欅台高校から家までの二十分ほどの距離を、自転車を飛ばして十五分で走った。
 自転車の鍵を乱暴に引き抜き、コンクリートの外階段を上る。母と二人で暮らす部屋は、築三十年のアパートの二階にあった。
 狭い玄関でスニーカーを脱ぎ捨て、ダイニングに続くドアを開けた。流しの下の収納からカップラーメンを一つ取り出す。それから電気ケトルに水を流し込み、スイッチを入れた。昼食をとるタイミングを逃していたため、ひどく空腹だった。
 室内は冷え冷えとしていた。自転車をこいで火照っていた身体の熱が、急激に奪われていく。暖房をつけるかどうか逡巡してから、ラーメンを食べればあたたかくなるだろうと思い込むことにして、リモコンを冷蔵庫の上に戻した。
 そういえば、昨日の昼食もカップラーメンだった。夕食も、夜食もだ。今朝は、コンビニで買ってきたパンを二つ。
 ――とても正直に報告できないな。
 病院のベッドに寝ている母の青白い顔を思い浮かべながら、沸騰したお湯をカップラーメンの容器へと注いだ。
 母がいるときは窮屈に感じていた2DKの間取りは、一人だと贅沢すぎるように思えた。一応、食事はダイニングでとり、寝るときやテレビゲームをするときは自室であるフローリングの六畳間に引っ込んでいるが、用途ごとに部屋を分ける必要性が特に感じられない。母が寝室として使っていた四畳半の和室は、丸々余ってしまっていた。
 母は、欅台高校で起こっている騒ぎに気がついているだろうか。
 インターネットには疎いから、まだ知らないかもしれない。さっき校門の前にいた記者たちが新聞記事を書いたり、テレビで報道されたりすれば、きっと母の耳にも届くだろう。その場合は、慣れないスマートフォンを操作してメッセージを送ってくるはずだ。
 三分待っている間に、水口里紗子という若い女教師のことを思い出そうとした。
 ただ英語の授業を受けていただけだ。その授業さえ、黒川はサボりがちだった。担任だったこともなく、ほとんど言葉を交わしたこともない。
 いや、一度くらいは声をかけられたことがあった。
 あれは一年生の終わり頃だったろうか。珍しく登校した日にたまたま廊下ですれ違い、「あっ、不良くん!」と大声で呼び止められたのだ。「この間のテスト見たけどさ、意外と英語できるんだね。大学は受けないの?」とあっけらかんと尋ねてきた水口の態度に仰天した記憶がある。
 外見が派手で言葉遣いもぞんざいな水口里紗子は、教師の中ではいわば異端者だった。だからこそ、はみ出し者の黒川を偏見の目で見ることなく、むしろ好意的な視線を向けてきたのかもしれない。
 悪い教師ではなかったな、と思う。
 誘拐監禁事件に巻き込まれたのは、さすがに気の毒だ。
 すでに三分が経過していたことに気づき、慌ててカップラーメンの蓋を開けた。麺をほぐして食べ始めると、だんだんと身体が内側から温まってきた。立ち上っている湯気に顔を突っ込むようにしながら、ずずっと啜る。
 容器の中身は、あっという間に空になった。もう一杯作るかどうか迷っていると、誰かが外階段を上ってくる足音が聞こえてきた。玄関のほうで、郵便受けが開閉する音がする。溜まっていたチラシ類がドサリと落ちる音と、配達員が階段を下って去っていく足音が続いた。
 そういえば、ここ数日、郵便物を一度も取っていなかった。
 重い腰を上げ、玄関へと向かう。スニーカーの上に散らばっているチラシ類を拾い集め、挟まっているものがないか確認するために郵便受けを人差し指の先で押した。
 はらりと、白い封筒が舞い落ちた。
 宛名が『黒川良樹様』となっているのに気づき、眉を寄せて封筒を拾い上げる。自分宛てに手紙が来るのは珍しかった。横長の封筒の左上には切手が貼られていて、消印が押されていた。
 ひっくり返し、裏を見た。差出人の名前はなかった。
 ダイニングに戻り、チラシの山をテーブルの上に投げ出した。郵便の封を破り、中に入っていた一枚の紙を取り出す。
 何の変哲もないコピー用紙だった。折りたたまれた紙を開くと、そこには短い文章が印刷されていた。

『三月四日(月)午後二時
 この手紙を受け取った四名の生徒は欅台高校の体育館裏に集合のこと
 誘拐の謎を解け
 真相は君たちにしか分からない
                               C』

 

 

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