次の日も茜寧は同じ街にいた。
 放課後わざわざ嫌いな臭いのする街を訪れたのは、バイトの出勤日だったからだ。嫌いな街でバイトをしている理由は、親が知り合いの目の届く場所で働くことを娘に望んでいたからだ。バイト先では茜寧の幼馴染おさななじみが社員として働いている。
 交差点を抜け、昨日待ち合わせ場所に使ったのとは違うCDショップの脇を通る。その先を左に折れて緩やかな坂を上れば、茜寧が働く書店がある。茜寧のシフトは週二日か三日、平日なら夕方四時半から夜の八時半まで、土日であれば朝九時四十五分からの四時間か、もしくは昼一時四十五分からの四時間となる。時給は千五十円。
 出勤直前、完璧に身だしなみを整えあえて二歩手前に戻した茜寧は、きちんと眠そうな顔を作り、賑わう店内に足を踏み入れる。それから映像化で話題となっている本達のコーナーを横切って、売り場と隣接している控え室のドアノブに手をかけた。
「えぅはよございます」
 その日のシフトメンバーによって茜寧は挨拶の崩し方を変える。今日はくだんの幼馴染と店長、よくシフトのかぶる大学生など、茜寧には甘いメンバーだったので、だれた要素を強めに混ぜた。
 控え室内は狭く、誰かがいれば挨拶は確実に届いている。控えめな笑い声が聞こえた方向に、茜寧は顔を見せた。
「眠そうな顔してるなー、眼鏡もずり落ちてるし」
「だって朝から授業受けてんだよー、眠いよー」
 年上の幼馴染に向けて甘える声を出すと、彼女はあめをくれた。茜寧は礼を言って封を開け、口に入れる。その後「すっぱ」とつぶやき、まぶたを上げる。いかにも、あなたのおかげでちょっと目が覚めました、というように。
 更衣室で制服からバイト用の上下に着替え、エプロンを着ける。口の中の飴はティッシュにくるんでごみ箱に捨てた。
 開店中、茜寧の仕事は主にレジ打ちだ。店長に声をかけると早速レジに入るよう指示された。先に出勤していたバイト大学生にもしっかり挨拶をして、茜寧は大人しく指定の位置にスタンバイする。
 レジの中で連絡帳を読んでいると、早くも一人目の客が茜寧の前に立った。
 上品な服装の婦人が持ってきたのは、青い表紙に可愛いフォントの文庫本、『少女のマーチ』だ。
「こちらカバーはおつけしますか?」
「お願いします。袋もつけてくださる?」
「かしこまりましたー」
 茜寧は相手を不快にさせない程度の声量と、子どもの初々ういういしさを残したような滑舌かつぜつを用いる。カバーは、丁寧さよりも迅速さを優先させた手つきで本に巻き付けた。
「ありがとうございましたー」
 頭を下げたあと、次の客が十秒以上来なければ、レジ回りの彩度が一つ落ちるような感覚を茜寧は抱く。あやふやな落ち込みに表情を引きずられないよう努力するのも、彼女にとって大切なことだった。
糸林いとばやしさん、さっきのお客さんが買っていった小説読んだ?」
 もう一つのレジに立っていたバイト大学生が声をかけてきた。茜寧は「え?」と反応し、会話が始まる予兆にわくわくしているような顔を隣の彼に向ける。
「さっきの小説?」
 なんの話題かは分かっていた。けれど、彼が自発的に会話したいタイプなのもバイト仲間としてきちんと分かっていた。
「そうそう、『少女のマーチ』」
 彼の意気揚々としたしやべりだしに、茜寧は過剰な表情を作る。
「あ、読みました読みましたっ」
「どうだった? ちなみに俺は、個人的には普通だった。けど、売れてるのも分かる。あのふわふわした感じが好きな人もたくさんいそうっていうか」
 質問をしたくせに自分から語りだす様子を見て、茜寧は彼をうらやましく思った。とらわれていないのだ。
「私は好きでしたよ。綺麗なお話ですよね、小説なのに絵本みたいだし、童謡みたいっていうか」
 好き、なんて軽薄な言葉を使ってしまった自分に、茜寧は舌を一度噛む。
「映画、今週末からだっけ? 糸林さん見に行く?」
「え、二人でですか? 西尾にしおさんがおごってくれるなら考えようかな」
 西尾は軽く噴き出して、照れた様子で腕を組んだ。
「そういう意味で言ったんじゃないよ。今の女子高生はちゃっかりしてるなあ」
「なーんだ」
 言いつつ、彼がバイト先の女子高生を二人きりでどこかに誘う人間じゃないことくらい、分かっていた。反応を見る限り、今しがたのやりとりはどうやら彼に好印象を与えたようで、茜寧は居心地の良さを覚える。
 そういう自分の感情に、死にたくなった。
 この日、茜寧は何度も『少女のマーチ』の会計をした。