恋人の前でも、バイト仲間の前でも、友達の前でもそうだ。
たった一つの感情に支配され行動している自分を、茜寧は切実に嫌悪していた。
愛されたい。
それは恋心とも、仲間意識とも、友情とも違う、単なる欲だ。
恐らくは生まれた時から持っていたとてつもなく大きなそれに自分が捕まっていると、いつしか茜寧は気がついた。逃げようとしても既に手遅れで、堅牢な檻にも強固な首輪にも思えるその感情は、常に茜寧の反応や行動を見張り、制限した。
趣味も好みも言葉もしぐさも表情も、誰かの視線があれば、愛されたいの監視下で表してしまう。茜寧が自由に出来るのは、内側の理解力や想像力程度のものだった。
本当の自分を脅かし続けるその感情を、茜寧は憎んでいる。
切り刻み捨ててしまいたいが、もし逆らえばどうなるのか。想像すると、心を襲ってくる根っこからの恐怖を感じて、抗う術が茜寧にはなかった。
代わりと言ってはあまりだが、彼女には愛されるための言動を表現出来る能力と、容姿が備わっていた。故に、今まで誰にも、本心を指摘されることなくここまで生きてきてしまった。
今日もいつも通り、愛されたいを選んでしまう。
友人と別れたあと茜寧は丸い模様のついた地面を歩き、大通りへと出た。様々な事情を抱えた人々の波に茜寧も交ざる。列を乱さぬよう、迷惑をかけぬよう気を配り、あくまで景色の一部となれるように、歩く。
歩を進めた先にある、この街で一番大きな交差点の信号は、茜寧が到着する直前に赤へと変わった。
周りの急いでいない人間達と共に、茜寧も立ち止まる。横断歩道の向こうで誰かを待たせてでもいない限り、無理やり走って渡るようなことはしない。
愛されたいは、見知らぬ人々に対しても生き続けている。
知人を相手にした時と比べ濃淡や優先順位はあれど、自ら悪い印象を持たれるような行動を茜寧はしない。
この交差点での選択肢は二つあった。このまま信号が変わるのを待つか、地下道に続く階段へと移動するかだ。どちらでもいい。
考えているうちに十秒ほど経過してしまったので、そのまま待つことにした。
そしてすぐに、二択を間違えたと気がついた。
たくさんの雑音の中から、その音声だけがまるで狙いすましたかのように茜寧の耳に刺さった。
突然不快な音を聞かされた時、人は思わずそちらを見てしまう。
交差点の人間達を見下ろす位置に配置された屋外広告用の巨大なビジョン、そこから、知っているセリフが、本物とはかけはなれた甲高い声によって再生された。
映像は、集中していなければ何が起こっているのかも分からない速さと乱雑さで進んでいき、やがてタイトルロゴが表示される。
『映画、少女のマーチ、真実のあいがここにある』
うるさい、黙れ。
その思いが顔にも声にも出なかったのは、二度と会わない他人にすら愛されたいという感情がやはり過剰に作用したからだ。
茜寧の中にいる少女の気持ちを、誰も知ることはない。
この映画を作った人間は、宣伝に関わった人間は、場違いな俳優達は、果たして本当に小説を読んだのだろうか。
真実のあい、などと、女子高生にでも簡単に思いついてしまえそうなキャッチフレーズを、堂々と商品につけられる感性の死んだ人間に、果たしてあの物語を理解することは出来ているのだろうか。
もう何度でも抱いてきた疑問。どうにかしてやりたいが、どうにも出来るわけがない。少なくとも、愛されたい、の監視下では。
いつもと同じように軽く舌を噛んで自分を慰める。焼石に水でも、やらないよりはましで、癖になっている。
間もなく信号が青に変わる。急いだ車が徐行などでは決してない速さで通り過ぎていく。
前の人間の歩調に合わせ、茜寧も白と灰色の安全地帯へ踏み入る。視線は下げない。他人にぶつかることのないようにでもあるし、俯く自分よりも正面を向く自分の顔が愛らしく見えると知っているからだ。
そうした茜寧の性質を含めた、様々な事情が噛み合った結果としての積み重なりであると捉えるか、単なる偶然だと捉えるかは、立ち会った者次第だ。
「え?」
多くの人間達が自らの背後に過ぎ去っていく途中、茜寧は視界の端で、こちらに歩いてくる一人を見つけた。耳が、雑踏の中で一つの足音を聞いた。
肩にかかる位置までの髪の毛、黒いコート、白いスカート。
弱音を踏み潰すように大きな足音を響かせるブーツ。
そしてその、全ての難事から決して逃げない意志を、宣言するような横顔。
瞬間、茜寧はほんの一瞬ではあるが、愛されたい自分を忘れた。
「あい……?」
茜寧は振り返り、名前を呼んだ。しかし、その声は歩み去っていく相手の背中まで届かず、地面に落ちて誰とも知らぬ誰かに踏まれた。