1 夏目わかば 東京都足立区

 血の匂いがした。
「ジェップ(痛い)……」
 声の主は、同僚のカオだった。
 深夜一時、コンビニ、レジの中。カオは宅配便の封筒を滑り落とし、紙で指先を切ってしまったようだ。
 指先を染める血が、鮮やかに赤い。
 カオはタイのバンコクからの留学生で、まだ十九歳だった。日本語学校に通いながらコンビニでアルバイトをしている。外国に留学にきているくらいだから裕福な家なのだと最初は思っていたが、貧しい生まれで、留学のために多額の借金を背負っているらしく、勉強もおろそかにアルバイトに明け暮れていていると聞いた。七歳も年下なのに、日々の疲労が影のようにこびりついている。
 若い人の血は、綺麗な真紅だ。匂いも、芳しい。
 目が合うと、カオは気まずそうに目を伏せた。〈店内では日本語以外は使わないように〉というオーナーの言葉を、思いだしているのだろう。
 所在なさげに指先を舐める彼女を置いて、夏目なつめわかばはバックヤードに下がった。細長い部屋の両脇に天井まで届く棚があり、段ボールが積み上がっている。わかばは棚から救急箱を取りだし、消毒液と絆創膏を持ってレジの中に戻った。
「指、出してください」
 カオは驚いたようだった。優しく微笑みかけると、おずおずと右手を差しだしてくる。
 色白で、絹のような肌をしている。切り傷が、陶器に入った赤いひびのようだ。指先に消毒液を吹きかけると、ぴくりと手が跳ねる。痛みに慣れていない人の反応だった。
「これで、大丈夫」
 ティッシュで止血してから絆創膏を巻く。手を動かしながら、わかばはある光景を思いだしていた。
 子供のころだ。
〈体育〉をする前、自分たちはいつもコーヒーを飲まされた。カフェインを身体に入れると血流がよくなり、平時より身体が動くようになるからだ。
 そのときに使っていた銅製のマグカップが、微妙に錆びていたのだ。錆が溶けだしたコーヒーは、血の味がした。カップを替えてくれと言いだせず、わかばは長年、血の味がするコーヒーを飲んでいた。血の匂いを嗅ぐと、あのときのことを思いだす。
 わかばはバックヤードに下がった。日曜日はポップを一斉に貼り替える日だ。冬なので、おでんの仕込みもある。わかばは素早く救急箱をしまい、レジに戻った。
「わかばさん」
 おでん鍋から賞味期限の切れた大根と卵を廃棄しようと思ったところで、おずおずと、カオが声をかけてきた。
「わかばさん、あの……ありがと、ございました」
「いえ、どういたしまして」
「本当に、ありがと、ございます。わかばさん、優しいですね」
「そんなことないですよ。あたり前のことです」
「そう、ですね。でも、わかばさん、優しいですよ」
 ――オーナーか。
 カオが繰り返し礼を言うのを見て、わかばは太った男のことを思いだした。
 この店のオーナーは、親から受け継いだ食品店を潰し、コンビニのフランチャイズに作り変えた男だった。いまは何の特徴もない食品店が生き残れるほど、生易しい時代ではない。商品開発と流通で圧倒的な差があるコンビニに生まれ変わることは当然の決断だったとも言えるが、本人は忸怩たる思いだったらしい。
 一国一城の主だったのに、いまは巨人の下僕に成り下がっている。オーナーの内面には自尊心を踏みにじられた苦しみがあるのだと、先輩アルバイトの人が教えてくれた。その歪みは、より弱いもの――店員に向けられるのだ。
〈おい、外国人〉
 二週間ほど前、酔っ払ったチンピラが、カオに絡んできたことがあった。
〈お前、日本語もろくに話せないのか? この国で働きたいんなら、あいうえおくらい覚えてからこいよ、中国人。反日教育受けてるくせに、はるばる海を越えてタカリにきやがって〉
 どうやら商品の陳列をしていたカオが、何かの弾みでタイ語を呟いたらしい。それを中国語と勘違いしているようだった。青ざめた彼女の胸元で「かお」と書かれた名札が震えていた。
〈お前らが幅を利かせだしてから、この国はおかしくなったんだ。どこに行ってもピーピーうるせえ中国語が聞こえやがる。日本中にクソを撒き散らしやがって、畜生がよ……〉
