──「悔しいやん、その人は楽しそうな人がいやなんやから。攻撃されて悲しそうにしたら余計相手を喜ばすだけやん、そんな壺から出よ。あんたには、あんたの『ありたい姿』があるはずや」
(「4章 わたし、社会人」より)

 

 東京は確かに輝いているけれど、それはガラスの反射のようにピカピカしたもので、なんだか突き刺さる。わたしにとっていちばんの都会だった四条河原町よりもっと大きな街が各駅ごとに広がっていて、歩いても歩いても壁のようなビルが空を隠して、そのほとんどが灰色で、道も灰色で、歩いている人も表情がどんよりしている。
 子どものころから一人で過ごすことが多かったから、一人暮らしはなんともないと思っていた。でも、机に置かれた砂糖水のグラスとか、「今日はハンバーグやで」と書かれたメモとか、トラの「エッ、エッ」という声とか、そういうものがなにもないということが、ほんとうの「一人」ということなのだ。誰もいなかった場所に、実はいつも誰かがいたのだと、今になってわたしは気づいた。
 家に帰ると、電子レンジの窓からレトルトのご飯を覗く二分すら長く感じる。
 即席のお味噌汁だってけっこうおいしくなったよね、コンビニのお惣菜だってなかなかのもんだよね、プラスチックのパックからそのまま食べれば、洗い物なしで超便利だし一人暮らしはこれでいいよね、と思う。手間がかからなくなると、食事は一気にエサになっていくのだけど、そのことに気づかないようにわたしはひたすらに、そう思う。
 電子レンジがチンという。そのとき、電話が鳴った。
 ママからだった。
 そういえば、ここしばらくママは忙しそうで、声を聞くのは久しぶりだった。
 電話をかけてもママは出なかったし、かかってくることもなかったから、きっと男と揉めたり熱くなったりしていたに違いなかった。娘は東京で一人で戦っているのに、いつだってママは子どもを放置するんだ。こんどこそグレてやる!
「なにママ?」そっけない態度で電話に出たら、
「元気か?」となんか、えへへと照れたように笑うママの声が耳に届く。
「なんなん? どこに行ってたん?」
「いたよ、ちゃんと」
「こっち大変やねんで……」
 もう、大人になっているのだから、ママにぶつけることも、ママに頼ることも、ほんとうはおかしいのだとわかっている。けれど、久しぶりにママの声を聞いていたら、だらしなく脱ぎ捨ててあったパジャマを顔に当てたとたん、嗚咽が止まらなくなった。
 ママはなんにもいわずに、わたしが洟をすする音を聞いている。
 ママの息遣いがわたしの耳から全身にいきわたって、ぐるぐると抱きしめているようだった。
 しばらくして「実は……」ママに加藤さんのことを話すと、ママは「ふ~ん。そりゃ、いけずな女に当たったな~」と大笑いし始めた。
 こんな泣いているのに笑うことないやん! と言い返すわたしも、つられてふふっと笑ってしまう。
「『ふっ』程度で傷けられるなんて悔しないの? 『ふっ』程度やで」ともう一回ママは、がはははと笑う。
 受話器から聞こえるママの笑い声は、神社で巫女さんが鳴らす鈴みたいに、わたしの心を清めてくれる。
「思う壺やん、相手の」
「おもうつぼ?」
「うん、あんたは確かに被害を受けたかもしれへんけど、なんで、憎たらしいいけず女のせいで苦しまなあかんの? もし、相手があんたを嫌いでそんなことしていたら、それは相手の思う壺やろ? わざわざ、相手の壺に入るのはアホらしいわ」
「はあ……」
「悔しいやん、その人は楽しそうな人がいやなんやから。攻撃されて悲しそうにしたら余計相手を喜ばすだけやん、そんな壺から出よ。あんたには、あんたの『ありたい姿』があるはずや。相手の思う壺に入ってめそめそした自分でいたいんか?」
「ちゃう」
「そうやろ。どうせ入るなら、ママの壺貸そか?」
「いらんわ」だんだん面白くなってくるのがマママジックだ。
「自分の壺がええな。なああんたはどうありたいの?」
「どうって……」
「明るく、笑って、楽しんで幸せでいたいんちゃうの?」
「うん……」
「ママもいっつもそう思っている。あんたに明るく、笑っていて欲しい、それはあんたの壺。ママとまったく同じ壺や。だから相手の壺から出れるか?」
「わかった。そうする」
「うん」
 一瞬静かになったので、わたしは大急ぎでほっぺたについた涙をなめていう。
「そやけど、ものすごいいじわるな顔やねん。右側の口角だけ上げて、目とか据わってて」
「それはすごい顔やな。その人なあ、どんどん意地悪な顔になってくるで」
「もうけっこう意地悪な顔になってる、普段からやねん」
「女の子やのに残念やなあ。でもそんな人、仕方ないけどぎょうさんいるから。自分がイライラすることや、受け入れられないことばかりに目がいって、ずっと怒ったはるんや。ずっと不愉快なんや。だからその人の影響を受けて相手の壺に入ったらあかんってことや。あんたな、ひょうひょうとしてなさい。それで、その人の顔見るたびに心のなかでお経でも唱えとき、壺から出る呪文や」
「ママ、お経覚えてんの?」
 受話器から一瞬ママの声が消えたと思ったら、すぐにこう聞こえた。
「なむあみだぶつ……しかわからへんわ」
「えっ、」
「わからへんから、なむあみだぶつの……うんと、そや、ありがとうにしよ」
「え、ありがとうもつける?」
「うん、うちの娘を強くしてくれて、ありがとうや」
 ママは小さな声で、一人でぶつぶつと自分のつくった呪文を唱えてみせた。
 それから「だいじょうぶやから」と、浮き輪の空気が抜けるときみたいな独り言をいった。

 そんな簡単に人は変わらないけれど、ママのその呪文は、少なくともわたしには効果があった。ぐずぐず泣いて落ち込んでいる姿こそが「相手の思う壺」なんて聞いたら、そんな壺に入るのは断固拒否したくなる。何回も呪文を唱えながら、ときには笑ってみせることだってできた。そんなことを続けていると、辛い言葉で突き刺されても加藤さんの顔を見つめて「やっぱりそうですよね、すみません!」と次第に明るく返せるようにもなったのだ。
 ある日、わたしは思いきって、書類を抱えて会議室に向かう背中に「あ、あの加藤さん!」と呼びかけた。
「は? なによ大きな声で」
「わたし、どうしたら加藤さんと……」
「なによ」
「いや、あの……わたしの母はスナックやっているんですけど、そ、その母が加藤さんに『ありがとう』っていいなさいって……」
「はっ?」
「あのなので、ありがとうって……」
 言葉に詰まって声にならない。わたしが口をパクパクさせていると「なによ……」と加藤さんはいつもよりずいぶん弱めの語尾で会議室に入っていった。
”なむあみだぶつ”の部分は、わたしとママだけの秘密だ。

 

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