1 夏目わかば 東京都足立区(承前)
バックヤードを出る。カオは、店内のモップがけをしていた。
「カオさん。〈褻〉事件って知ってる?」
オーナーのほうを見ると、嫌らしい笑みで見返してきた。
悪評を広められたくないと言っていたのに、自ら進んでわかばの過去を撒き散らそうとしている。この男にとって目の前の人間を踏みにじれることは、店の評判などより大切なことなのだ。
「け? って、なんですか」
「十四年前に山梨であった事件、知らない? 変な宗教団体で、子供たちに大勢の人が殺されたってやつ。オウム真理教の事件は知ってる? あれと同じくらい有名な事件なんだけど……知らないかね、タイの人は」
カオは、そこでピンときたようだった。十代の外国人ですら知っているほど、自分たちは有名なのか。
「夏目さん、その事件の犯人だったんだよ。経歴を詐称してうちに潜り込んでたんだ。いわゆる〈生存者〉ってやつ」
「せいぞんしゃ……?」
「そう、〈生存者〉。家に帰ったら〈夏目わかば〉ってネットで調べてみるといい。タイのネットと違って、日本はなんでも自由に検索できるからね」
オーナーはほとんど恍惚の表情を浮かべていた。いつもの陰鬱な表情が晴れやかなものになっている。この男は、こういう瞬間のために生きているのかもしれない。
――仕方ない。
馘になるのには慣れているが、話を広められるのは困る。
「もういいでしょう」
わかばは、オーナーを睨みつけた。彼の顔から、緩みが吹き飛んだ。
一瞬で、身の程を思い知ったようだった。顔色が哀れなほどに青ざめ、それでも威厳を保つためだろうか、気圧された表情のままこちらを必死で睨み返してくる。本当に弱い人間だ。雑魚は、戦うことも引くこともできない。
「なんだその目は。お前、この野郎、犯罪者のくせに……」
「なんですか」
わかばは構わずに睨み続けた。
「なんですか」
オーナーは舌打ちをして、目を逸らした。不貞腐れたように、明後日の方向を見つめている。
わかばは構わずに睨み続けた。恐怖を教える必要がある。警戒している犬は吠えるが、恐怖を知った犬は吠えない。
充分睨みつけたところで、、目を逸らす。カオと目が合った。
彼女は怯えた目で、わかばのことを見つめていた。
2 加瀬潔 山梨県甲州市
動物を殺したことは、何度もある。だが、人間はない。
加瀬潔は水を張った木桶の中に手を入れ、荒砥石を取りだした。流しの上に板を通し、その上に置く。
シャコ、シャコ。
刃物を砥石の上にセットし、奥に向かって滑らせると、ざらついた摩擦音が鳴った。しばらく刃を砥ぎ続け、石が乾いてきたところで、蛇口から水をすくって砥石にかける。このところ使っていなかった刃が、命を取り戻してゆく。
刃物を研ぎながら、自分が大きな力に動かされているのを感じる。この力は、なんなのか。
深い怨恨はある。だが、それではない。
噛み合ってしまった。そう表現するのが、一番近い気がする。
時計を見たら、ちょうど長針と短針が重なっていた。夕食にオムレツが食べたいと思っていたら、たまたまそれが出てきた。生きていると、自分と外部とが奇妙に重なることがある。いまの自分を突き動かしているのは、そういった、大きな世界の律動だった。
シャコ、シャコ。静かな家に、刃物が鋭利になっていく音だけが響く。
いい刃物だ。これを作った人間は、どういう気持ちで刃を削り、焼入れをしたのか。自分が作ったものが人を刺し、命を奪う――そういう可能性を、少しは考えていたのだろうか。
この世界はすべて、噛み合わせでできている。職人は、何も考えず、日々の仕事として刃物を出荷しているだけだが、刃傷沙汰は日々起きる。人殺しを作ろうと思って子供を産む人間などいないが、殺人者は生まれてくる。散弾銃で撃ったように世界にばらまかれた数え切れないほどの粒が、あちこちで衝突し、ときにそれは惨劇と呼ばれるものになる。
