入学式の翌日、「その髪の色は何だ」と、校門の前に立っていた生活指導担当の教師に突然首根っこをつかまれたことを思い出す。その後校長室に連れていかれ、頭を下げて謝罪するまで延々と説教をされた。
 地毛だという主張は認められなかった。それを証明するためには保護者が届出書を提出する必要があるという校長の説明があまりにバカバカしく、その次の日から一週間学校を休んだ。地毛証明書なる書類は、校長室を出た直後にわざと廊下に落としてきたから、家に持ち帰ってさえいない。
「俺、生活指導担当じゃなくて本当によかったわ」
 やる気のない声を発し、伊藤は椅子の背にもたれかかった。両手を広げ、うーんと声を漏らしながら大きく伸びをする。
 黒川も視線を逸らし、生徒指導室の中を見回した。細長い部屋の両側には木製の本棚が据えつけられていて、主要な大学の過去問題集や入学パンフレットがずらりと並んでいる。壁にかかっているコルクボードには、各種奨学金の情報や公募推薦の案内が無造作に貼られていた。
「入試、ちゃんと受けに行ったんだろ」
 伊藤に訊かれ、無言で一つ頷いた。
「合格してもしなくても、ちゃんと連絡しろよ」
「分かってる」
「合格発表は卒業式の翌日だったな」
 そっけなく「ああ」と答え、再び過去問題集の赤い背表紙に視線を滑らせた。
「卒業式まであと三日か。黒川にはずいぶんと苦労させられたけど、なんだか寂しいな」
 伊藤が腕を組み、目をつむりながらしみじみと呟いた。
「たった一年間だったけど、山あり谷あり、だったな。というよりは、谷底から富士山に這い上った感じか。y=x2のグラフの第一象限的な。いや、y=2(x-2)2くらいかな」
「数学教師っぽい喩え方はやめろよ」
「ちなみにグラフの最小値は、六月に起きた不良グループ摘発事件な」
 黒川の卒業は、担任である伊藤の奔走と努力なしには到底実現しえなかった。そのことは、よく分かっている。
 大学院を出て教職に就いた直後にいきなり自分のような不登校気味の問題児を抱え、伊藤はさぞ困惑したことだろう。新卒を初っ端から三年生の担任に据えるという、生徒だけでなく教師に対してもスパルタな私立高校に就職したことを後悔したかもしれない。
 それでも、伊藤は全力で向き合ってくれた。黒川が学校を休んだ日にテスト範囲が発表されると、担当外の教科の情報も併せて教えてくれた。黒川の教科ごとの出席時数を細かく確認し、足りなくなりそうな場合はすぐに連絡してくれた。「授業をサボりたくなったらとりあえず数学を休め。補習なら後でしてやるから」という先輩教師に殴られそうな台詞を吐き、その言葉どおりに特別授業を開講してくれた。
 黒川が伊藤に心を許していく過程では、九か月前までつるんでいた不良高校の生徒たちが大麻所持で一斉摘発されるという大事件もあった。
「あのときは……迷惑をかけたな」
「おお、さすがの黒川も自覚してるか。なら、卒業したら俺に焼肉でも奢れよ」
「別に今日でもいいよ。やることなくて暇だし」
「いやダメだ」
「なんで」
「教師と生徒の間だとパワハラが成立しちゃうだろ。ん? アカハラっていうんだっけか」
 伊藤がポケットからスマートフォンを取り出し、操作し始める。ハラスメントの正確な定義でも調べているのだろう。どっちでも変わらないし、話の発端が焼肉だと思うと心底どうでもいい。
 いずれにせよ、黒川が伊藤に救われたというのは、動かしがたい事実だ。
 三年生の六月、グループの集まりにすっかり顔を出さなくなっていた黒川は、かつての仲間たちからしつこく呼び出しを食らっていた。それを無視し続けていると、突然警察が事情聴取にやってきた。勝手にグループを抜けたことへの報復として、大麻所持で捕まったメンバーが黒川の名前を警察に密告したようだった。
 そのことは、学校にもすぐに伝わった。血相を変えた理事長や校長に呼び出され、当時まだ社会人三か月目だった伊藤は相当肝を冷やしたはずだ。あのとき、伊藤が黒川の「やってない」という発言を無条件に信じ、改心を証言してくれていなかったら、今ごろ冤罪で捕まっていたかもしれない。
「先生」
「ん?」
「腹減ったわ」
「ああそうか、もう昼休みに入ってたな。では、解散で」伊藤も空腹だったのか、あっさりと椅子から立ち上がった。「二時から卒業式の予行演習だから、遅れないようにな」
「参加は任意だろ」
「それは今日入試がある奴だけだ。サボるんじゃないぞ」
 伊藤に言われると、なんとなく断りづらい。
 生徒指導室の扉を開け、廊下に出る。伊藤と二人で向かい合うのが精一杯という狭い空間は嫌いではなかったが、職員室の隣という位置はいただけなかった。理事長室や校長室の扉も並んでいるこの廊下は、大人に取り囲まれているかのような圧迫感に満ちている。
 職員室の入り口近くの壁には、銅製の校訓額が掲げられていた。暑苦しい標語が、堂々とした文字で彫られている。
『高校時代の一日は大人の一か月』
『見える山すべてに登り切れ』
 中でも一番上の目立つ場所に刻まれているのは、小菅理事長が全校朝礼で前に立つたびに口にしている教育理念だった。
『一人一人に居場所を』
 ホームページに謳われていたこの言葉に母親が感銘を受けたのが、私立欅台高校に入学することになったきっかけだった。中学の頃の黒川は、自分の進路について無関心だった。母の勧めのままに入学してしまってから、大失敗だったと何度も後悔した。
「先生はさ、どうしてこの学校に就職したわけ」
「え? 突然何だよ」
「このかっこつけてる校訓とかさ、むかつかない?」
 校訓額を指差し、吐き捨てた。
「理事長の美談も押しつけがましいしさ。『私は高校時代をきちんと過ごさなかったから後悔した』とか、『私はレ・ミゼラブルの主人公ジャン・バルジャンのように、貧しさに耐えかねてパンを盗んでしまったこともある』とか、嘘か本当か分からないことを全校朝礼のたびに延々と語るじゃん」
「やめろって」
「校長も、理事長のご機嫌取りばっかだしな。『理事長が見たときに幻滅しないように』って生徒の服装や頭髪について厳しく文句を言ったり、『理事長が目指している文武両道を体現しよう』とか言って全校生徒に十キロマラソンを強要したり」
「おいおい」
「しかも、制限時間内に走り終わらなかった奴は全員、放課後に校長室で小一時間の説教。体調悪かった奴も含めてだぜ。それでさらに気持ち悪くなって倒れる生徒が出るんだから、害悪でしかない」
「おい、職員室の前だぞ」
 伊藤が身を震わせ、黒川の肩をつかんだまま左右を見回す。他の教師の影が見えないことを確認した伊藤は、長い安堵のため息をついた。
「息苦しい学校だったな」
 校訓額を眺めながら、またぽつりと呟く。
 一人一人に居場所を。
 一見あたたかい教育理念だが、その実態は常軌を逸していた。