【宇川逢】

「ライター?」
 街の隙間にある、まるで邪魔者をそこに押し込める意志を持つような狭い喫煙所だった。隣に立つスーツ姿の女性がポケットを探っているのに気がついたあいは、自分が持っていたライターを彼女の前に差し出した。
「え、はい。え?」
 かけられた声に頷いた女性は、逢の顔を見て戸惑いを隠さなかった。
 彼女はひとまず礼を言うと、おずおずライターを受け取り、煙草に火をつけた。ライターを返す動作にとどこおりはなく、日常の動きを心掛けた様子の彼女だったが、その後もちらちらと逢の顔をうかがっていた。
 逢はと言えば、興味本位の視線を投げかけられるのに慣れていたし、そうなることを承知で親切にしたのだから、無視を貫いた。返ってきたライターをポケットの中に戻して、自身は自身で煙を吐く。
 逢が一本を吸い終える前に、先ほどの女性はいなくなった。この空間を気まずく思ったのかもしれないし、逢がよほどのんびりとしていたのかもしれない。
 ゆっくり味わってから、逢は自身の外見に合わせた細い腕時計を見る。
 二本目をくわえてもよかったが、ふとSuicaの残額が少なくなっていたことを思い出す。駅へ向かい、チャージしようと考えた。ちょうど喫煙所から目的地のほぼ同線上に、駅があった。
 逢は煙にまみれたその空間を出る。歩く速度に合わせた風を受け、黒いチェスターコートが揺れた。途中水商売風の男性にすそが触れたが、この街でそんな些細なことを気にする人間はいなかった。
 鉄橋の下をくぐり、券売機を目指す。駅前の広場では人のかたまりが声高に何かしらを主張していて、逢は「もう少し音量しぼれ」と誰に伝えるでもなく声に出しながら、人の波をかわしていく。
 無事にSuicaへのチャージを終えると、逢は改めて左手首の内側に密着する丸い文字盤を見た。少し早いけれど、目的地へ向かおうと決めた。
 これからの時間に胸を高鳴らせている自分を感じ、逢は嬉しく思っていた。応援している対象の活躍を心待ちに出来る、そんな当たり前で直線的な自分を逢は好きでいた。
 大きな交差点の信号待ち時間を利用して、スマホで化粧や髪形を確認する。風に吹かれた前髪を微調整し、逢は自信満々に前を向く。
 交差点を挟んで、こちら側では安っぽいスピーカーからどうこういう主張が、あちら側では巨大なビジョンから映画の予告が、どちらも人々の注意をひこうとかなりの音量を発している。しかし交差点に立つ人々のほとんどは各々の日常に必死だ。どんなに大音量だろうと興味のない事柄が耳に届きはしない。
 逢はというと、ビジョンに目をやっていた。映画自体に興味があるわけではなかったが、予告編でも流れているはずの主題歌に耳を澄ませた。
『映画、少女のマーチ、真実のあいがここにある』
 どこにでもありそうなコピーだと、逢は思った。
 歩行者用の信号が青になり、人々は思い思いの一歩目を踏み出す。目の前を行く、ユーチューバーなのかMVの撮影でもしているのか、スマホのカメラを回しながらのろのろ進む二人組をよけて、逢はまた大きくかかとを鳴らす。
 目的地である黄色い看板の目立つCDショップが、交差点からでも確認出来た。これからそこの地下にあるステージで、アイドルグループのレコ発イベントが行われる。
 いつものこの時間なら、逢は今目指しているCDショップの更に奥、坂を上った先の職場にいる。今日は運よく休みをとれた。普段ライブやイベントが行われる午後を就業時間としている逢にとって、今日という日は当たり前ではなかった。
 交差点の横断歩道を渡りきってからも人混みは続く。一人一人にいちいち注目していては呼吸する暇もない。疲れ果てたサラリーマンも、広がって歩く女子高生も、すれ違った後に背後から聞こえてきた「今の子可愛い」から数秒後、わざとらしくもう一度前に回り込んでくる若い男も、逢は全て気にせず自分らしい歩幅で前に進む。褒め言葉はありがたく受け取っておくが、他人の評価基準など気にもならない。
 喫煙所でライターを貸した時も感謝されようなんて気持ちはなかった。ただ困っている目の前の人間へ、ほんの小さな手助けをしたいと自身が感じた。
 ただいつも、自分らしくいることを求めていた。
 歩幅も外見も行動も、自らが望むものを望む形で、この世界に存在させたかった。その心に従い、行動に移せる自分が逢は好きだった。
「あい?」
 だから、CDショップの前に辿り着き扉に手をかけたその時、聞こえた声にきちんと振り向いたのも、逢が逢として生きるただそれだけのためだ。




【糸林茜寧】
  ――出会いは転がったオレンジが誰の靴にぶつかったのか、その程度のことであり、それほどのことでした
(単行本版『少女のマーチ』九頁、二~三行目より)

 この瞬間もなお、茜寧の持つ鞄の中で文庫本として彼女を見守り続け、部屋の本棚では単行本が彼女の帰りを待っている。累計発行部数九十六万部を超える小説『少女のマーチ』は、このようなあらすじの物語である。
 美しくふるまう外側の自分によって醜い内面を隠している少女はある日、一つの特別な出会いを経験する。出会った二人は互いの性質に脅かされ惹かれあい、やがて特別な友人となる。その相手は、少女が隠し続けてきた内面を見抜き、やがて本当の彼女を許してくれる。そうして少女は初めて、自分自身としてこの世界と向き合うことが出来る。
 少女の名前は物語の最後まで出てくることがない。
 出会った相手の名前も、詳細には出てこない。ただ少女はその人物をいつも「あい」と呼ぶ。

 

この続きは、書籍にてお楽しみください