〈何か、不手際がありましたか〉
 わかばが間に入ろうとしたところで、バックヤードにいたオーナーが慌ててやってきた。
 おや、と思った。いつものオーナーからは考えられないほどに、低姿勢だったからだ。オーナーはカオとチンピラの間に身体をねじ込み、〈申し訳ありません〉〈私の責任です〉〈二度とないようにいたします〉と頭を下げ続けていた。
 人の本質は、危機にならないと出てこない。この男も、謝ることができるのだと、わかばは見直した。いつもは威張り散らしているが、いざとなったら部下のために盾になれるのだ。
 だが、それは勘違いだった。
 チンピラが帰ったあと、オーナーは即座にカオをバックヤードに呼びつけ、ネチネチと罵りだした。〈申し訳、ありません〉〈くびに、しないでください〉〈くびになったら、とてもこまります〉粘度の高い罵倒の間に、カオの搾りだすような声が聞こえた。
 こいつを心ゆくまで説教できる――チンピラに絡まれているカオを見たときに、オーナーは閃いたのだろう。だから彼女の前で、卑屈なほどに謝ってみせた。頭を下げれば下げるほど、カオを罵るための貯金がたまっていく。
 三十分ほど説教を続けたオーナーは、最後に深いため息をついた。
〈もう、店内では日本語以外は使わないように。タイ語は、禁止ね〉

 午前二時。
 深夜のコンビニは来店客こそ少ないが、検品や品出しに追われるため日中よりも忙しい。ちょうど番重に詰め込まれたサンドイッチがバックヤードに納品されたので、わかばはハンドスキャナーでひとつずつバーコードを読みとっていた。最後に目視で数を確認し、陳列棚に並べるのだ。
「あの、わかばさん、そろそろ失礼します」
 カオが店内から顔を出した。彼女はいつも二時上がりで、ここから六時まではわかばのひとり体制ワンオペだ。一ヶ月前まで深夜勤務をしてくれていた専門学校生がいたが、オーナーと喧嘩をしてやめてしまっていた。
「はい、お疲れ様でした。お気をつけて」
「わかばさんも、気をつけてください。ワンオペ、こわいです」
「大丈夫ですよ。深夜はほとんどお客さんもきませんから」
「気をつけてくださいね。変なやつ、います」
 あのチンピラのことを思いだしているのだろうか。何にせよ、一枚の絆創膏でここまで心を許してくれるとは思わなかった。純粋な性格だ。だからこそ、多額の借金を背負わされ、食いものにされているのだろうとも感じた。
 そのとき、店内から来店を示すメロディーが流れた。
 カオの顔色が、さっと変わった。聞き覚えのあるゴムサンダルの音が、店内から響いてきた。
「夏目さん、ちょっと」
 バックヤードに、オーナーが顔を出した。眉間に皺を寄せ、難しい表情をしている。自分は怒っているのだということを、表現しているように見えた。
「なんですか」
「カオさん、ちょっと残業してくれる? とりあえずお菓子のポップを貼り替えて、店内清掃ね。よろしく」
「え、残業、ですか? でも、明日は学校が……」
「レオレオ(早く)!」
 オーナーがタイ語で言うと、カオは弾かれたように出ていった。
「全く、タイ人は融通が利かないから困る。個人主義のわがままな国民性なんだよな。職場の絆とか、チームワークとか、そういう概念自体がないんだろうな」
 声に、興奮の色がある。この男が怒るときは、いつも嬉しいときなのだ。
 オーナーはこちらに向かって歩いてきた。バックヤードは人がすれ違うのも難しいほど細長い。太った身体に押し込まれるように、わかばは奥に向かって下がった。
 一番の奥に、デスクと椅子がある。オーナーは空いた椅子にひとり座ると、電子タバコをくわえた。
「何か、俺に秘密にしてることがない?」
 いきなりそう言った。苛立ったように足をゆする。
「言っとくが、とぼけても無駄だ。もう証拠はあがってる。これは自白のチャンスを与えてるだけだからな」
 またか、と思った。
 ここに勤めて三ヶ月、思ったよりも早かった。