自分も、その粒のひとつにすぎない。自分がこれからすることは、無数の粒の衝突の一片でしかない。
刃物を研ぎ終わり、断面を覗き込んだ。
暗い目が、刃の奥から見つめ返してきた。
3 夏目わかば 東京都足立区
〈次は、私とやろう〉
畳が敷かれた〈道場〉で、わかばは石黒先生と向かい合っている。十一歳のころだ。大人の石黒先生は見上げるほどに大きく、野生の豹と向き合っている感じがした。
石黒先生の手には、樹脂製の模擬ナイフが握られている。同じものが、自分の手の中にもある。周囲の人間が正座をし、自分たちの対峙を見つめている。
石黒先生が、指笛を吹いた。
その瞬間、身体中の血液が沸騰した。高温の血液は全身をめぐり、わかばの性能を数段階引き上げてくれる。肉体的にも、精神的にも。
石黒先生は体勢を低くし、刃をアイスピック・グリップ(逆手)に握ってこちらから見えないようにしている。模擬ナイフだからといって、雑に扱うことを石黒先生は怒る。本物のナイフだと考え、切りつけられたら即死ぬことを想定しながら戦うこと。そうでないと、スパーリングの意味がない。
〈目を逸らすな〉
石黒先生に、叩き込まれたことのひとつだ。
〈目を逸らした瞬間に、お前は襲われる。相手を観察しろ。状況を俯瞰しろ。この世界は、危険に満ちている〉
相対する石黒先生は、いつも無表情だった。表情の変化から感情を読ませまいとしているのだ。
だが、わかばは知っていた。ナイフを持って対峙しているときの石黒先生が、いつもよりも生き生きしていることを。
たぶんあの時間を、石黒先生は、楽しんでいたのだ。
そこで、目が覚めた。
インターホンの音が鳴り響いていた。
窓にかけられたカーテンの隙間から、淡い日光が入り込んでいる。時計を見ると、朝の七時だった。頭が痛む。帰宅してすぐに横になったはいいが、夜勤に備えていた身体は浅くしか眠れなかったようだ。
苛立ったようなインターホンの音が、こびりついた夢の残滓を洗い流す。わかばは立ち上がり、玄関に向かった。
覗き穴から外を見た瞬間、身体がこわばった。
立っていたのは、スーツを着た体格のいいふたりの男性だった。年齢は、四十代と二十代といったところか。明らかに堅気の雰囲気ではなかった。
「どなたですか」
「警視庁からきました。夏目わかばさんですよね」
「警視庁?」
「はい。少しお話ししたいことが」
丁寧だが、断ることを許さない口調だった。なんだろう。警察とはもう十年以上、何の接点もない。
わかばは髪をゴムでまとめ、ドアを開けた。
「朝早くからすみません。警視庁の沼田と申します」
四十代のほうが、名刺を見せてくる。
所属は〈警視庁刑事部・捜査第一課〉で、階級は警部補と書いてある。ものものしい漢字が密集する名刺の左上に、マスコットキャラのピーポくんが笑顔で両手を広げていた。硬い印象を和らげるためであろうイラストが、やけに白々しく見えた。
「何の御用ですか。捜査第一課って、殺人を扱う部署ですよね」
「まあそうですが、それだけじゃないです。強盗も誘拐も放火も扱ってますよ」
「私、何かしましたか。心あたりがないんですが」
刑事たちが顔を見合わせる。年配のほうが、再度こちらを向いた。
「石黒望さん、ご存じですよね」
一瞬、思考が止まった。なぜその名前が出てくるのか、意味が判らなかった。
「亡くなりました」
「は?」
「ニュース、ごらんになってないんですか。長野県で遺体となって発見されました」
遺体となって――?
言葉が出てこない。沼田が、探るように顔を近づけてくる。
「少しお話を聞かせていただきたいのですが、西新井署のほうまできていただけませんか」