめにした髪の先から、血が垂れていた。
「何をやってるの。そいつは生きている。まだ〈祝祭〉の途中だろう」
わかばは反応しなかった。血に酔っているのか、雰囲気がとろんと溶けている。
「私の言うことが聞けないのか」
わかばは動かない。喧騒の中、彼女の周囲だけが無音だった。
「言うことが聞けない子は、おしおきをしないとね」
Cz75を地面に置き、レッグホルスターからケーバーを引きだす。
わかばは、条件反射のように瞬時にナイフを抜いた。その速度に、望はしびれた。
能力の高い子供だ。私の最高傑作だ。普段は感情豊かなのに、戦闘がはじまるとすべての異物を遮断できる。機械になることができる。
――ありがとう。
望の胸を、感謝が満たした。
本当に、ありがとう。あなたは、よく育ってくれた。
ごめんねと、小声で呟いた。彼女がこれから歩むのは、修羅の道だ。選択の余地はない。その道へ強制的にわかばを突き落としたのは、紛れもなく自分なのだ。
「助けて……!」
住人が叫んだのを合図に、望は跳躍した。