 もうこのやりとりをするのは、何度目だろう。それはゴミの焼却プロセスのようなものだった。街中のどこでゴミを捨てても同じ場所にたどり着くように、どんな仕事をしたところで、最後はここにきてしまう。
 ただ、どこから話せばいいのかが、いつもよく判らない。いちから全部話していると、何時間もかかってしまう。
 オーナーはわかばの逡巡を、意図的な黙秘と捉えたようだった。鞄からクリアファイルを取りだし、乱暴にデスクの上に置いた。
 ファイルに挟まっているのは、ウィキペディアの項目を印刷したものだった。
「匿名の通報があった。この事件の〈生存者〉がおたくの店で働いてるが、何を考えてるのかってね。もうびっくりしてネットを検索したら、夏目さんの名前が出てきた。前科隠して潜り込むなんて、いい度胸してるわ、全く」
「はあ……」
「はあ、じゃなくてさ。何か言うことは?」
「あの、前科じゃありません」
「ん?」
「この事件で、私に前科はついていないんです。私は十二歳でしたし、裁判すら受けていません。だから話す必要はないと思いました」
「あんたねえ」
 オーナーが声を荒げる。怒りの奥に、弱者をいたぶれる嬉しさと興奮が透けて見えた。
「子供じゃないんだから、そんな屁理屈が通用すると思う?」
「屁理屈ではないと思いますけど」
「悪いとは思わないの? 一言くらい、謝ったらどう?」
「何を謝るんですか」
「経歴を詐称して俺の店に潜り込んでたわけでしょ? このまま俺が気づかなかったら、うちの店はめちゃくちゃ悪評が立って、売上も落ちて店を畳まないといけなかったかもしれない。その責任はどう考えてるの?」
「売上が落ちてるんですか」
「そういう話じゃないだろ」
 オーナーの声に、本気の怒りが混ざったのを感じた。
「すみませんでした」
 謝れと言われたら、謝ってしまったほうが早い。相手を論破したところで、結果を変えることはできないからだ。あの事件から十四年の間に、そういう処世術が身についてしまっている。わかばは何度も繰り返してきたように、頭を下げた。
「お店に迷惑をかけてしまい、申し訳ありませんでした」
 顔を上げる。オーナーの表情に、嬉しそうな色が戻っていた。
「本当に悪いと思ってるの?」
「はい、思ってます」
「思ってないよね。反省してるなら〈何を謝るんですか〉なんて台詞は絶対に出てこない。本当に心から反省してる? 自分が何をやったかを」
「ものの弾みで言ってしまいました。本当に反省しています。経歴を偽ってしまい、すみませんでした」
「いや、俺の話ちゃんと聞いてる? 本当に反省してるのかって聞いてるの。あんたはとんでもないことをやったんだよ? 被害者の前でも同じことが言える?」
 オーナーは指先でクリアファイルを叩いた。いつの間にか、店の治安を脅かしたことと、プリントに書かれている内容が混ざってしまったようだ。
 こんな反応にも慣れている。半ば自動的に言葉が出てくる。
「反省しています。私は過去、とんでもないことをしてしまいました。申し訳ありません」
 もう一度頭を下げると、つむじのあたりに、オーナーのため息が吹きかかった。
「辞表は出さなくていい。こっちで上手く処理しておくから。今日の深夜は、俺が入るよ。タイ人にワンオペなんかさせたら、何をされるか判らないからね」
 感謝しろとでも言いたげな口調だった。「ありがとうございます」と、相手の望む答えを返した。
「あんたさ――おかしいんじゃないの?」
 オーナーの声に、揶揄するような色が混ざった。
「前から変だと思ってたんだ。なんていうか――あんた、感情が伝わってこないんだよな」
「はあ」
「なんかの記事で読んだことがある。世の中には、内面が欠落していて、人に迷惑をかけてもなんとも思わないやつがいるんだってな。あんたもそれなんじゃない? だから呑気な顔して、のうのうと生きていられるんだな」
 ほう、と思った。腐っても経営者だけあって、最低限の他人を見る目はあるようだった。「まあ、もういいや。出てって」と、オーナーはため息をついて立ち上がった。